No.2-5 噂
眼帯にかけた指先まで、心臓の音が響いている気がした。
「俺ッ、あんたの噂を聞いて、この街に来たんだ!」
詰め寄ろうとした足が、勝手に床を踏み出す。
レベッカがこちらに向き直ると、長い髪が、肩から胸元へ静かに流れ落ちた。
そして、ゆったりと小首を傾げる。
「ごめんなさいね、診療する患者さんは当分決まっていて」
「え」
「新しい方をお受けする余裕がなくて…」
こちらへ向けた視線が、困ったように細められた。
「今も、たまたま出張帰りだから、こうしてここに来られたんだけど…」
「あ…まぁ、そりゃそうだよな」
いつの間にか握り込んでいた手から、すっと力が抜けていく。
確かに、こんなに名の知れた医師が、通りすがりの旅人をほいほい診てくれるわけがないか。
「仕方ねぇ…なら、この街で待たせてもらうから─」
「いえ」
その言葉を遮ったのは、レベッカだった。
息が、止まる。
一歩、こちらへ近づいてくる。長い髪が、その動きに合わせてさらりと揺れた。
「ここへ来る道すがら、皆さんから聞いたの。あの子を庇って、大男を投げ飛ばした旅人さんがいるって」
「……は? いや、あれは」
「ふふ。そういう方を放っておくのは、医師の名折れだわ」
短い間があった。
レベッカは一度視線を落とし、ゆっくりと顔を上げる。
「順番は守るべきだけど、例外もあるわ。緊急枠で診てあげる」
「え」
「貴方の病は、私が絶対に治します」
ずっと、治らなかったこの目が。
治る──。
花がほどけるみたいに、微笑んだ。
視界が、じわりと滲んでいく。
慌てて顔を伏せ、奥歯を噛みしめて、込み上げるものを飲み込んだ。
お礼を言おうと、口を開きかけた、その時。
「そうだ、そちらのお医者様も来てくれると嬉しいわ」
「っえ゛!?」
レベッカが指先を、つと唇へ滑らせる。
話の矛先が、唐突に、隣の男へ飛んだ。
潤みかけていた目の奥が、すっと冷えて、口元が引きつった。
「………あの? お医者様?」
だが、当の本人は、こちらの会話など耳に入っていないらしい。
レベッカの声も、視線も、素通りしていく。
「んんん、よーし、完成! これでもう大丈夫、しばらくは無理して歩かんようにな!」
そして、満足げに少年の頭をくしゃりと撫でる。
巻かれた包帯は、やっぱりお世辞にも綺麗とは言えない歪な形だった。
「手当してくださって、ありがとうございます」
「ありがとう、真っ白の兄ちゃん」
「うん、お礼言えて偉いなぁ、どういたしまして」
その隣で、母親がほっと肩の力を抜く。
手当てを終えた少年は、もうすっかり笑っていた。
「無事に処置できたみたいで、よかったですわ」
レベッカが、ゆっくりとそちらへ歩み寄る。
その声でようやく呼ばれていたと気づいたのか、そいつは顔を上げ──止まった。
「……なにか、私の顔についてますか?」
だが、そいつは答えない。
やがて膝に手をついて立ち上がると、まじまじとレベッカの顔を覗き込んだ。
「──あんた、ほんまに医者なん?」
そいつは、とんでもないことを言い出したのだ。
「バッカ!! おまえ、なんてこと言ってんだよ!」
考えるより先に、そいつの肩を掴んで引き寄せる。背筋を冷たいものが滑り落ちた。
「え? せやかて、あんたの手ぇ、つるっつるなんやもん」
「手ぇ!?」
言われて、レベッカの手元へ目をやる。
診療鞄の持ち手に添えられた指は、細く、滑らかで──それ以上のことは、俺には分からなかった。
「医者の手ぇはな、消毒で荒れるんよ。なんぼ手ぇ入れたかて、爪の際は隠されへん」
「理由まで失礼なんだよ!!」
こいつ、相手が誰だか分かってんのか。
せっかくの緊急枠が、この一言で吹き飛んだらどうしてくれる。
「ふふ。お恥ずかしいわ」
レベッカは気を悪くした風もなく、頬にそっと手を添えて、目を伏せた。
