No.2-16 それから
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あの夜から、街はずっと、ひとつの報せで持ちきりだった。
奇跡の名医と謳われた、レベッカ医師の、おぞましい悪事。
患者や、街を訪れた旅人を手にかけ、売り捌いていた、診療所。
医薬局も、この件については──。
「おねーさん、サンドイッチ二つ」
「はい」
「あと、珈琲と紅茶もお願い」
「ミルクと砂糖はどうされます?」
「…砂糖だけ」
事件の夜のことを、ぼんやり思い返す。
気を失ったあいつを背負って、近くの診療所へ駆け込んだ。
騒ぎを聞きつけた国軍に、レベッカの診療所の悪行が暴かれるまで、そう時間はかからなかった。
元より、地位も名もあった医者の所業だ。国が黙っているはずもなく。
診療所は閉鎖され、被害に遭った連中の身元を、今も国が洗っているという。
そして、あいつは──。
ただの、気絶だった。
シャンデリアごと落ちてきた時の、あの大量出血。
あれは、砕けた棚にあった、輸血用の血を、頭から被っただけ。
撃ち込まれた弾丸は、胸元に忍ばせていた何かに当たって、運よく逸れたらしい。
医者の世話になることもなく、今は宿のベッドで、ぐっすり眠りこけている。
「早く起きるといいですね、お大事に」
「あぁ、ありがとな」
二つ分のサンドイッチを受け取って、店を出る。
昼の日差しが、まだ高い。
包みを片手に提げて、宿屋への道を歩き出した。
「流石に、そろそろ起きるよな」
今日こそ、言うつもりだった。
あの時、言いそびれた言葉を。
──なぁ。
お前の旅に、俺もついて行ってもいいか。
いや。これは別に、深い意味はなくて。
あいつは、俺の病を知る医者だ。
一緒にいりゃ、治る可能性に賭けられる。
要は、そういう、合理的な話で。
でも、ついて行っても、いいか。か?
なんか、お願いしてるみたいで、据わりが悪い気もしてきた。
「あら、お帰りなさい」
受付から、穏やかな声がかかった。
帳簿から顔を上げた女性が、柔らかく笑う。
俺は、上の空のまま、片手を軽く上げて、それに応えた。
「うーん」
廊下を歩いていると、その途中、壁にかけられた古い鏡が、ふと目に入った。
立ち止まって、覗き込むと、眉間に皺を寄せて、への字に口を曲げた、しけた面。
我ながら、あんまり情けない顔をしていて、笑えてくる。
「……そうだ」
廊下に誰もいないのをいいことに、俺は、鏡に向かって口を開いた。
「──俺もついて行ってもいいか」
いや、やっぱりしっくりこない。
「お前のこと、俺が守ってやるよ」
護衛か。違う。
「ついて行かせてください!」
無理だ。死んでも無理。なんで俺が頭下げてんだ。
「…」
これまで独りで生きてきた身だ。
誰かと旅を共にしたいと思ったのは、初めてで。なんて、言えばいいのか知るはずもない。
ただの知り合い。同じ、旅人。腐れ縁に、命の恩人。
どれも、なんか違う──。
鏡の中の自分が、ますます情けない顔になっていく。
「兄ちゃん、何してるの?」
「うぎゃぁ!?」
いつの間にか、足元で、宿屋の子どもが、きょとんと俺を見上げていた。
昨日、タオルと茶菓子を届けに来た、あの子だ。
鏡に向かってぶつぶつ唸ってる俺を、不思議そうに、下から覗き込んでいたのだ。
「な、なんでもねぇよ!」
「ふーん?」
納得していない顔で、子どもが首を傾げる。
その丸い目が、俺と鏡を、何度か往復した。その時だった。
「いっちゃーん! 早く遊びに行こうよー!」
廊下の向こうから、別の声が飛んできた。
よっちゃん、と呼ばれていた、カフェの子だった。
視線を送ると義手の手をぶんぶん振っている。
「キラキラの石、見つけたんだ!」
「ほんと!? 今行く!」
俺の足元にいた子が、ぱっと顔を輝かせた。
くるりと振り返って、廊下を駆け出していく。
「じゃあね! 真っ黒兄ちゃんも、真っ白兄ちゃんも、お大事に!」
小さな手が、ひらりと振られる。
ぱたぱたと、足音が二つ、遠ざかっていった。
──あ、そうか
なんだ。
そんな、難しく考えることじゃ、なかったのか。
