第6話「踏み躙られた境界線」
木製の頑丈な扉が、閂の受け具ごと弾け飛んだ。 私は作業台の上に広げていた薬草の仕分けの手を止め、咄嗟に立ち上がった。
粉々になった木片が乾いた音を立てて床を転がる。
夜の冷気が吹き込む工房の戸口に現れたのは、息を荒げたバルツァーと、派手な毛皮のショールを羽織ったリリアーヌだった。その後ろには、棍棒を手にした荒くれ者風の男たちが四人、殺気立って控えている。
「ここか……! こんなみすぼらしい豚小屋で、わしの財産を隠していたのか!」
バルツァーは血走った目で店内を見回すと、手にした真鍮の握り手がついた短杖を振り上げ、乾燥棚へ向かって叩きつけた。
ガシャアン、とけたたましい破壊音が響く。
棚板がへし折れ、四週間かけて丁寧に熟成させていた白い石鹸が、床一面に散らばった。硬く引き締まった石鹸の角が砕け、ハーブの香りが飛び散る破片とともに濃密に立ち上る。
「お父様、早く権利書を探して! あんな愚図の顔を見るのも虫酸が走るわ!」
リリアーヌが絹のハンカチで鼻口を押さえながら、金切り声を上げた。 その視線は、床に落ちた石鹸を踏みにじりながら、作業台の前に立つ私を激しく睨みつけている。
「エレナ! よくも親に恥をかかせてくれたな!」
バルツァーが唾を飛ばしながら、私の眼前までずかずかと踏み込んできた。
「モルガン商会への担保として、この店の権利書と石鹸の調合書を差し押さえる! どこに隠した、吐け! 親の恩を忘れて逃げ出した不忠者めが、貴様のものなど最初から何ひとつないのだ!」
理不尽な恫喝が、狭い工房に反響する。 だが、私の心は凍りつくほどに冷え切っていた。
かつて子爵邸にいた頃なら、この怒声に萎縮し、ただ震えていたかもしれない。
けれど、いまの私には恐れる理由など何ひとつなかった。
私は視線を逸らすことなく、作業台の引き出しから二枚の書類を取り出した。 そして、バルツァーの鼻先へ向かって、毅然と掲げてみせる。
「子爵閣下、ならびにリリアーヌ。即座にその武器を捨て、私の店から退去してください」
透明な声で、はっきりと告げる。
「手元にあるのは、商人ギルドが発行した正規の営業組合員登録証、そして王立公証役場による身分返上証明書です。私はすでに子爵家の籍を正式に離脱した平民であり、この工房の資産はすべて国家法により保護された私有財産です」
「な、なんだと……!?」
「王国憲章第十二条――都市不可侵権。正当な裁判所の執行令状を持たない貴族が、平民の私有地に武装して押し入る行為は、明確な不法侵入です。これ以上の狼藉を続けるならば、憲兵隊へ通報いたします」
「黙れ、黙れ、黙れぇっ!」
論理的な反論を叩きつけられ、バルツァーは逆上して顔を真っ赤に染めた。
「たかが紙切れ一枚で、わしに指図する気か! おい、者ども! そこの棚と作業台をすべてひっくり返せ! 紙も金も、根こそぎ奪い取れ!」
私兵たちが下卑た笑みを浮かべ、棍棒を構えて踏み込んでくる。 さらに、リリアーヌが憎悪に歪んだ顔で私に詰め寄ってきた。
「偉そうに法律なんて語んじゃないわよ、この身代わりの出来損ないが!」
リリアーヌは毛皮のショールを振り乱し、爪を立てた右手を高く振り上げた。
「わたくしの代わりに生贄になっていればよかったのよ! 姉のくせに、わたくしより目立つなんて許せない! その生意気な顔、ズタズタに引き裂いてやるわ!」
狂気に駆られた鋭い平手打ちが、私の頬めがけて振り下ろされる――。
