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No.1-11 名医は匙を投げた

 熱い。

 腹の奥が、燃えるみたいに熱い。


「ぅぐ、カハッ……!」


 口を衝いて出た血が、ぼたぼたと床を叩く。

 遅れて、鉄錆びた匂いが、鼻を刺した。


「ノア!!」


 床に倒れていたはずの名医が、跳ね起きると僕の腕を掴んで、引き寄せた。

 さっきまで僕がいた場所を、刃が薙いだ。空気を裂く音が、耳のすぐ横を通り抜ける。


「邪魔や、ぼけ!!」


 名医が体勢を捻りざま、ナイフ男を蹴り飛ばした。


「ぐぇっ!」


 男の身体が後ろへ吹き飛んで、派手な音を立てて棚へ激突する。

 薬瓶が雪崩みたいに崩れ落ち、硝子片が、床へ散らばった。


「おい! ノア! しっかりせぇ……!」


 その隙に、僕を引き摺るように抱え込んで、机の陰へ滑り込む。

 拳銃の破裂音が、二発。

 頭上で瓶が爆ぜて、砕けた硝子が、ぱらぱらと降り注いだ。


「……ッ、ぶ、じ……良かっ……ハル、は……」


 置いてきて、しまった。

 今すぐ妹の元へ戻りたいのに、体が、思うように動かない。

 じくじくと疼く腹とは裏腹に、手も足も、氷みたいに冷たくなっていく。


「あほ、あほ……!」


 名医は素早く白衣を引き裂くと、僕の傷口へ、きつく巻きつけていく。

 赤く染まっていく布は、途中から変な方向へ捻れていて。

 こんな時なのに、乾いた笑いが、こぼれた。


「なんで、俺を庇ったんよ!?」


 顔をぐしゃりと歪めながら、名医がこちらを見る。

 なんで。なんて、聞かれても。


「だ、って……死んじゃう、って」


 あの時。

 頭が真っ白になって。

 気づいたら、身体が、勝手に動いていたんだ。


「だから、おれ……おれ……」


 いろんな感情がぐちゃぐちゃになって、そのどれもが、上手く言葉にならない。

 溢れる想いの代わりに、涙が、ぼろぼろと落ちた。


「ああ。もう──……」


 小さく、吐き出された声。


 ぐしゃぐしゃに歪んでいた彼の顔から、ふっと、表情が抜け落ちた。

 吊り上がっていた眉も、震えていた声も、嘘みたいに静まっていく。

 その横顔から、いつもの柔らかさが、すっかり消えていた。


「──……人ん家、荒らして」


 彼の指が、床に転がっていた匙を、そっと拾い上げる。

 摘み上げたそれを、指先で、くるりと持ち替えた。


「患者、増やして」


 そして、彼の瞳が、すっと細まると。


「──ほんま、えぇ加減にせぇよ」


 言い終えるより早く、名医が立ち上がる。

 振り抜いた指先から、匙が一閃。

 ランプの火が、突き刺さった切っ先に、ぶつりと消えた。


「うおッ!?」

「な、なんだァ!?」


 怒鳴り声に、硝子を踏み砕く音が混じる。

 突然視界を奪われて、男たちも、好き勝手に暴れているのが分かった。


 僕も、何も見えない。

 どこに誰がいるのかも分からなくて、浅く、息を呑んだ。



「これ、借りるで」



 不意に、耳元で声が聞こえて。

 ──懐が、軽くなった。


「ぇ」


 名医が、僕のナイフを抜き取っていた。

 破れた白衣が、ふっと揺れる気配。

 そのまま、闇へ溶けるみたいに、彼の足音が遠ざかった。



 ひゅ、と。風を裂く音。


 すぐ近くで、何かが、勢いよく切り裂かれた。


「──お薬の時間や」


 どすん、と鈍い衝撃が、足元で響く。

 直後、白い粉が、霧みたいに、ふわりと舞い上がった。

 鼻の奥に、土臭い粉薬の匂いが、つんと差し込んでくる。


「あ゛ぁぁぁ!!!? ゲホッ! ゴホッ!! なんだ!!?」

「うぎゃあ! 兄貴! 蹴らないでくださいよ!!? ゲホッ!! ガハッ!!」


 咳き込む声。何かにぶつかる音。倒れた瓶を蹴飛ばす音。

 怒鳴り声が、暗い部屋に、ぐちゃぐちゃに響く。


「ノア」

「めい、いさん」


 すぐ傍にいたはずの名医の足音が、ふっと遠ざかる。

 そう思った直後には、もう、ハルを抱えて戻ってきていた。


