第7話「法と証文の鉄槌」
これほどまでに浅ましく、醜悪な叫びを、かつて聞いたことがあっただろうか。
冷たい手錠を嵌められたバルツァーは、憲兵の両腕に押さえつけられながら、血走った目を剥き出しにして私を睨みつけていた。
「エレナ! 貴様、実の親を憲兵に突き出す気か! わしがどれだけの金をかけて貴様を育ててやったと思っている! 親子の情を忘れ、恩を仇で返す気か!」
その怒声には、かつて私を支配していた権威の欠片も残っていなかった。 ただ己の保身のためだけに喚き散らす、見苦しい悲鳴にすぎない。
「親子の情、ですか」
私は散乱した石鹸の破片を踏みしめ、一歩前へ出た。 その声は、自分でも驚くほど穏やかで、静まり返っていた。
「私の記憶にあるのは、妹のための粗末な着回しと、投機の失敗を埋めるための道具として辺境へ売り飛ばされた記憶だけです。育成費とおっしゃるなら、私が辺境から子爵邸へ送り続けた生活費の総額で、とっくに何倍もの清算が済んでおります」
「へ、屁理屈を抜かすな! 親に対する不敬だ! 子の財産は親のものだと法にも定められて――」
「失礼ですが、クロイツァー子爵」
憲兵隊の背後から、黒い法服を着た怜悧な目つきの男が進み出た。
王立公証役場の公証官だった。その手には、革表紙の公的台帳と、赤い封蝋が押された正本が握られている。
「王国法典第三巻・民事身分編第十四条――『身分返上証明書を受領した者は、旧家格における一切の血族権および扶養請求権から恒久的に離脱し、何人といえども過去の身分関係を根拠とした金銭的・身分的要求を成し得ない』。……公証役場において、エレナ殿の身分返上は三日前に適法に完了しております。貴方が彼女の親であるという法的事実は、すでにこの国に存在いたしません」
「な……っ!?」
「さらに言えば」
公証官は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、冷酷に言葉を重ねた。
「貴方がモルガン商会へ差し入れたという『石鹸工房の担保設定念書』ですが、権限なき第三者による無効証書であり、刑法第七十二条における公文書偽造および詐欺未遂罪に該当します。もはや民事の不手際ではなく、明らかな刑事犯罪です」
理路整然とした法の言葉が、バルツァーの逃げ道をひとつ残らず塞いでいく。 バルツァーの顔が、怒りの赤から急速に土気色へと褪色していった。
もはや口から出るのは、意味をなさない唸り声だけだった。
「さて、クロイツァー子爵」
私の前に立ち塞がっていたジルヴェスト様が、低く重い足音を響かせてバルツァーの前へと歩み出た。
その手には、上着の内ポケットから取り出された一枚の厚手の羊皮紙があった。
「お前が犯した不法侵入と器物損壊の罪は、王都裁判所で裁かれることになる。……だが、その前に片付けておくべき話がある」
ジルヴェスト様は書類を広げ、公証官へと差し出した。 その瞬間――。 ふと視線を巡らせたジルヴェスト様の灰色の瞳が、背後に立つ私と正面から合致した。
「あ……」
ジルヴェスト様の喉仏が、小さく跳ねた。 威厳に満ちていたその表情が一瞬で強張り、言葉を詰まらせる。
北方の屋敷で私を冷淡に見下ろしていたあの冷徹な主が、まるで叱責を待つ不器用な少年のように、居心地悪そうに灰色の瞳をわずかに伏せたのだ。
冷たい書類を握るその指先が、微かに迷うように強張っていた。
だが、彼はすぐに息を整え、公証官へと羊皮紙を手渡した。
「……確認を頼む」
「はっ」
公証官が書類を受け取り、内容をその場で朗読し始めた。
