Karte─No.1-1 はじまり
足音を、殺す。
懐のナイフが、布越しに、肋骨を冷やしていた。
木々の隙間に──古びた木造の家。
今から、僕は、人を殺すかもしれない。
「はぁ……はぁっ、……やっと着いた」
医者も匙を投げる病気だった。
治すには貴重な薬が必要で、僕にはそのお金がなかった。それだけの話だ。
「……金が必要なら───盗むしか、ないんだ」
僕の名前はノア。
この村に住む、十九歳の男だ。
今、人生初の強盗をするために、森の奥の家に来た。
人里から離れた森の奥。この場所を知っているのは、たぶん僕くらいだ。
強盗するには、おあつらえ向きだった。
「こんな辺鄙な場所に住んでるなら…忘れっぽい老人とかだろうし…………ッいくぞ…!」
意を決して、ドアノブに手をかけた。
ぐっと力を込める。しかし、古い金属は、ぎい、と小さく軋むだけで、自分の侵入を拒む。
「う゛…鍵がかかっている」
それはそうだ。
いや、これも想定の範囲内だ。うん。大丈夫。
別に落ち込んでない。
「よ、よし、それじゃあ…窓を割るか」
足元に転がっていた手頃な石を拾い上げると、泥濘んだ土が、指にまとわりついた。
それを軽く払い落としながら、窓へとにじり寄る。
「いくぞ──ッ!」
しかし、振り上げた右腕は、空を切る寸前で。
─────ドゴォォオン!!!!!
家の中から爆発音が轟いた。
叩きつけられるような衝撃に、空気がびりびりと震える。鼓膜の奥がじんと軋んだ。
「ひぃぃぃぃぃぃぃい!!!?」
驚きが抑えきれず、情けない悲鳴が弾けた。
反射的に、一歩後ずさる。
そして、次の瞬間。
──パリィィィィィン!!!!!!
目の前の窓が内側から弾け飛んだ。
空気を裂くような、硝子の砕けた音が響き渡る。砕けた破片が、足元へ降り注ぐ。
粉々の硝子は太陽の光を受けて、きらきらと虹色に反射して、綺麗だった。
「…ッ…な、な、何事!!?」
すさまじい勢いで何かが、窓を突き破って外へ飛び出してきたのだ。
あのまま一歩前に立っていたら直撃していた未来を想像して、口元が勝手に引きつる。
─白い塊。
いや、人だ。
白い服を着た人が、焦げた匂いを撒き散らしながら地面に叩きつけられていたのだ。
そのまま凄まじい速さで転がっていく。
「〜ッ、なるほど! アマランサスくんのサポニンの成分が含まれとるはずやから、もうひとつの薬草と調合すれば、治療の効果も、ぶべらッ!!!」
地面の上を弾かれるように移動しながらも、早口の独り言だけは途切れることはない。
そして、そのままの勢いで、体が近くの大きな岩へと叩きつけられたのだ。
「──…─、こう、か、も、期待できる、から、一つ前に立てた仮説は合っとるはずや、そもそも今回の乾燥した薬草が」
あ。やばい人だ。
窓を突き破っても、岩に激突しても、少しも動じることなく、独り言を続けている。
言葉を失う僕の前で、男は勢いよく跳ね起きた。
「よーし、もっかいやな! 次は分量を──」
小柄なその人は、土まみれになった白髪や洋服を、手袋でぱんぱんと払う。
そうして、煙の立ち上る建物へ戻ろうと、くるりと向きを変えた。
当然、その顔が、こちらを向く。
「増、や……して……」
翡翠の瞳と目が合って。
「──……誰?」
見つかった。
「っ!! あっ、えーと、その……あの」
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
いっそ懐のナイフで脅すか。よし脅そう。
いや、待て。落ち着け。
脅したところで、この広い森に逃げ込まれて終わりだ。
村の衛兵を呼ばれて、僕は国軍に捕まる。人生、終了──。
「んんんんんん???」
「ぼくは、そのぉー」
逃げ道を塞ぐように距離を詰められる。
冷や汗まみれの僕を、頭の天辺から爪先まで、舐めるように視線を巡らせた。
「あ! ひょっとして、診察希望か!」
男はぽんと手を打って、納得したように頷いた。
「診察…希望…」
そっか。白い服、いや、白衣。
この人、医者なんだ。
で、僕は患者だと思われている。強盗だと、気づかれていない。
それどころか、歓迎されている。いい人だ。
「こんな山奥なのに、よお来たなぁ」
優しい。超良い人。
よし。誤魔化そう。全力で誤魔化そう!!!
「はい! そ、そそそうです!」
勢いよく顔を上げながら、その質問に肯定の返事を被せ気味に答える。
その返事を聞くと、彼はわずかに目を細めて、やわらかな笑みを浮かべた。
ぽたり。
「そかそか! もう安心しぃ、俺は名医やからな」
「…は、はい…よろしくお願いします……?」
「よしゃ、中で詳しく聞かせてもらうわ」
ぽたり。
視界の端に、拭えない違和感。
ゆっくりと足元へ視線を落とす。
乾いた土の上に、小さな黒い点がひとつ、確かに滲んでいたのだ。
「んん…?」
ぽたり。
ぽたり。
雨なんて降っていないのに、彼が歩くたび、地面が濡れていく。
滴った跡を辿るように、視線が、足元から上へ。
体。首。そして──。
「ッ!!? ひぃぃい!!?」
「なんや突然大声出して……心配せんでも、どんな怪我でも病気でも、俺が診たるからな」
目を細めたまま手を上げて、こっちへ来いと手招きする。
いや、そうじゃない。違う。違うんだ。
僕は震える指で、彼の頭を指さした。
「あ、あ、頭ぁ!!! めっちゃ血ぃ出てますよ!」
「んえ?」
間の抜けた声が返ってくる。
頭に絡んだ硝子の破片から、つぅ──と血が滲み、輪郭に沿って細く流れ落ちていた。
「ぁ?」
彼はゆっくりと、血の伝う額に触れる。
手袋の指先が赤黒く染まったのをぼんやり眺めて。
それから、にっこりと僕に微笑んだ。
バターン!!
そのまま勢いよく地面へ崩れ落ちた。
「名医ー!!?!?」
叫び声が、森の中に響き渡る。
その音に驚いたのか、木々にとまっていた鳥たちが、一斉に飛び立っていった。
すいません。
この中に、お医者様いらっしゃいますか──。




