No.2-4 名医
「ッ、このクソガキ!!」
怒声が、硝子の割れた余韻を引き裂いた。
顔を上げると、すぐ傍のテーブル脇で少年が膝をついていた。
散らばった破片が、床の木目の上でちらちらと光っている。
男が椅子を蹴って立ち上がった。
湿ったズボンの裾を摘み上げて、顔を歪めながら少年を見下ろす。
「ふざけんじゃねぇよ!! 俺のズボンが濡れたじゃねぇか!」
「ご、ごめんなさい」
謝りながら、少年は欠片を拾い集めようと手を伸ばした。
その拍子に、袖がずり落ちる。
男の視線が、剥き出しになった右腕の上で止まった。
「こんな気持ち悪ぃ腕なんか付けてるからだろ!!!」
その一言が、耳の奥で、嫌な残り方をした。
男は吐き捨てると、靴底で義手を踏みつけようと足を持ち上げる。
少年の肩が、ぎゅっと縮こまって──。
ざぱ。
間の抜けた音と共に、冷たい水が男の頭から首筋を伝う。
持ち上がっていた足が、行き場をなくして床へ戻った。
「少しは目ぇ覚めたかよ」
手にしていた空のコップを、テーブルへ置く。
うずくまる少年と男の間へ体を割り込ませると、そいつへ向き直った。
「ッ〜!! ふ、ふ、ふざけんじゃねぇ!!」
濡れた前髪を、男が乱暴に手の甲で拭う。
その瞬間。拳が飛んできた。
だが、大振りで遅い。顔を僅かに傾ける。
空振りした拳が耳の横を通り抜けて、崩れた重心が男の体を前のめりに引っ張った。
「ふざけてるのはてめぇだ!!!」
がら空きの懐へ滑り込んで、腕を取る。
取った腕を支点に、体を半回転。男の足が浮いた刹那、腰を落として一気に背負い込んだ。
「っがぁぁぁ!!!?」
でかい図体が宙に舞い、開いていた扉の方へ吹き飛んでいく。
地面を転がる音が続き、しばらくして、遠くから情けない呻き声が聞こえてくる。
「ったく、大の大人が、子ども相手にくだらねぇ」
ふう、と短く息を吐いて、肩越しに振り返った。
「……なんだよ、その顔」
すると、先程まで向かいでサンドイッチを頬張っていた男が、何故かこちらを見て、にやにやと笑っていたのだ。
「別にぃ、何でもあらへんよ」
なんでもない、の割には、やけに機嫌の良さそうな顔をしている。気味が悪い。
俺はそいつから半身ぶん身を引いて、距離を置いた。
「ヨル!!」
厨房の奥から、エプロン姿の女が転がるように飛び出してきた。
注文を取りに来ていた、あの店員だ。少年の傍に膝をつくなり、その肩を抱き寄せる。
「おい、大丈夫か?」
俺も傍に屈み込む。と、その手元が目に入った。
「う、うん…!」
「いや、血ぃ出てんじゃねぇか!」
反射的に少年の手を取る。
じわりと滲む血が、指の第二関節あたりを伝っていた。結構深い傷だ。
周りの席から、がたがたと椅子の鳴る音が立った。
「ぼ、坊主が怪我したぞ!」
「医者を呼んでくる!」
怒鳴り合うような声が交差して、誰かが扉を蹴破る勢いで外へ飛び出していった。
店の空気が、一気に騒がしさへ傾く。
「ヨル、あなた、手が……血が、こんなに……!」
母親が少年に縋りつく。
その手も、声も、小刻みに震えていた。
早く手当てをしないと──ひとまず近くの椅子に座らせようと、手を伸ばしかけた。
「ちょお、動かすなや」
その手を、横から押し留められた。
見れば、あいつが大きな鞄を抱えて、少年の傍にしゃがみ込んでいる。
「んで、切った指は上に、捻った足は前に出して楽にせぇ」
「あ? 捻った?」
視線を落とす。
言われて初めて、少年の足首が僅かに腫れているのに気がついた。
「すまんけど、綺麗な布と、お水を持ってきてくれるか?」
「は、はいっ、すぐに!」
母親は涙声のまま立ち上がると、ぱたぱたと厨房へ駆けていく。
「痛かったな、もうちょっとだけ我慢しぃや」
パカリと開いた鞄を探り、傷口の破片を丁寧に取り除いていく。
最後のひとかけらを摘み出した頃、母親が水と布を抱えて戻ってきた。
受け取った水で血を洗い流し、畳んだ布でしっかりと押さえ込む。
さっきまでの間抜けな男と同じ人間とは思えない、迷いのない手つき──。
「……」
いや、待て。
あれ。
こいつ、ひょっとして。
迷いのない指先。言い当てた捻挫。場違いなほど揃った鞄の中身。
頭の中で、ばらばらだったものが一つの線になって繋がっていく。
「なんや? どないしたん?」
こちらの視線に気づいたのか、そいつが顔を上げる。
俺は確かめるように口を開いた。
「……お前、医者………だったりする?」
「ッはぁ!!? どっからどう見てもお医者様やろ!」
「いや、どっからどう見ても、大ドジ放浪人にしか見えねぇよ」
「なんやて!? 俺は名医やで!!」
言い返しはしたが──この処置の手際だけは、確かに医者のそれだった。
黙っていると、こいつは得意げに上着の襟を引っ張って見せつけてくる。
「それも天才名医、すごいお医者サマや」
えっへん、とドヤ顔をかましながら、少年の手当てを続けている。
──医者。
その単語が、頭の奥でちりっと音を立てた。
この目を、もし。
「……じゃあ、俺の病気──」
言い終わるより先に、少年が割って入った。
「お、おにいさ、ん。僕の痛いの、お手てと右足だけだよ?」
見下ろすと、そいつは少年の両手も両足も、まとめて包帯でぐるぐる巻きにしていた。
手当てされた少年は、簀巻きにされた蓑虫みたいに、もぞもぞと身じろぎしている。
「あ」
想像を絶する不器用さに、思わず口の端が引き攣る。
「ヤブ医者じゃねぇか!!!」
「ちゃうわ!」
そいつは慌てて包帯を解き始める。少年も蓑虫状態から解放されて、ほっとしていた。
何が名医だ。一瞬でもこいつのことを見直した俺をぶん殴りたい。
その時、店の外から、ばたばたと足音が近づいてきた。
「坊主は!? 無事か!?」
「レベッカ医師を呼んで来たぞ!」
息を切らした客たちが、扉の前で立ち尽くす。
その間を、一人の女がふわりと通り抜けてきた。
「あら」
口元に笑みを湛えたまま、女は少年へ視線を落とす。
「どうやら無駄足、だったかしら?」
それから、ゆっくりとこちらへ向き直った。
「初めまして。私はレベッカ。医薬局じゃ少しは名前が知られてる方なのだけど……お見知り置きを」
──レベッカ。
心臓が、どくりと跳ねた。
気づけば、眼帯に手が伸びていた。




