No.2-7 黄昏の診療所
「いらっしゃい、よく来たわね」
昼間見た時と同じ笑みを携えて、レベッカは俺たちを出迎えてくれた。
「どうぞ、中へ」
促されるまま足を踏み入れた瞬間、甘ったるい匂いが鼻をかすめた。
昼にカフェですれ違った時の、あの花の香りだ。
案内されるまま、階段を上る。
二階の一室へ通されて、扉をくぐった瞬間──足が止まった。
「わぁ、医学書ぎょうさんあるなぁ!」
「え、いや、そっち?」
確かに、天井まで届きそうな本棚が、壁という壁を埋め尽くしている。
だが、まず目を奪われるのは、そこじゃない。
見上げた高い天井から、大ぶりのシャンデリアが吊り下がっていた。磨かれた硝子の粒が、淡く光を散らしている。
通りすがりに覗いた、一階の素っ気ない医療室とは、まるで別世界だった。
「ふふ、ちょっと待っててね、お茶を用意するわ」
棚の茶器へ向かう背中に、声を投げる。
「いや、お茶はいい。早く、診てほしい」
逸る気持ちが、そのまま声に出た。
肩越しに振り返ったレベッカと、目が合うと、その睫毛が、ふっと伏せられた。
「ふふ、そうよね…それじゃ、下の診察室へ行きましょう」
レベッカが背を向け、廊下へ向かう。
その背中を追おうとした、その時。
「よっしゃ、診察やな」
ヤブ医者が、いそいそと診療鞄を抱え直す。
待ってましたとばかりに、俺の後ろへ回り込んできた。
「お前は着いてくんな」
「なんでや!?」
「俺の病名当てるんだろ、ヤブ医者?」
「名医!」
短く言い捨てて、そいつの頭を手のひらで鷲掴みにする。
だが、こいつは存外しつこかった。
小柄なくせに踏ん張った足はびくともせず、頭を掴まれたまま、前へ進もうとしてくる。
「いいから、お前はここで待ってろ…!」
こっちは一秒でも早く診察をしてもらいたいというのに。
すると、前のめりになっていたそいつが、ふと力を抜いた。
ようやく諦めたか──。
「ケチ」
ぷつん、と頭の奥で何かが切れた。
「あ、外に空飛ぶ薬草が生えてるぞ」
「え!? どこ!? 新種!?」
言うが早いか、そいつはすぐに窓に張りついて、きょろきょろと外を探し始める。
その隙に、レベッカを促して廊下へ出た。
「じゃーな、大人しくお留守番してろ」
扉を引いて閉める。
錠をかちりと落とした。
「……あ…? あ、あ!!!? 開けろやぁぁぁぁあぁあ!!!!」
がちゃがちゃ、と内側からノブが激しく揺さぶられる。
扉一枚を隔てた向こうで、わめき声がくぐもって響いた。
「ったく……」
深く息を吐いて、額を押さえると、隣のレベッカと目が合った。
口元に手を添えて、おかしそうに肩を揺らしている。
「ふふふ、賑やかなお仲間さんね」
「違う」
思わず、食い気味に否定する。
偶然に偶然が重なっただけの、ただの腐れ縁だ。それ以上でも、それ以下でもない。
「あら、そうなの? てっきり、長いお付き合いかと」
「今日会ったばっかりだ」
──というか、名前すら知らねぇ。
わめき声を扉の向こうに置き去りにして、階段を降りていく。
頭上のあいつの声が、一段下りるごとに遠ざかる。
やがて、それも聞こえなくなった。
「…静かだな」
「ふふ、昼間の活気が嘘みたいよね」
誰もいない診療所というのは、どうにも据わりが悪い。
自分達の足音だけが、やけに大きく耳に返ってくる。
「さぁ、こっちへどうぞ」
診察室は、二階とは打って変わって、飾り気のない部屋だった。
床も壁も不自然なほど清潔で、薬品の匂いだけが、つんと鼻をついた。
「よし、それじゃあ、この椅子に座ってくれるかしら」
レベッカが袖口を折り返し、診察の支度を始める。
促されるまま椅子へ足を向けた、その時だった。
「……?」
部屋の静けさの底に、聞き慣れない音が、ひとつ混じる。
こんな夜更けに、誰もいないはずの診療所で。何の音だ。
「…この診療所、入院患者っているのか」
「いえ、いないわよ。どうかした? 」
「奥の部屋から、物音が聞こえてな」
レベッカは手元から目を上げないまま、器具を布の上に並べていく。
「あぁ、たぶん猫よ。よく遊びに来るの」
「……そうか」
「さ、座って」
勧められた椅子に、腰を下ろす。
レベッカが正面に座り、ちょうど目の高さで、視線が絡む。
「それじゃあ、診せてもらうわね」
顔を覗き込まれ、甘ったるい花の匂いが、ぐっと近くなる。
細い指が、俺の顎にそっと添えられて、レベッカは右目をじっと見つめてきた。
「……綺麗な赤い目」
ぽつりと、彼女がそう呟く。
その視線は、剥き出しの右目だけを舐めるように這って、左目には少しも向かない。
「あの、こっちも診てほしいんだけど…」
眼帯の上に、指を添える。
「生まれつきなんだ、この目─」
俺は後ろで結んだ紐を指でたぐり、ほどこうとして。
「そのままでいいわ」
手を思い切り掴まれた。
しなやかな指の爪が手首に食い込み、骨が軋むほどの力で握り込まれて、びくともしない。
「……え?」
「大丈夫よ、眼帯は外さないで」
「でも」
「あぁ。分かりやすく、言いますね」
レベッカが、にっこりと笑った。
「──醜い目を私に見せないで」




