No.1-13 彼の名前は
あの爆発的な出会いと事件から、数日後──。
窓から差し込む朝日が、食卓を優しく照らしていた。
焼き立てのパンの甘い香りが、鼻先をくすぐる。ホットミルクから立ちのぼる湯気が、朝の光に溶けて、ゆらゆら揺れていた。
まるで、あの夜の事件が嘘みたいな、朝の始まり、だった。
「…すいません、もう一回、言ってもらってもいいですか?」
「ん? せやから、ノアに、
───俺の名前を付けてほしいんよ」
名医の、この提案がなければ。
「いやいやいや!!! 無理ですって!!」
「そーんな重く考えんと、パッパッと決めてくれたらええんやって」
彼は、こちらの心情なんてお構いなしに、とんでもない気軽さで頼んでくる。
「それに、自分に出来ることなら何でもするって、さっき言うたやろ?」
「い、言いましたけど……!」
そもそも。大切な名前を、手のひらなんかに書くから、消えるんだって──。
「うぐぐ……!」
あの日、彼の手のひらに書かれていたはずの名前は、雨と血で滲んで、もう読めなくなっていたのだ。
次に目を覚ました彼は、これまでの記憶も、自分の名前も、全部忘れていた。
家も、薬も、本も、積み重ねてきた何もかもが、灰になって。
文字通り、彼は、全てを失ったのだ。
「ほら、朝ごはん冷めてまうから、食べよ。いただきまーす」
「……いただきます」
まさか、最初の頼み事がこれだなんて。
たくさん助けてもらったぶん、今度は僕が支えるつもりだったのに。
「名前……名前……なまえ」
「ノア、イチゴジャム取ってや」
「あ…はい、どうぞ」
「ん、ありがとう」
言われた通り、ジャムの瓶を差し出す。
彼は嬉しそうに目を細めてそれを受け取ると、鼻歌混じりに、パンへたっぷりとジャムを塗り始めた。
「〜♩」
その音程の外れた酷い歌を聞いていたら、なんだか可笑しくなって、小さく息が漏れる。
「ふふ、ふ」
「お? どないしたん?」
「数日前まであんな死ぬ思いしてたのに、こんなふうに朝食を食べられるのが……なんか、不思議で」
そっと、服の上から、腹の傷跡へ触れる。
あの爆音は、村の人たちを叩き起こした。
夜空の火を頼りに駆けつけてくれて、僕たちは保護されたのだ。
もし、あの時。
止血してもらっていなければ、その間に血が流れ切って、僕は危なかったと、村の医者が言っていた。
「あ、そうだ。名医さん、アケビちゃんもあるんですけど、食べますか……?」
「え! 食べる! 食後のデザートやね!」
キッチンへ移動して、まだ手に馴染まないナイフを取り出し、アケビを切る。
紫色の実が開いて、甘い香りが、ふわりと広がった。
お皿に盛りつけて、彼の待つテーブルへ運ぶ。
「はい、どうぞ」
「わぁ! 甘くて美味しいな」
「ふふ、お口にあって良かった」
「ノアも食べてみ」
「はい、いただきます」
ちなみに、妹の薬が欲しくて、強盗まがいのことをしようとしていたことも、全部、衛兵に話した。
当然、こっぴどく叱られたけれど、実害がなかったことと、別に襲撃者がいたこともあって、厳重注意で済んだ。
ただ、一つ。気になることがある。
焼け落ちた家からは、誰の死体も、見つからなかったのだ。
「ほんとだ、これは甘くて美味しいですね」
「……?」
もちろん、記憶を失ってしまった彼にも、これまでの経緯を、全部、真摯に謝った。
けれど当の本人は、驚くほど気にした様子もなく、あっけらかんと笑うだけだった。
彼曰く。一目見れば危険人物かどうかぐらい分かるし、もし本当にヤバい奴だったなら、特製の薬品で速攻返り討ちにしていただろう、とのことだった。
医者の観察眼、舐めるな──と、得意げに語っていた。
こう言ってはなんだけど。
本当に、無事で良かった。
僕が。
「それで、ノア。俺の名前は、考えついたか?」
「う、ぐ」
そして、今日。
僕たち兄妹の命を救ってくれた名医は、そんな無茶振りを、してくる。
「でも」
「あーでもでも、やかましい」
「だって」
「それに、名前ないと──これから困るやろ?」
「……」
「ちゃちゃっと決めてくれたら、ええねん」
確かに、彼の言うことは尤もだけど。
野良猫を拾ったから名付けるかわみたいな軽さで、大切な命の恩人の名前を決めるなんて、聞いたことがない。
「おはよぉ」
一人で頭を抱えていると、眠たそうな声が聞こえてきた。
振り返ると、寝癖で跳ねた髪のハルが、目を擦りながらふらふらと歩いてくる。
「ハル、もう起きても大丈夫なの?」
「うん、へーきだよ」
