第9話「平民として、あなたに」
『もう、何かに怯えて暮らす必要はないのだわ』
夕暮れの茜色が差し込む工房で、私は作業台の上を丁寧に布で拭いながら、胸の内で静かに呟いた。 棚には整然と並んだ白い石鹸。
硝子の小瓶に収まった、琥珀色のハーブ香油。
すべてが、私の手で生み出した確かな証拠だった。
理不尽に怯え、実家の顔色を窺い、身代わりの盾として震えていた過去は、もうどこにもない。
カラン、と静かに店の呼び鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ。申し訳ございません、本日の営業は――」
顔を上げた私の言葉が、喉の奥で止まった。
開かれた扉の前に立っていたのは、ジルヴェスト様だった。
身につけていたのは、いつもの威圧的な黒い軍服でも、辺境伯家の紋章がついた外套でもない。装飾のない深い紺色のウールの上着に、飾り気のない革靴。一人の平民の男と変わらない、質素な私服姿だった。
従者も連れず、ただ一人。 巨躯を微かに縮こまらせるようにして、彼は戸口に佇んでいた。
「……エレナ」
低く、掠れた声が私の名を呼んだ。 北方の屋敷で聞いていた、あの硬質な響きとはまるで違う。迷いと、躊躇いと、深い痛みが滲むような声音だった。
「……オルディス辺境伯閣下。先日は、助けていただきありがとうございました」
私は一歩引き、深く頭を下げた。 平民の礼儀に則った、丁寧で、明確な距離を置いた挨拶。 その冷徹なまでの礼儀正しさに、ジルヴェスト様の肩が痛ましげに跳ねた。
「やめてくれ。……閣下などと、呼ばないでほしい」
「ですが、私は平民です。貴族の閣下に対して、無礼な口を利くわけにはまいりません」
淡々と言葉を返す。 感謝はしている。実家の不当な介入を叩き潰してくれたのは、紛れもなく彼の手腕と法的な手続きのおかげだった。
けれど、胸の奥底に刺さった棘が、どうしても消えなかった。
『君を愛する気はない』
三年前のあの冷たい一言。 身代わりとして差し出された私を、ただの契約履行者として突き放した氷の眼差し。
あの痛みを覚えている限り、私はこの人を無条件に受け入れることはできなかった。
◇
その頃、北方の暗黒に包まれた王立鉄鉱山。
ズズン、ズズンと、地底深くで岩盤を削る鈍い音が反響していた。 湿気と硫黄の臭気が立ち込める坑道の中で、泥水に膝まで浸かりながら、ツルハシを振るう男がいた。
「ひいっ……! う、腕が……腰が砕ける……!」
かつてクロイツァー子爵と呼ばれた男、バルツァーだった。
ボロボロの粗布一枚を纏い、泥にまみれた手足には、重い鉄の鎖が食い込んでいる。手のひらの皮は完全にめくれ上がり、血と泥が混ざり合って黒く固まっていた。
「おい、手を止めるな! 割り当ての鉱石が足りなければ、今夜の配給は抜きだ!」
パチン、と看守の革鞭が背中に振り下ろされる。 鋭い痛みに、バルツァーは泥水の中へと無様に突っ伏した。
「許してくれ……! わしは貴族だぞ……! エレナ、エレナぁぁっ! わしをここから出せぇぇぇっ!」
泥水を啜りながら叫ぶ元子爵の懇願など、暗黒の地下牢の誰も聞き入れるはずがなかった。
一方、王都下町の共同洗濯場。 冷たい風が吹きつける川沿いの石段で、リリアーヌは膝をついて泣き叫んでいた。
「冷たい……! 手が痛い、痛いわぁぁっ!」
社交界の華と呼ばれた面影は、もはや微塵もなかった。 着ているのは、色褪せた継ぎ接ぎだらけの麻の作業着。
氷のように冷たい川水に晒された両手は、赤黒くひび割れて腫れ上がり、指の節々からは血が滲んでいた。
「おい、新入り! 何を突っ立ってんだい!」
洗濯場の古参の女が、山のような汚れ物のシーツをリリアーヌの前に叩きつけた。
「あんたがサロンでばら撒いた毒石鹸のせいで、うちの娘も酷い火傷を負ったんだよ! 損害賠償の代わりにここで死ぬ気で働くって決まったんだろうが! ほら、日暮れまでに全部洗いきりな!」
