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No.1-4 意味のない薬

「なんや、自分とちゃうんか」

「はい……」


 脳裏をよぎるのは、有名な医者に告げられた、あの言葉。

 払えるはずもない、莫大な薬代だった。


 両親も、頼れる親戚もいない。

 僕が一日がむしゃらに働いて稼げる額なんて、たかが知れている。

 家財を売り払ったところで、必要な額には、到底届かない。


 このまま何も出来ずに、妹を失うのか。

 それとも、人の道を外れてでも、救うのか。

 二つの地獄を天秤にかけて、僕は、後者を選んだ。


 まさか、その強盗先で出会ったのが医者だったなんて、口が裂けても言えないけれど。


「血を吐いて、倒れた、ねぇ」


 話を聞いた名医は、考え込むように立ち上がり、部屋の奥へ歩いていく。

 進む先の棚は本で埋め尽くされ、まるで本で出来た壁みたいだった。


「へ…?」


 不意に、彼の足元が、ぼすりと不自然に沈んだ。


「うーん、この時期の病ねぇ。何歳?」

「あ、えと、四歳、です」


 よく見れば、棚の下にはクッションがいくつも重ねられ、隙間なく敷き詰められている。

 本を守るためにしては、明らかに過剰な量だ。

 変な家だなと眺めていると、名医がさらに問いを重ねてくる。


「他に症状は?」

「熱が高くて……瞳が充血して、咳も酷くて」

「いつから?」

「二週間くらい前から、突然」


 答えるたび、名医の視線が、本棚の背表紙の上を滑っていく。


「なるほど」


 やがて何か思い当たったのか、近くに立てかけてあった木製の梯子を、本棚の前へ引き寄せる。


「よーいしょっと」


 軽い掛け声と一緒に梯子へ足をかけ、迷いなく上へ登っていく。

 天井近くまで辿り着くと、棚の奥へ腕を差し込み、一冊の本を引き抜いた。

 そして梯子に足をかけたまま、ぱらぱらとページを捲りながら、静かに目を落とし始める。


「─後天性疾患……主症状は嘔血と発熱、加えて結膜充血、それで……」


 ぶつぶつと続く独り言に、完全に意識がそちらへ向いているのが分かった。

 こうなると、自分が手伝えることは何もない。

 ただ待つしかなくて、所在なく、飲みかけの紅茶へ手を伸ばす。


「え」


 ──ぐらり。


 彼の体が、傾いた。


「え、ちょ!! 危なッ!!! ッ!」


叫んだ時にはもう、遅かった。

 梯子から離れた身体が、宙へと投げ出される。

 落ちる──頭が真っ白になって、反射的にぎゅっと目を閉じた。


「…………?」


 しかし、物音も衝撃も、何ひとつ聞こえてこない。


「この成分で炎症を抑えて、必要な材料は…─」


 衝撃を覚悟していた耳に届いたのは、さっきと変わらない、独り言だった。

 息を詰めたまま、おそるおそる目を開ける。


「…………なるほど」


 この為の、クッションか。

 隙間なく敷き詰められたクッションの上に、名医の体が見事に沈み込んでいた。


「それにしても、すごい集中力だな……」


 梯子から落ちた直後だというのに、平然とページをめくり続けている。

 しばらくそうしていた名医は、やがて、ようやく顔を上げた。


「この薬」

「へ?」


 クッションに半分体を沈めたまま、彼は医学書をこちらへ向け、開いたページを見せてくる。

 促されるまま傍へ近づき、身を屈めて覗き込む。


「この薬が─……あれ?」

「んぇ? どうかしたんか?」

「あの、他のお医者さまが教えてくれたものとは、違うんです」

「……ひょっとして、液体薬? 緑色のやつ?」

「あ、そうです! それです!」


 さすが、自称名医を名乗るだけはある。