ここ数日、ハルはほとんど寝たきりだった。
熱に浮かされて、起き上がることすら辛そうだったけれど、今朝は随分と、調子が良くなったようだ。
「おはようさん。えーと……ハルちゃん、やね?」
名医は椅子から立ち上がると、ふらふら歩いてきた妹の前へ、しゃがみ込んだ。
視線の高さを合わせるように少し首を傾けて、覗き込むように笑う。
「あらぁ、また忘れん坊したの?」
「そやねぇ、忘れん坊してもうた」
「そっか」
「でも、ちゃんと書いてるから、大丈夫やで」
そう言いながら、腰につけたノートを、誇らしげにハルへ見せていた。
「よーし、お腹もしもしさせてな」
「はぁい、もしもし」
名医はどこからともなく聴診器を取り出すと、慣れた手つきで、耳へ掛ける。
しゃがんだままハルと目線を合わせ、その胸元へ、そっと当てた。
「もっしもっし、カメよぉ〜♩」
「カメさんよ!」
「お、ハルちゃんも覚えたんやな。一緒に歌おか」
「うん!」
気づけば、診察そっちのけで合唱が始まっていた。
「…」
あの。聴診器を当てながら歌っていて、ちゃんと胸の音、聞こえてるんですか。
いや、それよりも。
「名前……なまえ……俺、センスないって言われてるのに……」
もし変なのを付けてしまったら、一生後悔する気しかしない。
頭を抱える僕を、ハルが横から覗き込んで、こてんと首を傾げた。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「まぁ、気にしんとって。はい、あーん」
「あーん」
二人の歌をよそに、僕は名前の候補を必死に考える。
「そうだ…! そのまま、メーイさんとか」
「却下。ダサいわ」
「あっ…手厳しい」
僕の提案は、にべもなく切り捨てられる。
一瞥すら寄越さないまま、名医は今度は、ハルの手首へ指を添えて、脈を測っていた。
「ねぇ、メーイってどういう意味なの?」
「んーとな、名医。すごいお医者さんって意味やで」
会話に挟まれたハルは疑問をこちらに尋ねる。
目をまん丸にして、不思議そうな視線を僕に向けた。
「経過も悪くないし、体調も安定したな」
「うん、お咳の虫さん、いなくなった!」
「今ある薬を飲みきったら、もう大丈夫やね」
「やったぁ!」
ハルはぱっと顔を輝かせて、それから何かを思いついたように、僕たちを見上げた。
「──ヤブせんせは、すごいお医者さんなんだねぇ!」
満面の笑みでぴょんぴょん跳ねる妹を置いて、僕と名医の空気が、固まるのが分かった。
「…やぶ、って……ヤブ医者?」
「あ、いや、そのぉ……ハル」
あの日。
僕がぽろっと零した独り言を、ハルに聞かれていたのを、思い出す。
やばい。
絶対、あの言葉を口にしたのが僕だって、名医さんにも、伝わっている。
何とか誤魔化そうと言葉を探すが、気の利いた言い訳は、ひとつも出てこない。
滝みたいな冷や汗をかく僕をよそに、ハルはヤブの白衣をぐいぐい引っ張っている。
「ヤブせんせ!」
「なぁに、ハルちゃん?」
「いたいの治してくれて、ありがとう!」
ハルは勢いよく名医へ抱きつくと、頬をぐりぐり押しつけた。
彼は柔らかく目を細めて、そんな妹の頭を、くしゃりと撫でる。
「……ま、確かに。忘れん坊のお医者様には、ちょうどええ名前かもしれんな」
「えぇ!? ヤブ先生!? 名前、ヤブですか!?」
「覚えやすいしな、助かるわ」
僕を置いて、話はどんどん進んでいく。
名乗るたびに、医者としての腕を疑われるような名前で、いいんだろうか。
彼の病を見抜く力や調合する薬の効き目は、確かなものだった。
まぁ、それを帳消しにするほど、不器用で残念なところも、あるけれど。
「うぅーん、ヤブ、ヤブさん、ヤブ先生……」
もどかしさと納得が、半分こになった感情に、何も言えずにいると。
ハルが、花が咲いたみたいに笑った。
「ヤブせんせ! いっぱい、ありがとう!」
「うん、お礼言えて偉いなぁ。でも、ハルちゃんが頑張ったからやで」
くしゃくしゃの笑顔のハルと、それを見て目を細めるヤブ先生。
朝の光の中で、二人の笑い声が、いつまでも続いている。
もう、誰も死なない。
あんなに泣いて、苦しんで、失いかけた末に、こうして、笑える日が来た。
その光景に、膝から力が抜けそうになって、僕は、奥歯を噛んだ。
ここで泣いたら、心配をかけてしまうから。
ハルの咳も、もうすぐ止まる。ヤブ先生も、隣で笑っている。
こんな日々が、ずっと続けばいい──。
けれど。
その願いは、呆気ないほど簡単に、打ち砕かれることになる。




