No.2-9 お注射の時間
──数刻前。
「あのアホ」
一人残された男──ヤブは、閉ざされた扉を忌々しげに睨んだ。
ノブをがちゃがちゃ揺すってみても、外から錠がかかっていて、扉はびくともしない。嫌な手応えだけが、掌に返ってくる。
「くっそー…空飛ぶ薬草て…そんなん、あるわけ……いや、あったら大発見やけども」
ぶつぶつ零しながら、ヤブは部屋をぐるりと見渡した。
壁という壁を埋め尽くす、天井まで届きそうな本棚。
その背表紙の群れに吸い寄せられるように、ふらりと一歩踏み出す。
──足先が、床に転がっていた何かに引っかかった。
「うぎゃあ!!」
たたらを踏んだ拍子に巻き込んだ椅子が、本棚の角へぶつかる。
衝撃で棚が揺れて、古びた本が一冊、ヤブの脳天めがけて落ちてきた。
「へぶっ!!〜ッ!いてて……なんや、これは」
頭をさすりながら、足元で開いたままになっている本を拾い上げる。
古い革の表紙は手のひらに吸いつくほど湿っていて、めくれたページからは、乾いたインクの匂いが立ちのぼった。
その活字に目を落とした途端、ヤブの指が止まる。
「……あれ? この医学書」
眉を寄せ、ページを繰る指が、だんだん速くなっていく。
「んんん? ぱ……、けい? これ、ずいぶん古い式、しかも未完成……?」
床に座り込み、本へ顔を埋めるようにして、ヤブは活字の奥へ潜り込んでいった。
膝の上で、ページをめくる音だけが小さく鳴る。
──その時。
どかどかと、荒々しい足音が階段を駆け上がってきた。
扉が乱暴に開け放たれる。
なだれ込んできた二人の男が、本棚の前に座り込むヤブを見つけて、にたりと笑った。
「いひひ、みぃつけた」
しかし、声をかけられても、座り込んだ背中はぴくりとも動かない。
「……おい、聞いてんのか?」
一人が、細身の銃口をヤブの背へ向けて、じりじりと距離を詰めていく。
「おい」
「……」
「おい、お前!」
「……」
無反応。
ヤブは本へ視線を落としたまま、身じろぎ一つしない。
声をかけても振り向きもしない態度に、男の眉間の皺が、ますます深くなる。
「あ、兄貴、こいつ、ちっともこっちを気にしてやせんですぜ」
「てめぇ!! 呑気に読書してんじゃねぇよ!!」
銃口が、こめかみのすぐ横まで迫る。
ひやりとした鉄が肌のすぐそばにあるのに、ヤブの睫毛は一度も上を向かない。
「いい加減にしろや、コラァ!!」
とうとう痺れを切らした一人が、ヤブの手から本を叩き落とした。
「ッ、ふざけんなや!! どこまで読んどったか、分からんようになったやないかい!!」
その瞬間、ヤブの肩が跳ねた。
弾かれたように顔を上げ、勢いよく立ち上がる。
「あ? なんやこれ、麻酔銃? てか誰や?」
ようやく男達の存在に気づいたらしい。
眉根を寄せ、相手の顔をまじまじと見上げる。
「……って、こいつ……!」
ヤブと目が合った男が、ぐっと顔を強張らせる。
惚けた顔のその様子に、銃を握る手が、ぎりと音を立てた。
「ぉ、おおぉおまえ!? 忘れたとは言わせねぇぞ!! ムマの村で、俺たちにしたことをよぉ!!」
「忘れた」
「あの夜の悪臭、まだ鼻の奥にこびりついてんだよ…ッ! 家ごと吹っ飛ばしやがって、命からがら生き延びたんだぞ俺らはぁ!!」
「知らん」
「うがぁぁあ!!! ふざけんじゃねえ!!!!」
「いやいや、しゃあないやん」
