Karte─No.3-1 列車の旅は辛いよ
「はぁ!? 嘘だろ!!?」
持ち上げかけたカップが、宙で止まった。揺れる列車の上で、指先だけが間抜けに固まる。
俺の叫びを正面から浴びても、向かいの男は眉ひとつ動かさず、優雅に紅茶をすすっていた。
「それで名前、ヤブ!? ヤブなの!?」
「せやで」
なんでもないことのように頷いて、男は手元のメモ帳に何かを書きつけていく。
ペン先がインクを引きずる音が、車輪の規則的なリズムに紛れて、かすかに届いた。
走っているのは急行列車。イセンスの街を出て、もうどれくらい経っただろう。
通路に面した硝子戸の奥の、こぢんまりとした個室。向かい合わせの座席に、俺とヤブだけが腰を下ろしていた。
窓の外の景色は、いつの間にか牧場地帯へと変わっていた。
柵に沿って、もこもことした毛玉みたいな動物が、並んで草を食んでいる。
「ヤブ医者を撤回してやろうと思ったのに……」
宙に止めていたカップを、ソーサーへ戻す。
俺はもう一度、向かいの男を見据えた。
「のに?」
湯気の向こうから、こちらを覗き込んでくる眼差し。
わざとらしくため息をついて、俺は肩をすくめてみせた。
「文字通り、ヤブ医者じゃねぇか」
チッチッチ。
指を一本立てて、左右に振る。芝居がかった仕草で、ヤブは胸を張った。
「俺は──名医のヤブ医者やで」
ペン先がメモを離れる。ヤブはそれを閉じて、腰の鞄へすべり込ませた。
──ヤブ。
眠るたびに記憶を失う、わけのわからない病を抱えた男。
だったら、ヤブ医者と呼んでいた方が、こっちも色々と都合がいいのかもしれない。
「本名を思い出すまでの仮の名前やけど、えぇ名前やろ?」
「まぁ、確かにいい名前かもな」
ふふん、と鼻を鳴らして、子どもみたいに得意げな笑みを浮かべる。
「せやから、博愛と敬意を込めて呼んでな」
「へーへー。じゃ、ヤブさんね」
返事をしながら、俺は手元の珈琲を覗き込んだ。
揺れに合わせて、表面に薄い波紋が生まれては、消えていく。
「てかさ」
ふと、引っかかっていたことを口にする。
「記憶を失うっても、医学の知識は消えねぇんだな。名前も、昨日のことも忘れんのに、なんで、薬の名前は出てくるんだ?」
カップの縁を指でなぞっていたヤブの手が、そこで止まった。
「…………確かに」
「え。気づいてなかったのかよ」
「……なんでやろなぁ」
他人事みたいに首を傾げて、ヤブは窓の外へ目をやった。
「まぁ、難しいことを覚えておくのはお前に任せるわ」
「色が分かんねぇ俺に、ずいぶん信用したもんだな」
「見えとるもんだけが、全部とちゃうやろ」
そう言って、ヤブは目を細めて笑った。
「いつか眼帯も外せる日が来たらえぇね」
「ああ、まぁ…な」
返す言葉に詰まって、俺は珈琲に口をつけた。
苦さが舌の上に広がって、それから喉の奥へ、静かに落ちていく。
立ちのぼる湯気がまつ毛をくすぐって、目を細めた。
カップを、ソーサーへ戻す。
ちん、と澄んだ音が、車輪のリズムにひとつ重なった。
向かいで、ヤブもカップを置く。
俺のものよりずっと静かに、ほとんど音も立てずに。
「リヒト」
名を呼んだその声から、いつもの軽さが抜け落ちていた。
「うん」
ヤブの視線が、個室のドアの向こうへと流れる。
彼が何を言おうとしているのか、すぐにわかった。
「俺──列車強盗って、生まれて初めてなんやけど」
通路を隔てたドアの向こうで、誰かが慌ただしく走り抜けた。床を伝って、振動が靴の裏まで届く。
続けざまに、短い悲鳴。鉄の壁一枚越しでも、ただ事じゃないとわかる音だった。
「奇遇だな」
俺のこめかみに、硬く冷たいものが、ぴたりと押し当てられた。
その冷たさが、頭の芯まで染みてくる。
視界の端で、ヤブの後頭部にも、同じものが突きつけられているのが見えた。
「俺もだ」
ソーサーに戻したばかりの珈琲が、ひとつ大きく波打って、縁を静かに濡らした。