こんなふうに、ただ──。
「……」
恩人だの腐れ縁だのと、ご大層な名前を探して唸っていたのが、急に馬鹿らしくなってくる。
「ま、なるようになるか」
とはいえ、これから本人を前にすると思うと、これが、どうにも落ち着かない。
意味もなく前髪を整えてみたり、サンドイッチの包みを持ち替えてみたり、部屋の前で、一歩、二歩と、行ったり来たりして。
「……よし」
俺は、その扉を、開けた。
「お、おい、起きたか──…って、なんだ。まだ寝てんのかよ」
拍子抜けした。
あれだけ意気込んで扉を開けたのに、当のあいつは、毛布にくるまって寝息を立てている。
ったく、能天気なこった。
俺は、緊張で強張っていた肩から力を抜いて、ずかずかと部屋へ踏み入った。
手にした包みを、ベッド脇のテーブルに置こうと、身を屈める。
その拍子に、伸ばした足の先が、その脚に当たった。
バサリ。
あいつのメモ帳が、床へ滑り落ちる。
「っと、やべ──」
慌てて拾い上げようと手を伸ばす。
ぱらりとめくれたページが、嫌でも目に飛び込んできた。
乱暴なやつ。
目つきの悪い、眼帯さん。
瞳の病気を持ってる。
こいつの病名を当てることになった。
「……あ? 俺のことか?」
字も、汚ねぇし。日記かよ。
「……」
見ちゃいけない。分かってる。
でも、自分のことが書かれているなら、話は別だ。
俺は、メモ帳の一番初めのページを開いた。
──眠ると、俺の記憶は消える。
「は?」
俺は医者だ。
忘却の病を患っている。
その薬を作る旅に出た。
「忘却する、病……?」
その時、不意に思い出した。
初めて会った日、カフェで、こいつが言っていた言葉を。
──恩人の顔を、忘れんで済んだからな。
「……そうか」
あの時は、何を言ってるのか、さっぱり分からなかった。
でも、今なら分かる。
眠れば記憶が消えるこいつにとって、俺の顔を覚えていられたのは、それだけで、特別なことだったのか。
乾いた紙を、一枚、また一枚と、繰っていく。
ムマの村で、家族みたいな大切な存在ができた。
名前は、ノアとハルって子。うれしかった。
俺の病が治って、全部思い出したら、この村に戻ってパーティする。
イセンスの街まで歩く。
薬草、みつけた。
ここらは珍しいのが多い。明日は、奥の森まで行ってみる。
眼帯つけてる男。目の病気?
食虫植物に襲われた俺を、助けてくれた。良い奴。やさしい。
一緒にカフェでご飯たべた。
一緒に、宿屋に泊まることになった。
そして、辿り着いた、最後のページ。
「……これ、あの時の」
他のどのページよりも、字が乱れていた。
まともに線も繋がっていない、ひどい殴り書き。
朦朧とする意識で、それでも必死にペンを動かしていた、あの時の。
──こいつ は、色覚 い常症。
め 覚ましたら、きっと そばにいる。
だから───
その時。
ベッドが、大きく、軋んだ。
「ぅうぅん……」
心臓が、跳ねる。
メモを持つ手が、止まった。
毛布の下で、あいつの体が、もぞりと動く。
長い睫毛が、ゆっくりと持ち上がって。
とろりと眠そうな瞳が、薄く開いた。
その視線が、ぼんやりと宙をさまよって、やがて、俺を捉える。
そして、こちらへ手を伸ばしてきた。
「──……左目」
「……ぁ」
「怪我、しとるん?」
ああ。本当に。
本当に。
全部、忘れてる。
昨日のことも。互いを助けたことも。
晒したこの左目を、好きだと言ってくれたことすら。
忘れられたことへの、寂しさは、あった。
悲しさも、あった。
「……なぁ」
「?」
俺は、手にしたメモを、そっと閉じる。
さっき、読みかけたままだった、最後の一行を、思い出しながら。
だから──
おきたら、友達になっ てくださいって言うこと
それだけは わすれない
うまれて 初めての、とも だ ち に
「……生まれて初めての、友達──か」
俺は、静かに、眼帯を外した。
すると、そいつは、顔をほころばせて笑った。
その屈託のない笑顔に、つられたんだと思う。
だからきっと、それで。
俺たちは、声を揃えて、言ってしまったんだ。
「俺と、一緒や」
「俺と、一緒だ」