「処置は助手に任せることが多いの。私はもっぱら、診断と研究ばかり。……だから、現場の先生方の手を見ると、今でも少し、引け目を感じるのよ」
「ほーん」
ほーん、じゃねぇよ。
冷や汗をかいて損した。気の抜けた相槌を最後に、そいつはもう口を閉じていた。
「それより、ね──実は、気になる調合式がありまして。その研究をしているのですが……他のお医者様の意見を聞きたくて」
「え? 調合式? どんなん?」
どこか他人事だったそいつの目が、その単語を聞いた途端、子どもみたいにきらきらと輝き出す。
「ハッ、ひょっとして、抽出温度を二段階で変えて、苦味成分だけ先に飛ばすやつか? ほな溶媒の比率も普通とちゃうやろ、それやったら」
「やめろ」
「もご、もごごご」
堰を切ったように、聞いたこともない単語が溢れ出す。
こいつに喋らせると、またとんでもないことを言い出しかねない。
反射的に、その口を塞いでいた。
「ふふ、話の続きは夕刻にでも」
レベッカはそれだけ言うと、ふわりと身を翻した。
すれ違いざま、甘く重い花の香りが鼻先をかすめ、ふっと喉の奥に残った。
「診療所でお待ちしております」
診療鞄を提げたまま、レベッカは店を出ていく。
扉が閉まると、食器の音や話し声が、少しずつ耳に戻ってきた。
「もごご?」
「ったく…」
口を塞がれたまま、何か言いたそうにもがく自称名医。
こいつのせいで、どっと疲れた気がする。
ふと、服の裾がくいと引かれた。
「真っ黒お兄ちゃん」
見下ろすと少年が、俺の服をそっと握っている。
「庇ってくれて、ありがとう」
「いや、気にすんな」
小さなつむじが、ぺこりと下がった。
掌の下では、まだ何かが、もごもごと蠢いている。
「ぷはっ…! お大事にな!」
手を離してやると、あいつは何事もなかったみたいに、少年へひらひらと手を振ったのだった。
*.
「あのレベッカいう医者、何者なん?」
昼下がりの陽射しが、道に降り注ぐ。
宿屋へ向かう道中、自称名医が呑気に口を開いた。
「同業者のくせして、なんも知らねぇんだな?」
あまりに無知なそいつへ、呆れながら質問を質問で返す。
「見立てを外したことが一度もねぇ。治せない病はないって評判の奇跡のお医者様だってよ」
「……ふぅん、奇跡ねぇ」
いつもの間延びした調子が、その一言だけ、すとんと抜けていた。
聞いておきながら、はっきりしない返事を寄越す。その相槌に、ため息がこぼれた。
ふと、さっきの簀巻きにされた少年が頭をよぎる。
「お、そうだ。ヤブ医者もちょっと弟子入りして、その残念な腕前どうにかしてもらったらどうだ?」
名案だと思って告げると、そいつの眉間に、思いきり皺が寄った。
「誰がヤブ医者や! ちょっと力が入りすぎただけやろ!」
「人はそれを不器用って言うんだよ!」
舌を出して挑発してやると、あれは芸術的包帯巻きという高度な技術だの何だのと、言い訳を並べ立てる。
そうこうしているうちに、目当ての建物へたどり着いた。
「っと、ここか。街の宿屋」
イセンス街は、栄えている割に宿屋がない。この街で泊まれるのは、ここ一軒きりだ。
「じゃあな。お前とはここまでだな」
「え? 折角一緒にお呼ばれしたんに?」
「夕方になったら、勝手に診療所に行けよ」
そう言い捨てて、扉をくぐる。
年季の入った木の壁は、丁寧に磨き込まれて鈍く光っている。古いが、手入れの行き届いた宿だ。
二人して、受付の前へ進み出る。
受付には、穏やかな顔つきの女性が一人立っていた。
こちらに気づくと、軽く会釈をしてくる。
「いらっしゃいませ、旅人さんたち」
「おねーさん、部屋空いてる?」
「はい、空いてますよ」
「それじゃあ、二部屋お願い」
はぁ。やっと、こいつともおさらばだ。
「あ、あの…旅人さん……」
受付の女性の顔が、すっと曇る。




