No.1-10 夜襲
男たちの笑い声が、すぐ後ろで響く。
鼻につく酒臭さと、窓から忍び込む土の匂いが混ざって、吐き気がした。
逃げられない。
背後から腕を掴まれ、押さえ込まれたまま、喉元には、冷たい刃。
もうひとりの男の腕の中で、妹が──ぐったりと、垂れたまま。
その向こうで、名医が、フラスコを握りしめたまま、男たちを睨みつけている。
「余計な手間をかけさせやがってぇ」
「お前がしっかり押さえねぇからだろうが、グズ」
「いひひ、すいませんって」
「次はねぇからな」
「でも、ほらぁ……このチビガキ、売れば結構な値が付くんじゃ?」
男が、ハルの身体を片手で乱暴に持ち上げた。
ぶら下がった細い足が頼りなく揺れて、苦しそうな息が、小さく漏れる。
「やめ─ッ、げほ、ぅ……!!」
叫んだ瞬間、横から、腹へ蹴りがめり込んだ。
肺の空気が、一気に押し出される。
拘束が緩んだ隙に、くの字に折れて床へ崩れ落ち、背骨に、鈍い衝撃が走った。
「ノアッ!!」
弾かれたように、名医が一歩、踏み出しかけた。
「おい、クソ医者は動くな。大人しくしていろ」
乾いた金属音。銃口が、ぴたりと名医を捉える。
踏み出しかけた足が止まり、揺れた白衣が、力なく落ちる。
それを満足そうに眺めて、男がニヤニヤと嗤う。
「新鮮な肉は需要があるし、女はすぐに買い手がつくからなぁ」
男が鼻で笑って、抱えていたハルの髪を、無造作に引っ掴む。
「お前は、馬鹿だな」
離せ。やめろ。
大切な妹を、そんなふうに触るな。
痛む身体を引きずって、男の足へしがみつく。
けれど男は、煩わしそうに眉を顰めただけだった。
「病持ちのガキなんて、ただのゴミにしかならねぇよッ!!!」
「っ、がは!!」
縋りつく腕を振り払い、男の足が、今度は脇腹を踏みつけた。
体重をかけられた脇腹が、息を吸うたび、みしりと鳴る。
拳銃の男が、銃口を名医へ突きつけたまま、嗤う。
「クソ医者も、どうせ死ぬゴミなんか、放っておけば良かったんだよ」
「……」
名医は、答えなかった。
男たちを見据えたまま、手の中のフラスコだけを、握りしめている。
「森で、ガキと一緒に薬草漁ってたよなぁ」
くつ、と喉を鳴らして、男はハルを抱えた腕を、軽く揺すった。
「なるほどなぁ、と思ってよ。こんな病気のガキ、わざわざ治してやろうってんだろ?」
ぐったりと力の抜けた身体は、男の腕の中で、抗うことも知らないままだった。
「いいこと考えた──これで治す必要もなくなるぜ」
言うが早いか、ごつごつした指が、幼い喉へ食い込んだ。
ぎち、と。
幼い首が、嫌な音を立てて軋む。
「ハル……ッ!!」
藻掻こうにも、背に乗った重みが、僕を床へ縫い止める。
妹が、目の前で。
それなのに僕は、指の一本さえ、動かすことが出来ない。
「─……」
その時だった。
名医が、何かを呟いたのだ。
踏みつけられたまま、僕は、声の方へ顔を向ける。
彼の瞳が、まっすぐに男を見据えていた。
「目の前の患者を見捨てる医者がおるか!!!」
次の瞬間。
男の顔面めがけて、フラスコを思い切り、ぶん投げた────。
──
─
「うぎゃあぁぁ!!」
「ッ、兄貴!!?」
フラスコが顔面で砕けて、男が大きく仰け反る。
その腕から、ハルの小さな身体が、ずるりと滑り落ちた。
砕けた硝子の中身が、僕のすぐ横へ跳ねる。
「─これ」
忘れる、わけがなかった。
だってこれは。
名医さんが、ずっと作っていた──大切な。
「ノア!!! こっち!!」
鋭い声が、薬へ吸い寄せられかけた意識を、引き剥がした。