 曖昧なままの疑問に、間髪入れず答えを返してきた。


「それ、意味ないで」

「え」

「まぁ、間違いでもないんやけどな」


 そう言いながら、彼の表情が、わずかに曇る。


「結膜の充血は引くし、解熱効果もある。でも、肝心の気管支の炎症には効かん。その場しのぎや」

「……それって、つまり」

「当たり前やけど──完治は、せんよ」


 嘘だろ。


 あの医者は、薬を飲めば絶対治ると、そう言った。

 それなのに実際は、症状をごまかすだけの高額な薬を、ずっと買わされ続けるところだったのか。


 言葉にならないまま立ち尽くす僕に、名医が静かに口を開いた。


「生かさず殺さず、養分にされる……医者の風上にも置けんやつやな」

「……そ、んな」


 耳鳴りがした。

 名医の声が、水の中で聞くみたいに遠くなって、膝から力が抜けていく。


「ま、安心せぇ」


 不意に、場違いなくらい軽い声が落ちてきた。

 顔を上げると、名医はさっきと変わらない調子で、こちらを見ている。


「妹さんに効く薬は、俺が作ってやるわ」

「ぇ…ほ、本当ですか…!?」

「俺は名医や。絶対に、嘘はつかんよ」


 思いがけない申し出に、胸の奥でぐちゃぐちゃに渦巻いていた不安が、ふっと軽くなる。

 彼は手元のページを開いて、こちらへ見えるよう医学書を差し出した。


「この薬なら、ちゃんと症状治まるからな」

「妹は……治るんですか?」

「うん、治るで」

「……っ」


 妹が、助かる。

 死ぬかもしれなかった、たった一人の家族が、助かるんだ。


「って、わ! タオル、タオル!」

「え……ぁ」


 慌てた名医の声で、そこでようやく、自分が泣いていることに気づいた。

 鼻の奥が、つんと熱い。遅れて頬をぬるい感触が伝って、ぼたぼたと、手の甲に雫が落ちた。


「ぅう、ぅ゛、俺……ずっと、心配で……」


 日に日に弱っていく妹を見るのは、本当に、生き地獄だった。

 あんなに笑う子だったのに、今は熱に魘されて、目を開けるのも辛そうで。

 苦しげな咳が繰り返されるたび、最悪の光景が脳裏に浮かんで、消えてくれなかった。


「……ぅ゛う」

「えと、えーと、もう大丈夫やて…なっ、安心しぃ」


 ぎこちなく言葉を継ぎながら、名医がそっと、白いタオルを握らせてくれる。


「ほぉーら、ほら、しゃあないから、名医お手製の飴ちゃんも、今なら付けたるからな。二つもあるでぇー、涙も吹き飛ぶ美味さやで」


 そして彼は、ポケットから飴を二つ取り出して、こちらへ差し出してきた。

 滲んだ視界を拭いながら手を伸ばし、どうにかそれを受け取る。


「うぅ……あ、りがとう、ござい、ます」

「ふふ、自分、泣き虫やなぁ」


 本当に、情けない。僕はお兄ちゃんなのに。

 もっと強くならなきゃいけないのに。

 拭っても拭っても、涙は途切れずに落ちてくる。


 ぐい、と腫れぼったい瞼をタオルで押さえて──ふと、手が止まった。


「…名医さん」


 そこで、ひとつの違和感に、気づいてしまったのだ。


「ん? どないしたん?」


 穏やかな笑みを向けてくる彼に、僕は、手にしていたそれを見せる。


「これ」

「あ」


 さっき差し出されたタオル。

 妙にやわらかい布地。どこかおかしな形。指に馴染む、伸びるゴムの感触。


「パンツや」


 さっきまで溢れていた涙が、一気に引っ込んだ。

 代わりに腕が弾けるように動いて、手にしていたそれを、部屋の隅へ叩きつける。


 涙は、吹き飛んだ。


 ついでにパンツも吹き飛んだ。

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