「ハルちゃん連れて、外行き」


 声に導かれて顔を向けると、暗闇の一点が、ほのかに明るい。

 粉の舞う向こう、割れた窓から、月明かりが薄く差し込んでいた。


「んで、離れて。耳、塞いどき」

「名医……さ」

「大丈夫、絶対助けるから」


 そう言って、彼は僕の頭を、ふわりと撫でた。

 その手の温もりが消えた時には、もう、名医は粉薬の闇の中へ、溶け込んでいた。


「〜ッ!」


 一歩踏み出すごとに、腹の奥が、ぐちゃりと熱を噴く。

 視界が霞んで、足がもつれる。

 縺れる足で窓辺まで辿り着くと、小さな身体ごと、外へ倒れ込んだ。


「ぅぐ……ッ!」


 ガラス片と一緒に、地面を転がる。

 それでも腕の中のハルだけは離さず、這うように、その場から遠ざかった。


「ッ、げほ! ごほ!! クソガキ!! どこ行った!!!」

「目くらましか!? こんなものッ!!」


 男たちは、どうやら僕たちが外へ逃げたことに、気づいたらしい。

 咳き込みながら、窓へ近づいてくる物音。


「目くらまし、とちゃうわ」


 その時、すぐ背後で、別の声がした。

 振り返ると割れた窓から、名医がひらりと飛び出してきたところだった。

 不敵な笑みを浮かべて、彼は続ける。


「───粉塵爆発って、知っとるか」


 手袋を歯で引き抜いて、落ちていた木の棒へ被せる。

 マッチを擦りつけると、先端で、小さな炎が膨れ上がった。


「ッ!? ざけんなてめぇ!!! やめ」


 慌てた足音が、窓へ向かって、ばたばたと近づいてくる。


「特製の粉薬───少しは、良心に効くとええな」


 名医が、松明を大きく振りかぶる。

 燃える炎が弧を描いて家の中へ吸い込まれると同時、彼は窓際から飛び退いた。


 咄嗟に僕は、気を失っている妹の耳を塞ぐと、身体ごと、覆い被さる。


 その直後。


 夜の森を、爆発音が、轟いた。




──




 冷たいものが、頬に触れる。


 ぽつり、ぽつり。

 木の葉を伝った雫が、いつの間にか、頬を濡らしはじめていた。


 地面へ仰向けに倒れたまま、重たい瞼を、ゆっくりと持ち上げる。


 薄く滲む視界の先で、名医の家が、炎に包まれているのが見えた。

 窓から噴き出す火は赤黒くうねって、雨に打たれてなお、勢いを増していくようだった。


「……ハ……ル」


 傍で小さな寝息が聞こえて、そちらへ顔を向けると、妹が、力なく横たわっていた。

 顔が赤くて、熱っぽい。

 けれど、大丈夫。ちゃんと、生きている。


 ──ああ。良かった。


「っ」


 気が緩んだ途端、忘れていた腹の傷が、また熱を持って疼きはじめた。


「うぐ、ッ、ぁ……」


 身体は芯まで冷えきっているのに、腹の傷口だけは、脈打つたび、じくじくと疼く。

 恐怖で、奥歯がガチガチと鳴る。止めようとしても、止まらない。


 ぼく、このまま、死───。


 そこまで考えた時。

 霞む視界の端で、何かが、動いた。

 湿った地面を踏む音が、こちらへ近づいてくる。


「ノア─……」


 雨音に混じって、名前を呼ぶ声が聞こえた。

 重たい瞼の隙間から見えたのは、ぼやけた人影だけ。


「め、いぃ……さ」


 けれど名医は、何も答えない。

 いつもの軽口も、笑い声もないまま、僕の腹に巻かれた布を、性急にほどきはじめた。



 一体、なにを。


「……っ、むぐ!?」


 直後、口へ布を突っ込まれて、息が詰まった。

 思わず顔を見上げるが、逆光で、表情はよく見えない。

 けれど、その手にあるものだけは、はっきりと分かった。


 ───ナイフだ。


 炎の揺らぎに呼応するように、赤く染まった銀色の表面が、鈍く光を返している。


 ゆっくりと、その刃が、持ち上がった。


「歯ぁ、食いしばれや」


 なんで。どうして。

 嫌だ。


 声にしようとした時にはもう遅く。


 刃は、迷いなく僕へと振り下ろされた。

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