「ッ!」
床に倒れたハルへ、慌てて駆け寄る。
浅い息が、腕の中で、かすかに上下した。
そのまま抱えて、転がるように、男たちから距離を取る。
「息、止めとき」
声のした方を見ると、僕と入れ替わりに、名医が部屋の隅へ飛び出していた。
そして、机の濁った液体の瓶を、数本まとめて拾い上げる。
あ。それって──。
「──薬欲しいんやろ、とびっきりの薬やるわ」
そう言って彼は、屈託のない笑顔で、瓶を放った。
弧を描いた数本が、男たちの足元で、一斉に砕け散る。
「ぎゃぁぁああぁ!!?」
「うぎゃぁあ! はな、鼻がぁ!! もげるぅう!!」
硝子の割れる音と共に、凄まじい悪臭が、一気に部屋へ広がった。
離れた場所にいる僕ですら、思わず顔を顰めるほどだ。
それをまともに浴びた男たちは、嗚咽を繰り返しながら、壁へぶつかるようにして逃げ惑っている。
「ぅがぁぁあ!!! ふざけるなよぉお!!」
「それはこっちの台詞や、あほ」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔のまま、男が拳銃を乱射する。
反射的にハルを抱え直し、近くの机の陰へ転がり込んだ。
「くそがぁ!! 死ね!!!!」
狙いの定まらない弾が、あちこちで爆ぜて、木片を弾き飛ばす。
名医は身を低くして掻い潜り、そのまま、こちらへ滑り込んで来た。
「話は後や。家から……出、て─……ッ」
捲し立てるような言葉が、ふいに途切れた。
何かに気づいたみたいに、その目が、見開かれる。
「え!! ちょっ……!?」
直後、彼は弾かれたように、部屋の奥へ駆け出していった。
──なんで。一体、どこに行くんだ。
「ッ、さっさと死ね!!」
男が怒鳴りながら、銃口を振り回す。
破裂音が狭い室内を揺らして、耳の奥が、びり、と痺れた。
それでも、名医は止まらない。
でたらめに飛ぶ弾を掻い潜り、一息に間合いを詰める。
近くの本を一冊掴み上げると、拳銃男の顔面へ、思い切り叩きつけた。
「ぐぁッ!?」
「病人おる部屋で発砲すんなや」
吐き捨てながら、名医の手が机の上を素早く探ると、何か小さなものを握り込んだ。
直後、視界の端で、影が揺れた。
悪臭に悶えていたはずの男が、ナイフを振りかざして、飛びかかる。
「後ろ!!!」
「っ!?」
名医は咄嗟に身を捻った。
振り下ろされた刃が、白衣の裾を裂きながら、空を切る。
「いひひひ!!! 逃げんなよぉぉ!!!」
刃を逃れた勢いで、軸足が滑る。
体勢を崩したところへ、男の拳が、鳩尾へ深くめり込んだ。
「ッんぎゃ!!?」
為す術もなく、名医の身体が、床へ叩きつけられる。
まずい──。
「死んどけや、クソ医者ぁ!!」
男が、ナイフを振り上げた。
鈍く光る刃が、名医めがけて、振り下ろされる。
だめ。
だめだ。だめ。だめ。ダメ。
このままだと。彼が。
刺され──。
「──……─!!!!?」
あれ。
名医さんが、何か叫んでいる。
なんでだろう。
声が、ひどく、遠くに聞こえる。
「ぁ、……?」
腹の奥へ、焼けるような熱が走った。
刃が肉を裂く感触が、身体の中に、広がっていく。
「──いひ─ひひひ!!!」
男がゲラゲラ笑いながら、僕の腹からナイフを引き抜くのが、見えた。
ぐちゅ、と嫌な感触が、腹を掻き回す。
熱いものが、どろりと溢れ出して。
視界がぐらりと揺れると、足から、一気に力が抜けた。
「ノア!!!!」
劈くような名医の声に、僕はようやく、理解した。
ああ。
ぼく、刺されたんだ。




