No.2-12 左眼
「───ねぇ、そうなったら、薄れていく意識の中で、最期に何を見ると思う?」
こいつは、何を言ってるんだ。
問いの意味を、頭が理解することを拒んだ。
くすり、と笑ったレベッカの手の中で、刃がちらりと光る。
もてあそぶように指先で回しながら、その足が軽く持ち上がった。
立ち上がろうとした腹へ、爪先が、めり込む。
「ぐっ、ぁ……!」
体が、くの字に折れる。
胃が裏返りそうな衝きが突き上げて、喉の奥まで酸っぱいものがせり上がった。膝が、地面で泳ぐ。
「目の前に転がる死体を、指一本動かせないまま見送るの」
「ッ、!」
倒れ込んだ俺の髪を、レベッカが無造作に掴み上げる。
頭皮が、束ごと引き千切られそうに引きつった。
「医者として、それ以上の地獄があるかしら」
レベッカが、うっとりと目を細める。
その口元に、笑みが滲んだ。
「ッ、んなこと、させてたまるか!!!」
吊られたままの体を捻る。
空いた腕を引き絞って、レベッカの顎めがけて拳を放ったが───届く前に、腹を蹴り抜かれた。
「ぁ、ぐぅ……っ!」
息が、止まる。
髪を掴んでいた手が、ふっと離れる。
崩れ落ちた腹の上へ、踵が乗った。
体重をかけて、靴底をぐりぐりと、内臓へ捻じ込んでくる。
まずい。
息が、続かない。
指の先まで痺れて、力が、抜けていく。
弄んでいた刃が、こちらへ向けられる。
霞む視界の端で、その切っ先だけが、鈍く光った。
「だから、早く死になさい。あの医者が息絶える前に」
まぶたが、重い。
遠ざかる意識の端で、壊れた窓の向こうが、ぼやけて見えた。
瓦礫に沈んだまま動かない、あいつの影。
──このまま、死んだら。
あの間抜け面が、目を覚まして、最初に見るのが、俺の───。
「……ふ、ざける…な」
腹の底で、どす黒いものが、ぐらりと沸いた。
「ッ、らあ!!」
腹を踏みつける足首を、両手で掴み込む。
全体重を引きずり下ろすように、横へねじ倒した。
「っ、ぎゃ!」
支えを失った体が、大きく傾く。
潰されていた腹から、重みが、ふっと消えた。
今だ。
引き絞った拳を、泳いだその顔めがけて──。
「──小賢しいのよ」
膝をついたレベッカが、地面の土を、鷲掴みにしていた。
それが、俺の顔へ叩きつけられる。
「ッ、しま……っ!」
右の視界が、ざらりと潰れた。
目を開けていられない。瞼の裏を、無数の砂が削るように灼く。
「終わりよ」
頭上で、刃を構える気配がした。
風を裂いて、それが落ちてくる。
見えない。躱せない。
死ぬ、─死ぬ、───死ぬ。
その時。
眼帯の紐が、後ろ手にきつく結ばれているのを、首筋が思い出す。
「───…」
風が、すぐそこまで来ていた。
この目を晒すくらいなら、死んだほうがマシだ。
ずっと、ずっと、そう思って生きてきた。
──だけど、あいつの目に。
俺の最期を映すのはもっと嫌だ。
「ッ終わるのは、てめぇだぁ!!!」
紐を、引きちぎる。
眼帯を投げ捨てた左目が、夜気に晒される。
振り下ろされた手首を、素早く横から打つ。
ナイフが、あらぬ方へ弾き飛ばされて、土に突き立った。
その足で踏み込んで、脇腹を蹴り上げる。
「ぐ、ぁ……っ!?」
レベッカの顔が、強張っていく。
「おい…─」
あふれ出した涙が、右目を灼いていた砂を、まとめて押し流していった。
潰れていた視界が、にじみながら、ゆっくりと像を取り戻していく。
「誰が、いつ、左目が見えねぇつったよ」
地を這うような声が、自分の喉から漏れる。
片側だけで覗いていた世界が、左右いっぱいに押し広げられた。
奥行きが、戻る。
遠近が、輪郭が、線を結ぶように立ち上がっていく。
「な──なんで」
信じられないものを見るように、レベッカの顔が引き攣った。
「ッ、その目……見えて──」
一歩、レベッカが後ずさる。
その隙を、見逃さなかった。
さっきまで霞んでいた間合いが、手に取るように視える。
「ぉらッ!」
脇腹へ回し蹴りを叩き込み、捻った反動のまま腕を取った。
「なに、よ……っ、さっきまでと、まるで……っ」
焦りに歪んだ顔で、レベッカが拳を振り回す。
さっきまでの余裕は、もう、欠片もない。
半身を引いて躱し、そのまま鳩尾へ、掌底を叩き込んだ。
「ぁ、あ゛!!」
「教えてやろうか?」
レベッカの体が、前のめりに折れた。
その低い姿勢のまま、髪を振り乱して、こちらへ飛びかかってくる。
爪を立てた手が、俺の喉へ伸びた。
「───奇跡を願う夢から、目が覚めたんだよ」
その腕を、流すように受け流して、背中へ回り込む。
がら空きになった胴へ腕を回し、引き寄せた。
「ヤブ医者は、てめぇの方だったなァ!!!」
肩へ担ぎ込んだ体を、渾身の力で地面へ叩きつける。
「ぁッ、……ぁ…あ──!」
ぐしゃ、と。
骨と地面がぶつかる、鈍い音。
強化された体が、それでも、為す術なく沈んでいった。
舞い上がった土埃が、ふわりと月明かりに溶けていく。
その向こうで、地面に叩きつけられたレベッカの体が、大の字に伸びていた。
白衣の裾も、優雅とは言えない格好で、足元に絡まっていた。
レベッカは、もう、動かなかった。