「嫌ぁぁっ! こんな汚い布、触りたくない! わたくしはお姫様なのよ! お姉様、助けてぇぇぇっ!」
泣き叫びながら、リリアーヌは洗濯板に手を擦り付けた。 かつて姉が泥にまみれて作った石鹸の価値を嘲笑い、奪い取ろうとした女に下された、自業自得の報いだった。
◇
静まり返る『アトリエ・シエル』の作業場。
ジルヴェスト様は、私の前にゆっくりと歩み寄った。 そして――。
ドサリと、重い音がした。
私は目を見張った。 北方軍閥の総帥たるオルディス辺境伯が、平民の工房の埃っぽい床に、両膝をついて頭を垂れていたのだ。
「……ジルヴェスト様!?」
「聞いてくれ、エレナ」
ジルヴェスト様は頭を上げなかった。 床に手をついたその指先が、微かに震えている。
「俺は、傲慢だった。お前を愛する気はないと言い放ち、辺境の過酷さに巻き込まないという身勝手な自己満足で、お前の心を三年間も踏みにじり続けた」
「頭を上げてください……! 貴族の方が、平民に膝をつくなど――」
「平民ではない。……俺の命の恩人だ」
ジルヴェスト様が顔を上げた。 その瞳の奥には、今にも零れ落ちそうなほどの涙が滲んでいた。
北方の風雪に鍛え抜かれた冷徹な軍人が、まるで泣きじゃくる子どものように、顔を歪めていた。
「俺は、救われていたんだ。お前が整えてくれた屋敷に、お前の作った香油に……前線で苦しむ部下たちを救ってくれた、あの石鹸に。どれほど心身を救われていたか、お前が去って初めて……失って初めて、己の愚かさを思い知った」
胸を掻きむしるような、痛切な告白。
「お前が泥にまみれて薬草を育てていた間、俺は何ひとつ礼を言わなかった。感謝を口にすれば、お前を危険な俺の身辺に縛りつけてしまうと、そう言い訳をして……ただ逃げていただけだったんだ。許してくれとは言わない。だが……」
ジルヴェスト様は懐から、小さく折り畳まれた、かつて握り潰しかけた求婚状を取り出した。 しわくちゃになった羊皮紙を、震える手で差し出す。
「もう一度、俺に機会をくれないだろうか。辺境伯の権力ではなく、一人の男として……お前と共に歩みたい」
「…………」
私は、差し出された紙片を見つめた。 文字のインクが滲み、何度も強く握り締められた跡のある羊皮紙。
その皺の深さが、この人がどれほどの後悔と焦燥を抱えてここまで走ってきたのかを、何よりも雄弁に物語っていた。
胸の奥で、頑なに閉ざしていた扉が、静かに軋みながら開いていく。 冷遇されていたと思っていた。
けれど、この人はただ不器用で、言葉足らずで、そして私と同じように傷つくことを恐れていただけだったのだ。
私はゆっくりと膝を折り、床に視線を合わせた。 ジルヴェスト様が、恐る恐る無骨で傷だらけの右手を差し出してくる。
私はその掌を見つめ、静かに、自分の指先を重ねた。
「っ……」
ジルヴェスト様の喉から、詰まったような息が漏れた。 触れ合った指先から、熱い脈動が伝わってくる。
彼は深く、胸の底から安堵の息を吐き出し、溢れそうになる涙を堪えるように固く目を閉じた。
「……ですが、ジルヴェスト様」
私は重ねた指をそのままに、柔らかな、だが譲れない光を瞳に宿して微笑んだ。
「私はもう、誰かの都合の良い妻に戻るつもりはありません。この工房は私の城であり、私の足で生きていくための誇りです」
「……ああ、わかっている」
「ですから、妻としてのお返事はできません。……でも」
私は首を少し傾げ、悪戯っぽく唇を綻ばせた。
「まずはお茶を一杯飲む、友人から始めてくださるなら……喜んでお迎えいたします」
ジルヴェスト様は一瞬呆気にとられたように目を見張り、それから、今まで見たこともないほど崩れた、温かな笑みを浮かべた。
「……ああ。喜んで、ご相伴に預かろう」
夕暮れの工房に、穏やかな笑い声が静かに溶けていった。




