No.1-3 名医、強盗を治療する
「消える、なら」
彼の意識さえ奪えば、全部、なかったことになるじゃないか。
──この家の金も薬も、簡単に手に入る。
「っ、」
──どうせ、忘れるんだ。
あれほど鳴っていた鼓動が、嘘みたいに遠ざかっていく。
懐でナイフを握り直した指先から血の気が引いて、刃の冷たさと自分の体温の境目が、もう分からなかった。
奥歯を噛みしめて、強張った足を、無理やり前へ、踏み出す──。
「足」
「ぴぇ!!?」
踏み出した、はずだった。
なのに踏み出すべき先に、いつのまにか名医が立ち塞がっている。
「な、な、な、なんですか!?」
情けない声を上げて、反射的に身を退いた。その拍子に、懐のナイフから指が離れる。
そんなこちらにはおかまいなしに、名医が距離を詰めてくる。
「足、怪我しとるんか」
「へ」
「左足」
「っ、なんで……」
とっさに左足を、後ろへ隠す。
数日前に痛めて以来、気づかれないよう庇ってきたつもりだったのに。
「んー? 打ち身か? どこにぶつけたん?」
「い、いえ! このくらいっ、ちょ、待っ……!」
名医がひょいと身を屈めたかと思うと、次の瞬間には、もう足首を掴まれていた。
突然のことで踏ん張りきれず、近くに積まれていた麻袋へ、勢いよく倒れ込む。
「おわあぁ!」
肌を刺す乾いた繊維の感触と、むっとする薬草の匂いが、一気に押し寄せた。
「診た感じ、この状態、放っておくと──」
名医は足首に触れたまま、わずかに眉を寄せる。
「死ぬ」
「死ぬの!?」
というか、どう見たって、貴方のほうが死にかけみたいな見た目してますけど。
そう言い返す間もなく、名医は袖をまくり上げ、ようやく足首を掴んでいた手を離した。
「まぁまぁ、大人しく処置されとき」
そのまま棚へ歩み寄る。背伸びをして上段のラベルを覗き、迷いなく数本を抜き取った。
抱え込んだ薬を、足元へひとつずつ並べていく。
「あ、あの、でも僕、お金持ってませんよ」
「おかね? んなもん、いらんわ」
心底どうでもよさそうに言い捨てて、名医は匙で軟膏をすくい上げる。
いくつかの薬を皿の上で混ぜ合わせながら、ご機嫌な鼻歌までこぼし始めた。
「打撲っぼく、ぼっくぼくー、ぼくはー、あっしっー♩」
聞くに堪えない歌を聞き流しながら大人しくしていると、彼は調合を終えた。
出来上がった軟膏を片手に、僕の左足へ触れてくる。
「うーん、これは痛かったやろ」
「別に、このくらい大丈夫です」
「痛いの我慢したら、あかんよ」
「我慢してた訳じゃ……」
大丈夫。大丈夫なのに。
胸の内の言い訳をよそに、彼は傷んだところを確かめるように、優しく触れてくる。
「痛かったら、痛いって、言ってえぇんよ」
言い返そうとした声は、途中で形を失った。
向けられた笑顔があまりにも屈託がなくて、口を噤むしかなかったのだ。
塗り込まれた軟膏の匂いが、つん、と鼻の奥をかすめていく。
「……そう、ですか」
ああ。ああ。
薬と金を出せと脅すつもりだった言葉は、胸の奥でみるみる萎んでいって。
代わりに残ったのは、ひどく居心地の悪い、懐の奥で重たく沈むナイフの存在だけだった。
「おーし、痛いの痛いのォ、とんでけぇ〜♪」
そんなこちらの葛藤など露知らず。
自称名医の歌は、さっきより堂々と音を外しながら、場違いなほど軽やかに響いた。
「っ、ふふ、ふ、僕、そんな子どもじゃないですよ」
「えぇの、えぇの、おまじないみたいなもんやから」
そう言って、名医は包帯を手に取ると、指先で引き延ばし、足首に沿わせるように巻きつけた。
「…」
「ようし、これでバッチリ」
処置を終えると、彼はすっと立ち上がった。
手に残った軟膏や道具をまとめて持ち直し、そのまま棚のほうへ歩いていく。
「名医さん…」
「はよ治るとえぇね」
その呼びかけに、ふわりと穏やかに笑って、応えてくれる。
見ず知らずの僕に、見返りを求めるでもなく、当たり前みたいに処置してくれた。
本当に、ありがたい。
ありがたい、ことなんだけど。
巻き終えたばかりの左足へ、そろりと目を落とす。
「……すいません。包帯、巻き直してもらってもいいですか?」
なんで。
包帯を巻いただけなのに、どうして両足が複雑に絡まってるんですか。
もはや芸術と言いたくなるそれは、僕の足首を、あらぬ方向へねじ曲げていて。
この家に来た時よりも、痛みが増したような気さえした──。
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芸術的包帯を巻き直してもらうと(結局、ほとんど自分でやったけれど)名医は湯を沸かして、茶を淹れてくれた。
記憶は消えても、治療や日々の暮らしに困らない程度のことは、体が覚えているらしい。
差し出された紅茶を、両手で受け取る。
「それで、自分はその足の処置に来たんか?」
「あー……いや、その……」
まっすぐな瞳に、情けない僕が映り込む。
居心地の悪さに目を伏せると、視界に入ったのは、先程手当てされたばかりの左足首だった。
「……」
医者なら、本当のことを話してもいいんじゃないか。きっと、追い返されたりはしないはず。
そう思って、ゆっくりと顔を上げる。
彼は急かすでもなく、僕の言葉を待っていた。
ひとつ、唾を飲み込む。
「薬、が欲しいんです……」
「薬?」
彼は一度ぱちりと瞬きをして、静かにこちらへ向き直った。
「──血を吐いて倒れた妹の薬が」




