No.1-14 名医のヤブ医者
空は、雲ひとつない快晴だった。
「いい天気やね」
吹き抜ける風に、白衣が揺れる。まだ土埃ひとつ付いていないその姿が、妙に眩しい。
彼は村の外へ続く道の先に立って、こちらへ向き直った。
覚悟していたはずなのに、心臓が、嫌な音を立てた。
「じゃあ、世話なったな」
「……もう少し、ここに居ても」
自分でも、縋るような声だと思った。
彼は少しだけ眉を下げて、頬を掻きながら口を開いた。
「いやぁ、この村の医学書じゃ限界があるし…薬作る道具も、足りひんのよ」
「…そう…ですか」
分かっていた。
ハルの病も治った今、彼がこの村へ留まる理由なんて、もうない。
それでも、目の前の現実が受け入れられなくて、胸が、じわりと重く沈んでいく。
「いや、でも、一人で行くなんて」
彼をこのまま行かせて、万が一にでも、危ない目に遭って怪我をしたら。
全部忘れてしまって、誰にも助けてもらえなかったら。
考えるほど、不安だけが膨らんでいく。
「まぁ、何とかなるやろ」
俯きそうになる僕の前で、彼はどこまでも続く青空を、見上げていた。
「道すがら病気の人を助けるんも悪くないし」
そんなことを言うもんだから。
何も言えなくなって、ただ静かに頷くことしか出来なかった。
「ヤブせんせ、いっちゃうの……?」
震える、小さな声がした。
隣を見ると、ハルが僕の服の裾を、ぎゅっと握りしめている。
歪んだ瞳に涙がいっぱいに溜まって、今にも零れ落ちそうだった。
「すまんなぁ。もっと難しい本がある街に、行きたいんよ」
「この村に、ないの?」
「せやねぇ」
「ハルの絵本、使っていいよ」
「うーん……」
困ったように笑う彼の白衣の裾を、ハルは、そっと掴む。
「いっちゃ、やだ」
大粒の涙が、ぽろぽろと頬を伝って、小さな肩が震える。
「うん。うん、分かっとるよ」
彼はその場にしゃがみ込むと、ハルの身体をそっと抱きしめた。
背中を優しく撫でながら、静かに、口を開く。
「でも、ヤブ先生は、忘れん坊治さないと。ハルちゃんのこと、覚えてられんの、嫌なんよ」
一つひとつ言い聞かせるように語りかけながら、彼は俯き加減のハルの頭を、そっと撫でる。
「そっか…ヤブせんせ、忘れん坊だもんね」
「そうなんよ」
「ハルの痛いの、治してくれて、ありがとう」
「どういたしまして。幸せに、なるんやで」
最後にもう一度、ぎゅっと抱きしめて。
それから彼は、ゆっくりと腕を、ほどいた。
「それじゃあ──元気でな」
鞄を持ち直して、彼は背を向けた。
一歩、また一歩と、その背中が、離れていく。
風に揺れる白衣が、だんだん小さくなって。
彼が遠ざかるたび、胸の奥が、じくじくと痛んだ。
「っ」
気づいたら、ぼくは、息を吸い込んでいた。
「──あの!!」
張り上げた声が、離れていく背中に、追いつく。
「ぼく、たくさん勉強して……ヤブ先生みたいな、お医者さんになります!!」
ぴたりと、背中が止まった。
彼が、ゆっくりとこちらを振り向く。
喉の奥が、熱い。
込み上げるものを堪えて、ぎゅっと、拳を握りしめた。
「だから……今度は、ぼくが──ッ」
その先は、言葉にならなかった。
彼は、少しだけ目を見開いて。
それから、くしゃりと、いつもの気の抜けた笑顔を浮かべた。
片手をひらりと上げて応えると、彼は、もう振り返らなかった。
白衣が、風に揺れながら、小さくなっていく。
その背中が、青空の中へ、溶けていく。
そうして。
彼は──長い長い旅路へと、歩いていった。
*.
それからの僕たちと言えば、地面に水溜まりでも出来そうな勢いで、わんわん泣いた。
とにかく、泣いた。
ポケットに入っていた飴玉を二人で食べたけれど、涙は止まるどころか、さらに酷くなった。
きっと、彼なら大丈夫。
これから、病で苦しんでいるたくさんの人たちを、助けるんだ。
僕たちを、救ってくれたみたいに。
だから、これで良かった。
寂しさで駄々をこねる心に、何度もそう言い聞かせて、どうにか涙を拭う。
そして、まだ泣きじゃくるハルを抱き上げて、僕は、家路についた。
「ぐす……ねぇ、お兄ちゃん」
抱える温もりが、幸せで溶けそうなくらい、愛おしくて。
離さないように、落とさないように、そっと、腕に力を込める。
「なぁに、ハル」
返事をすると、酷い鼻声が出た。
まるで僕の声じゃないみたいで、なんだかおかしくて、情けなくて、思わず笑ってしまう。
「ヤブ先生……すごいの、お医者さんだったねぇ」
ハルは自分のお腹をそっと撫でながら、嬉しそうに、こちらを見る。
「うん。すごい名医の──」
そこまで言いかけて、ふと、言葉が止まった。
「お兄ちゃん? どうかしたの?」
「ふふ、いや、そうだねぇ」
すごい名医で。
でも、どうしようもなく、抜けていて。
…ああ、そっか。
あの人にこれ以上ぴったりな呼び名は、きっと、他にない。
首を傾げるハルへ、僕は、笑いかけた。
「──名医のヤブ医者、だったね」
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To be continued




