No.2-15 白と黒
周りの音が、すうっと遠のいていく。
吸い込んだ息が、どこにも行き場をなくして、胸でつかえる。
まばたきの仕方すら、忘れてしまったみたいだ。
「カフェで、使いもせんミルクをわざわざ頼んだやろ。色で珈琲と紅茶の区別がつかんから」
「…」
「白衣着てる俺を見ても、医者やと気づかんかった──白が、分からんから」
「…」
「棚に赤いラベルの薬品なんて、一つもないし」
手のひらに、じわりと汗が滲んだ。
「───自分、色覚異常症やろ」
ひと息で言い切って、あいつは口を閉じた。
鼻先が触れそうな距離で、その目が、俺の奥を覗き込んでくる。
「…正解」
膝から力が抜けて、あいつの手をすり抜けるように、その場へ座り込む。
その拍子に、小瓶が指を離れて、床を、からからと転がっていった。
崩れた壁から、夜気が流れ込んでくる。
「俺が視てる世界は全部──白黒だ」
目の前のあいつの顔も、足元の血溜まりも。
濃淡と、光と影でしかない。
「きっと、人より一色多く持って生まれた代償に、色ってやつを全部失くしたんだ」
言い終えると同時に、背中から、ゆっくり床に沈み込んだ。
持ち上げた腕を、両目の上にそっと乗せて、瞼を閉じる。
「なぁ……俺の目、治るかな」
ほとんど、独り言のような声だった。
それが、静かな診療所に小さく落ちて消えると、あいつは答えた。
「分からん」
そんな願いのような問いは、ばっさり切り捨てられる。
おい。あの女は、慰めの言葉だけは完璧だったぞ。それを、こんな直球で。
「そこは、嘘でも治るとか励ます場面じゃねぇのかよ」
思わず、勢いよく上体を起こして、そいつを睨む。
すると、あいつは小さく息を吐いて、俺の傍らに膝をついた。
「あほ、俺は名医や、嘘は絶対に言わんの」
床に転がっていた小瓶を拾い上げ、その栓を抜く。
ガーゼに薬を含ませると、太腿の傷口へ、そっと押し当ててきた。
「治るか、治らんか。それは、俺にも分からん」
「……」
「でもな──諦めん限り、可能性はゼロにはならんよ」
「…そっか」
巻かれた包帯は、やっぱり、少し歪んでいた。
嘘はつかない。できないことを、できるとは言わない。
やっぱり、こいつは変な奴だ。どうしようもなく。
でも、そんなこいつに、俺は───。
「「なぁ」」
切り出そうとした声に、そいつの声が綺麗に重なった。
思いがけず音がぶつかって、二人して、目を丸くする。
「なんだよ」
「ん、いや、そっち…こ…そ──」
「あ?」
急にもつれだした言葉に、こいつはまた何を言い出すつもりだと訝しんだ、その時だった。
ガクン、と。
あいつの体が、前のめりに崩れた。
「な、おい!? 大丈夫か!?」
「……っ、ぅあ」
咄嗟に支えようとした腕の中で、あいつが震える手を、腰のノートへ伸ばす。
倒れ込んだまま、何かに急かされるように、乱暴にペンを走らせた。
「は!? な、なにしてんだよ!」
行動の脈絡のなさに、たじろぐ。
どう声をかけたものか分からず見守っていると、ペンの動きが、ふつりと止まった。
「……ぅ」
意識が、朦朧としているらしい。
今にも閉じそうな目を、それでもなんとか、押し開けて。
あいつは、こちらへ手を伸ばした。
「ぉ、れ──……」
続く言葉は、音にならなかった。
見開いていた瞼が、ふっと、力を失う。
持ちこたえようとした体が、ゆっくりと前へ傾いで──そのまま、どさりと床に沈んだ。
「おい!! ッ、おい!!!」
床を蹴って、その体に触れる。
肩を掴んで揺さぶっても、ぐったりと重いだけで、返事はない。
血の気が引いたが、浅く上下する胸を見て、ひとまず安堵する。
「あぁもう!!! 突然なんなんだよ!!!」
力の抜けた体を背負って、暮れた夜道を、駆けだす。
背中に伝わる熱が、こいつがまだ生きてることを、教えてくれる。
「……っ、頼むから」
その先は、言葉にならなかった。
夜風だけが、頬を切って、後ろへ流れていく。




