第8話「因果の濁流」
ペタ、ペタと、糊のついた赤い紙が家具に貼り付けられる湿った音が、クロイツァー子爵邸の広間に虚しく響き渡っていた。
豪奢な大理石の床。金箔で縁取られたマントルピース、舶来のクリスタル製シャンデリア、代々受け継がれてきた名画の数々。
そのすべてに、王立裁判所の黒い公印が押された『差押』の赤札が無慈悲に貼り付けられていく。
「これもだ。銀の食器セット、およびワインセラーの年代物、全品を台帳に記載しろ」
羊皮紙を挟んだ板を抱えた執行官たちが、土足で絨毯を踏みにじりながら淡々と作業を進めていく。
かつて王都の社交界で栄華を誇った子爵邸は、いまや負債回収のための巨大な倉庫と化していた。
だが、邸内を包む冷徹な事務処理の音を掻き消すように、外の鉄格子門からは地鳴りのような怒号が押し寄せていた。
「金を出せ! 全額弁済しろ!」 「リリアーヌを出せ! あのペテン師の顔を引っ張り出せ!」
門を揺らす激しい金属音。 外を埋め尽くしていたのは、馬車を連ねて押し寄せてきた貴族令嬢たちと、その屈強な従者たちだった。
令嬢たちの多くは、顔を厚いヴェールや包帯で覆い隠している。
覆いの隙間から覗く皮膚は、痛々しく赤黒くただれ、水泡が潰れて黄色い浸出液が滲んでいた。
「わ、わたくしのせいじゃありませんわ! わたくしは悪くありません!」
玄関ホールから引きずり出されたリリアーヌは、髪を振り乱して甲高く叫んだ。
憲兵隊の取り調べから仮釈放されたばかりの彼女は、昨日の汚れも落ちていないドレスのまま、門の前に立ち尽くしていた。
「あいつのせいよ! 全部、エレナが悪いのよ! あいつが作った石鹸の通りに作っただけなのに! わたくしは被害者よ!」
リリアーヌはエレナからの送金と石鹸の供給が途絶えた後、社交界での面目を保つため、屋敷の厨房で下男たちに命じて模造石鹸を密造させたのだ。
だが、前世の知識と精密な技術を持つエレナの工程を、素人が真似できるはずがなかった。
腐臭を誤魔化すために過剰に投入された強アルカリの灰汁、酸化して酸敗した廃油、適正な熟成期間を完全に無視した粗悪な固形物。
それは石鹸などではなく、人の皮膚を容赦なく溶かす猛毒の化学塊だった。
「ふざけるな、この泥棒猫が!」
ヴェールを乱暴に剥ぎ取った伯爵令嬢が、怒り狂って叫んだ。
かつてリリアーヌを取り巻き、共にエレナを嘲笑していた令嬢だった。その自慢だった白皙の頬は、ただれた皮膚がひきつり、無惨な火傷痕のようになっていた。
「『手作りの最高級薬用石鹸』だと偽って、高額な謝礼を取って売りつけておきながら! わたくしの顔をどうしてくれるの!? 来月の夜会も、公爵令息との婚約の儀も、すべて破談になったのよ!」
「損害賠償を払いなさい! 治療費と慰謝料、金貨百枚を今すぐ差し出しなさい!」
令嬢たちの親族である貴族たちも、怒り心頭で怒声を浴びせる。
「し、知るものですか! 買ったのはそっちの勝手でしょう!? わたくしに触るんじゃないわよ、この化け物ども!」
リリアーヌがヒステリックに喚き、足元の小石を投げつけた。 その傲慢極まりないひと言が、群衆の理性を完全に吹き飛ばした。
「化け物だと……!? 誰のせいでこうなったと思っているの!」
怒り狂った令嬢が、門の脇にあった雨水溜めの桶を両手で掴み上げた。 馬車の車輪が跳ね上げた泥と馬糞が混ざり、黒く濁って悪臭を放つ泥水。
「お前こそ、その汚い性根相応の姿におなりなさい!」
バシャアアン!