「――債権譲渡証書。モルガン商会がクロイツァー子爵家に対して保有するすべての債権。すなわち、三年前の旧債務元金金貨三百枚、ならびに追加無保証融資元金金貨二百枚、計五百枚の全債権を、オルディス辺境伯家が一括で買い取り、正当な新債権者として登記されたことを証明する」
工房の中に、息を呑む静寂が広がった。 床に座り込んでいたリリアーヌが、信じられないものを見る目でジルヴェスト様を見上げた。
「ご、五百……枚……?」
「モルガン商会は、期日通りの全額弁済を要求していたはずだ」
ジルヴェスト様はバルツァーを見下ろし、感情の削ぎ落とされた声で宣告した。
「俺が債権を引き継いだ以上、猶予を与える理由は爪の先ほどもない。……クロイツァー子爵。金貨五百枚、今ここで一括弁済してもらおう」
「ご、五百枚など……!」
バルツァーの両膝がガクガクと震え始めた。
「あるわけがないだろう! 全額返済など、できるわけがない! そんな金、子爵家の領地も屋敷もすべて売り払ったって足りんわ!」
「ならば、債務不履行だ」
ジルヴェスト様は冷酷に言い放った。
「即座に貴族院および王立裁判所へ執行令状を申請する。クロイツァー子爵邸の全動産・不動産の赤札差し押さえ。さらに貴族籍の剥奪と、未清算分の負債を償うための王立鉱山における強制労働刑への移行手続きに入る」
「鉱山……強制労働……!?」
バルツァーの瞳孔が限界まで見開かれた。 王立鉱山。死ぬまで暗黒の地下でツルハシを振るい続ける、重犯罪者と破産貴族の墓場。
贅沢と虚飾にまみれ、他人を踏みつけにして生きてきた男が、最も恐れていた現実。
「嫌だ……! 嫌だぁぁぁっ! 全額返済などできるわけがない! 許してくれ、頼む、エレナ、助けてくれぇぇぇっ!」
バルツァーは絶叫し、狂乱したように身をよじった。 そして次の瞬間――。
じょろじょろと、床に散らばった石鹸の白い粉を濡らす、生々しい異音が響いた。
高級な絹のズボンの股間から、急速に濃い染みが広がり、アンモニアの刺激臭が室内に立ち込める。
恐怖と絶望のあまり、バルツァーはその場で完全に失禁し、白目を剥いて床に崩れ落ちた。
「ひっ……! お父様!? いや、汚いわ! 寄らないで!」
隣にへたり込んでいたリリアーヌが、飛び散った汚水から逃れようと無様に這いつくばった。 自慢の金糸のドレスが、泥と割れた石鹸と汚水に塗れて黒く汚れ果てていく。
「わ、わたくしは関係ありませんわ! 全部お父様がやったことです! わたくしはただ、姉に会いに来ただけで……!」
「共犯としての取り調べは、憲兵隊本部で行う」
憲兵隊長が一歩進み出て、床で泣き叫ぶリリアーヌの細い腕を乱暴に引っ張り上げた。
「連行しろ」
「嫌ぁぁぁっ! 放しなさいよ、この無礼者! わたくしはリリアーヌ・クロイツァーよ! 社交界の華なのよぉぉぉっ!」
甲高い悲鳴と、失禁して泡を吹きながら引きずられていくバルツァーの呻き声。 二人は憲兵たちに両脇を固められ、下町の夜の闇の中へと引きずり出されていった。
遠ざかっていく憲兵隊の護送馬車の車輪の音と、絶望の叫び声。 嵐が去った後のように、壊れた工房の中には静寂だけが残されていた。
「…………」
私は、汚れた床を見つめながら、静かに息を吐き出した。 胸を締め付けていた重苦しい鉛の塊が、完全に消え去っていた。
三年間、私を呪縛し続けていた実家の影。 私を道具として扱い、身代わりとして売り飛ばし、自立した後すら吸い尽くそうとした寄生虫たち。
その不当な搾取の鎖が、国家の法と証文の手によって、永遠に、完璧に叩き折られたのだ。
圧倒的な解放感が、冷えた夜の空気とともに、私の全身を心地よく満たしていった。




