No.1-2 強盗、名医を治療する
医者でもない僕に、専門的なことなんて何ひとつ分からない。
それでも、血だらけの彼をこのまま放っておいたらまずい、ということくらいは分かる。
幸か不幸か、すでに窓は割れている。
その隙間から侵入し、玄関を開けて、自称名医のその人を中へと運び込んだ。
「ぉ……ぉおお、お、も……っ!」
見た目は華奢なくせに、意識を失った体は驚くほど重い。
足元も覚束なくて、数歩進むごとに踏み直さないと、前へ進めなかった。
「おりゃ……っ!!」
ひとまず目についたソファまで運んで、崩れ落ちるように横たえる。
「えーと、包帯と……消毒も、いるよな……?」
近くの棚に目を走らせた。
瓶にも箱にも、一つ残らず手書きのラベルが貼ってある。
引き出しや棚板にまで、中身を殴り書きした文字が踊っていた。
医者の頭の中は超人離れしていると聞くけれど、よほど几帳面な人なんだろうか。
使えそうなものをかき集めると、駆け足で彼の元へ戻った。
「よし……失礼しますよ」
窓硝子が突き刺さっているように見えた箇所は、よく見れば、ただ髪に絡まっていただけだった。
縫合みたいな難しい処置はいらなそうだと分かって、ほっと小さく息をつく。
「し、染みたり……しないかな」
血で固まりかけた白髪をかき分け、消毒液で湿らせたガーゼで慎重に拭う。
赤みが薄れていくのを確かめながら、傷口を覆うように包帯を巻き重ねた。
「ふぅ……無事で、良かった良かった」
これで一件落着。
使い終えたガーゼと余った包帯を拾い集め、元あった棚へと戻していく。
「……あれ」
ふと、手が止まった。
何か、大切なことを忘れているような──。
「──あ、やべ。強盗、しないと」
そうだった。薬代を手に入れるために、僕はここへ来たはずなのに。
呑気に人命救助して、どうするんだ。逆だろ。
「……ハッ。いや、待てよ……これは、チャンスだ」
視界の端で横たわる、意識の戻らない家主。
しかも僕はすでに侵入済みで、もう鍵をこじ開ける必要もない。
そして何より、ここは医者の家。
──金より先に、薬そのものが、あるかもしれない。
そうだ。神様は、僕を見捨ててなんかいなかったんだ。
「よ、よし」
息を殺して一番近くの棚に近づき、ちらりと後ろを振り返った。
名医はまだ、静かに寝息を立てている。
「失礼しますよー……」
並んだ瓶のラベルを確かめていくが、お目当ての薬は見当たらない。
棚の奥に押し込まれた瓶を、ひとつ引き寄せて持ち上げる。
すると、その下に挟まっていた茶色い紙が、するりと床へ滑り落ちた。
「……なんだ、これ」
この部屋のものは年季の入ったものばかりだけれど、その紙は、ひときわ古びて見えた。
妙に引っかかって、拾い上げ、そっと広げる。
「破損神経の……再生……記録??」
あの人は、どこかの神経が壊れていて、それを治す研究でもしているんだろうか。
「……医者って、いろんなことをするんだな」
結局、書かれている以上のことは分からないまま、紙を元の瓶の下へと差し戻す。
──その、直後だった。
「─……ぅ」
名医が、身じろいだ。
しまった。
数時間とは言わない。せめて、薬を見つけるまでは、眠っていてほしかったのに。
お願いします。まだ起きないで。お願い。
起きないで──……!
「うぅーん……─」
そんな都合のいい願いが叶うわけもなく、翡翠の瞳が、ゆっくりと開いてしまった。
「ふ、わぁ……」
彼はのそりと身を起こし、大きく伸びをする。
そうして、何事もなかったみたいに欠伸をこぼした。
「ッ、お、おはようございます……頭の怪我は、大丈夫ですか?」
こうなっては、仕方ない。
ひとまずこの場を取り繕おうと、裏返った声でぎこちない挨拶を投げた。
「……?」
しかし、返事がない。
欠伸のときに口元へ添えた手が、彼の視線の先で、ぴたりと止まっている。
手袋に滲んだ赤い染みを見ているのかと思ったが──違った。
ただひたすら、自分の掌を、じぃっと見つめている。
「あの」
手袋に、何か書いてあったんだろうか。
「……どうか、しましたか?」
声をかけても、反応はない。
さすがに心配になって、彼の傍へ駆け寄ろうとした。その時。
「─」
何かに急き立てられるみたいに、名医がソファから立ち上がった。
こちらに視線ひとつ寄越すことなく。
奥の部屋へと消えていく。
「わ!? ちょ、まだ安静にしてた方が……!」
呼び止めるように声を上げて、その背中を追いかける。
なんの疑いも警戒もないまま、僕は足を踏み入れた。
「─ッッ、ひぃ……!」
部屋の異様さに、思考より先に、体が竦んだ。
まず目に飛び込んできたのは、壁一面を覆い尽くす、黒い殴り書き。
消した跡の上にまた別の文字が重ねられ、何度も、何度も書き直されて──ぞっとするほど執念じみた歪さが、そこにあった。
「な、なんだ……この部屋……」
天井近くまで積み上がった麻袋から、乾いた草の匂いが、むっと部屋中に籠っている。
床にも机にも、ちぎれた草や紙片が散らばって、まともに物を置く隙間すらない。
「……ぁ」
その奥の机。
名医は何も言わず、ただ一点だけを、じっと見つめていた。
「あの…! たくさん血を流したんですから、まだ、横になっていた方が……!」
そこでやっと、彼の肩がぴくりと反応する。
数秒遅れて顔が上がり、視線がこちらを向いた。
しばらく瞬きもせずに僕を見つめていたが、やがて、不思議そうに首を傾げる。
そして、ぽつりと呟いた。
「──……誰?」
まるで、時間が巻き戻ったみたいだった。
さっきと、同じ顔。同じ声。
「は? 誰って……さっき」
訳の分からない問いに、口元が引き攣る。
言葉の意味が、うまく頭に入ってこない。
「僕のこと、診察希望って……」
おかしい。
ついさっきまで、診察希望だと勘違いして、家に招き入れようとしていた。
それなのに今は、初めて会う人間を見るみたいな目で、こちらを見ている──。
「……どうして」
狼狽える僕を見て、名医が小さく息を漏らした。
彼はもう一度、自分の掌へ目を落とす。
そして、何かに気づいたみたいにゆっくりと頷くと、静かに口を開いた。
「俺は、眠ると──記憶が消える」
記憶が、消える。
頭の中で、その言葉がゆっくりと形を結んでいく。
噛み合うはずのないものが、無理やり繋ぎ合わされていくような、ざらついた感覚。
今こうして向き合っている時間も、交わした言葉も、この人の中から、消えていく。
「そ、んな話……聞いたこと、ないです」
喉の奥が、からからに乾いた。
それ以上、言葉が続かない僕に、名医は静かに、右の掌を向けてみせる。
──お前は忘却する医者だ。薬を作れ。
手袋に、殴り書きのメッセージ。
彼は、机の上の小さなフラスコへ手を伸ばし、そっと持ち上げた。
硝子越しに揺れる透明な液体が、彼の指先で、ゆらりと静かに波打つ。
「この病を治す薬を、俺はずっと、作っとるんよ」
ぽこり、と。
傾いた硝子の中で、小さな泡がひとつ浮かんで、消えた。
僕は、懐のナイフに触れた。