──俺、寝たら全部忘れるんやから。
ヤブは至って真面目に告げているのだが、男にしてみればただの戯言にしか聞こえないらしい。
銃口を突きつけられても、涼しい顔で小首を傾げるヤブに、男のこめかみがびくりと跳ねた。
「もういい!! ここで会ったが百年目だぁ!!!」
「おぉ!」
どこまでも自分のペースを崩さないヤブに、男はとうとう手を振りかぶった。
拳が、空気を裂いて唸る。
「なんで喜んでやがる!!」
ヤブは上体を後ろへ大きく倒して、その風を鼻先で見送った。
「いやぁ、やっぱり本場もんは、ちゃいますな」
軽い足取りで退きざま、倒れていた椅子を掴んで、男めがけて放り投げる。
「ッうぎゃ!!?」
「馬鹿が! 油断すんじゃねぇよ!!!」
よろめいた男の隙をついて、ヤブは近くの机の下へ転がり込んだ。
膝を抱えて息を潜めながら、脚の隙間から、暴れる男たちの足元をうかがう。
「…あいつらが、薬草を乱獲しとる男たちか」
合点がいったように、小さく息を吐く。
「まぁ、薬草の価値が分かるんは、医者って相場が決まっとるよな」
ヤブの視線が、ふと床へ落ちる。
「さーて、どうするか」
そして、机の下で身を縮めたまま、ぐるりと部屋を見回す。
やがてその目が、天井から下がるシャンデリアと、壁を埋める本棚で、ぴたりと止まった。
「いつまで隠れてんだ、コラァ!!」
怒声には目もくれず、ヤブの手が己の懐へ伸びた。
ごそごそと探った指先に、ひやりと硬いものが触れる。
「──えぇこと考えた」
ヤブの目元が、いたずらっぽく細まった。
「出てこい!! ゴミが!!」
男が、頭上の机を蹴り倒す。
遮るものがなくなった瞬間、ヤブは床を蹴って駆け出した。
身を翻し、本棚の段をたたたっと駆け上がる。
「な、あいつ、どこ登ってやがる!?」
叫び声と同時に空気を裂く音がして、すぐ脇の背表紙に、細い針が深々と突き立った。
それでも止まらないヤブに焦れたのか、男が腰から別の銃を引き抜く。
「ちょこまかと……ッ! 降りてこい!」
「あ、兄貴、それ実弾は……っ」
「うるせぇ! 眠らせる前に風穴空けてやらぁ!」
──パァン!
立て続けに、銃声が轟く。
すぐ脇の棚板が弾け、木屑が降りかかる。
それでも止まらず、軋む棚を蹴って跳ぶと、天井から下がるシャンデリアの鎖を掴み、その上へひらりと乗り上がった。
「ふぅ、到着。えぇ眺めやなぁ」
高みから見下ろして、ヤブはのんきに足をぶらつかせた。
「ぶっ殺してやる、降りてこい!!」
吠えながら、男たちがシャンデリアの真下へ駆け寄ってくる。
男たちの足元へ、何かがまっすぐ落ちた。
「「あ?」」
床板に、ぷすっと突き立ったのは、一本の注射器。
二人の視線が、そこへ吸い寄せられる。
「特製の薬液──食虫植物の溶解液」
ぼた、ぼた、と針先から滴ったそれが、床板を泡立てて溶かしていく。
鼻を刺す青臭い匂いが、部屋に満ちた。
「なんだこれ…」
「おい、床が……ッ!?」
ヤブは手の中で、もう一本の注射器をくるりと回すと、頭上の天井へ突き立てた。
ぎし、と鎖が鳴って。
溶けた吊り金具が、ずるりとひしゃげる。
ヤブは、とびっきりの笑顔を浮かべて、告げた。
「──お注射の時間や」
次の瞬間。
巨大な装飾は、ヤブごと床を突き破って落ちていった。
──ゴシャァァァアアン!!!