その瞬間だった。
「――そこまでだ」
低く、地鳴りのような声が響いた。
直後、工房の破られた入り口から、重厚な鉄の響きとともに無数の影が雪崩れ込んできた。 白と黒の陣羽織――王都憲兵隊の完全武装部隊だった。
銃剣を構えた数十名の憲兵が、一瞬にして私兵たちを取り囲み、冷たい切っ先を喉元に突きつける。
「動くな! 武器を捨てろ!」
「ひっ……!?」
私兵たちは戦う間もなく棍棒を取り落とし、頭を抱えて床に組み伏せられた。
そして、リリアーヌの振り下ろされかけた手首を、黒革の軍用手袋が寸前で掴み止めた。 万力のように硬く、一切の揺らぎのない力。
「痛っ……! な、何よ、放しなさいよ!」
リリアーヌが悲鳴を上げて顔を上げる。 そこに立っていた男の姿を捉えた瞬間、彼女の甲高い声は、喉の奥で息を呑む音へと変わった。
漆黒の軍用外套。 胸元に刻まれた、北方オルディス辺境伯家の銀の双頭鷲の紋章。 冷徹無比な光を湛えた、鋭い灰色の瞳。
「お、オルディス……辺境伯……!?」
バルツァーが顎を外したように口を開け、腰を抜かしかけた。
ジルヴェスト様は、リリアーヌの手首を汚いゴミでも捨てるかのように無造作に振り払った。
そして、私とバルツァーたちの間に割って入るように、その広く頑丈な背中で私を完全に覆い隠した。
「……っ」
至近距離で見る彼の背中は、記憶の中にある姿そのものだった。 だが、その張り詰めた筋肉が、微かに震えているのが分かった。
ジルヴェスト様はゆっくりと首だけを巡らせ、背後の私へと視線を落とした。
私の顔、首筋、手先。 怪我がないか、傷つけられていないかを確かめるように、その灰色の瞳が激しく揺れている。
いつも感情を押し殺していたあの人が、まるで壊れ物を恐る恐る確かめるような切迫した光を瞳の奥に宿していた。
無傷であることを確認すると、彼は小さく喉を詰まらせ、再び前を向いた。
その背中から立ち上る空気は、先ほどまでとは比べ物にならないほどの、凄まじい威圧感へと変貌していた。
「ひ……っ、あ……」
リリアーヌは、目の前に立ち塞がる巨躯の軍閥総帥から放たれる圧倒的な殺気と威圧に耐えきれず、膝の力を完全に失った。
へたり込み、床に散らばった石鹸の破片の上に尻餅をつく。
ガタガタと歯の根が合わないほどに震え、白粉を塗りたくった顔は土気色に染まっていた。
「へ、辺境伯閣下……! こ、これは誤解でございます!」
バルツァーが脂汗を吹き出しながら、両手を擦り合わせて諂い笑いを浮かべようとした。
「わ、わしは父親として、勝手に出て行った娘を連れ戻しに参っただけでして! 閣下もこの女には手を焼いておられたはず! わしが代わりにきつく仕置きを――」
「憲兵隊長」
ジルヴェスト様は、バルツァーの卑劣な言い訳を一瞥もせず、冷たく命じた。 背後に控えていた憲兵隊長が進み出る。
「はっ!」
「この男を拘束しろ」
ガチャン、と重い鉄の音が響いた。 冷え切った鋼鉄の手錠が、バルツァーの両手首に容赦なく嵌められる。
「な、何を……!? わしは子爵だぞ! 貴族院の議員だぞ! こんな無礼が許されると――」
喚き散らすバルツァーを見下ろし、ジルヴェスト様は刃物のように研ぎ澄まされた冷徹な声音を、静かに叩きつけた。
「王国憲章第十二条違反――王立都市における平民店舗への不法侵入、および器物損壊の現行犯だ。身分特権による免責など、一切存在せん」