大量の汚泥が、リリアーヌの頭上から容赦なく浴びせかけられた。
「ぎゃああああっ!? 冷たい! 臭い、臭いわぁぁっ!」
リリアーヌの金髪はヘドロまみれになって顔にへばりつき、自慢のドレスは見る影もなく黒褐色に染め上げられた。 さらに、激昂した令嬢たちとその侍女たちが殺到する。
「泥棒! ペテン師!」 「二度と社交界に顔を出すな!」
ビリビリ、と絹が引き裂かれる激しい音が響く。 袖が引きちぎられ、宝石の留め具が毟り取られ、リリアーヌは地面に転がされて泥水を啜りながら泣き叫んだ。
「嫌ぁぁぁっ! お姉様! お父様ぁぁぁっ! 誰か助けて、助けてぇぇぇっ!」
かつて姉を身代わりの生贄として嘲笑い、他人の功績を盗んで贅沢を貪った女の、哀れで無惨な末路だった。
駆けつけた憲兵たちに引き剥がされた時、リリアーヌの顔には社交界の華としての面影など微塵も残っていなかった。
◇
その頃、下町の『アトリエ・シエル』。
作業場には、穏やかな沈黙と、新しく仕込んだラベンダーの清々しい香りが満ちていた。
壊された木戸は、駆けつけてくれた鍛冶屋の親方と大工の手によって、以前よりも頑丈な鉄板入りの扉へと修繕されていた。散乱していた石鹸の破片もきれいに片付けられ、棚には整然と新しい製品が並んでいる。
パチ、パチと、壁際の小さな暖炉の薪が爆ぜる。
私は作業台の前で、手元に届いた数通の手紙を見つめていた。 差出人は、クロイツァー子爵家の分家や遠縁の親族たちだ。
『エレナ、どうか子爵家を救ってほしい』 『お前が辺境伯閣下に頼み込んでくれさえすれば、債務の取り立てを待ってもらえるはずだ』
『一族の恥を晒す気か。今すぐ王立裁判所へ行き、告訴を取り下げろ』
私が実家で召使いのように扱われ、身代わりとして辺境へ差し出された時、誰一人として助けの手を差し伸べなかった者たち。
自分たちに火の粉が降りかかるとなった途端、恥知らずにも「一族の絆」を振りかざして泣きついてきているのだ。
「……愚かしい」
私の胸に、迷いは一切なかった。 情に流されて過去の亡霊を拾い上げれば、再びあの泥沼に引きずり戻されるだけだ。
私は手紙の封筒を一枚ずつ手に取り、内容をこれ以上読むこともなく、暖炉の火の中へと投げ入れた。 赤い炎が乾いた紙を舐め、一瞬で黒い灰へと変えていく。
煙突を通って立ち上る煙とともに、実家との因縁は、私の人生から完全に消滅した。
ふう、と静かに息を吐いた時、表の路地から規則正しい靴音が聞こえてきた。
ザッ、ザッ、ザッ――。
軍用の硬い革底が、正確な歩調で石畳を踏みしめる音。 下町の喧騒の中にあっても、決して埋もれることのない、重厚で凛とした足音だった。
私は作業の手を止め、そっと鉄の扉の方へと視線を向けた。 姿は見えない。
けれど、あの人が工房の周囲を密かに巡回し、危害が及ばないよう見守ってくれていることが、その音だけで分かった。
……あんなに言葉足らずで、不器用だった人が。 権力で私を従わせるのではなく、一歩引いた場所で、ただ私の日常を守るためだけに立っている。
耳を澄ませていると、胸の奥に、言葉にできない微かな温もりがじんわりと広がっていった。
◇
夕刻。 王都の外れ、クロイツァー子爵邸の正門前。
屋敷の天辺に掲げられていた、子爵家の紋章旗がロープを切られ、バサリと泥塗れの地面に引きずり降ろされた。
代わって掲げられたのは、王立管財局の差し押さえを示す黒い三角旗だった。
爵位は剥奪され、領地と屋敷は全額債権の弁済のために競売へと回されることが正式に決定した。
邸の前に、頑丈な鉄格子で囲まれた護送馬車が停められていた。
「出せ……! わしをここから出せぇぇぇっ!」
鉄格子の中から、嗄れた叫び声を上げていたのはバルツァーだった。 貴族の豪奢な上着は剥ぎ取られ、着せられているのは囚人用の粗末な麻袋のような囚人服。
手足には重い鉄の鎖が巻きつけられ、一歩動くたびにジャラリと鈍い音を立てる。
「わしは子爵だぞ! 貴族院の議員だ! こんな泥棒や殺人犯の行くような鉱山になど行けるかぁぁっ!」
「うるさい、大人しく乗れ!」
憲兵の容赦ない警棒が、バルツァーの背中を打ち据えた。 馬車の奥へと押し込まれ、鉄扉が重々しい音を立てて施錠される。
行き先は、北方の果てにある王立鉄鉱山。 太陽の光すら届かない地下数百メートルの暗闇で、死ぬまで岩を砕き続ける二十年の強制労働刑。
かつて娘を売り飛ばして得た金を浪費し、他人の血を啜って生きてきた男が、自らの身体で負債のすべてを贖う時が来たのだ。
鞭の鋭い音が響き、護送馬車が砂埃を上げて走り出す。 ガタガタと軋む車輪の音とともに、没落した元子爵の絶叫は、夕暮れの空へと吸い込まれて消えていった。




