第5話「辺境伯の猛省と追跡」
北方オルディス辺境伯領から王都までの行程約四百キロメートルを、ジルヴェストは軍用伝令馬を乗り継ぎ、わずか一昼夜半で駆け抜けた。
不眠不休の強行軍。凍てつく北の風から王都の埃っぽい熱気配へと空気が切り替わる間も、手綱を握る手は一度も緩まなかった。
王都へ滑り込んだジルヴェストが最初に向かったのは、中央区に聳え立つ王立公証役場だった。
煤けた軍服のまま案内窓口に立ち、叩きつけるように身分証を提示した彼に、担当の公証人は青ざめて平伏した。
「……エレナの居場所と、手続きの記録を出せ」
低く絞り出すような声に、公証人が震える手で差し出したのは、厳重に保管されていた一枚の分厚い台帳だった。
――身分返上証明書。 受理印の日付は、三日前。
そこには、エレナが自らの意志でクロイツァー子爵家の籍を離れ、オルディス辺境伯家との婚姻契約を完全に解消した事実が、揺るぎのない公的効力をもって記録されていた。
「奥様――いえ、エレナ様は正当な権利を行使されました。契約書の特約条項に基づき、双方の合意期間を満了したことによる合法的身分返上です。いかに辺境伯閣下であっても、これを不服として撤回させる権限は王国法上ございません」
「……わかっている」
ジルヴェストは乾いた唇を噛み、台帳から視線を外した。 撤回させる気などなかった。
辺境伯の武力と権力を行使すれば、憲兵を動員して彼女を捕らえ、力ずくで北方の館へ連れ戻すことなど容易い。
だが、それをした瞬間、自分は彼女の尊厳を二度踏みにじることになる。
三年前、借金の盾として差し出された彼女を、自分は「愛する気はない」と突き放した。
過酷な戦場から遠ざける配慮のつもりだった。だがその実態は、傷つくことを恐れた己の傲慢であり、冷酷な怠慢でしかなかったのだ。
彼女は三年間、一言の不満も漏らさず義務を果たし、満了の朝に誰にも迷惑をかけず立ち去った。
その毅然とした誇りを、権力という名の暴力で汚すことなど、ジルヴェストの矜持が絶対に許さなかった。
「……王都下町、職人街か」
台帳に記載されていた、新しい居住地と工房の届け出。 ジルヴェストは公証役場を後にし、馬を預けて単身、下町へと足を向けた。
◇
昼下がりの下町は、活気と騒音に満ちていた。 露店商の掛け声、鍛冶屋の槌音、子どもたちの駆ける足音。
外套のフードを目深に被り、ジルヴェストは狭い路地裏の物陰に身を潜めた。
角を曲がった先の小さな木造店舗に、控えめな看板が掲げられていた。 『アトリエ・シエル』。
戸口の前に、エプロンをつけたエレナの姿があった。 近所の主婦から銅貨を受け取り、丁寧に包んだ白い石鹸を手渡している。
その横顔には、北方の屋敷では一度も見せたことのない、柔らかで温かな微笑みが浮かんでいた。
ジルヴェストの心臓が、激しく跳ねた。 思わず、一歩前へ足を踏み出しかける。
名を呼び、駆け寄り、その細い肩を抱き締めてしまいたいという衝動が、全身の血を沸騰させた。
だが――。 靴底が石畳を踏みしめる直前、ジルヴェストの身体は凍りついたように止まった。
(……どの面を下げて、彼女の前に立つというのだ)
冷徹な自省が、激情を一瞬で押し留めた。 自分は彼女に冷たい言葉を投げつけ、三年間も孤独の中に置き去りにした男だ。
彼女の笑顔は、自分から逃れ、自分の足で大地を踏みしめたことで初めて咲いたものだ。
いま自分が現れて何を言える? 「戻ってくれ」と乞うのか? それはただの、男の身勝手な欲望でしかない。
ジルヴェストは物陰に引き下がり、壁のレンガを爪が割れるほど強く握り締めた。 奥歯を噛み締め、立ち尽くす。 胸の奥が引き裂かれるように痛かった。
遠くから見る彼女の笑顔は眩しく、そしてあまりにも切なかった。
だが、感傷に浸る時間は与えられなかった。 物陰から工房を見守るジルヴェストの背後に、気配を殺した男が音もなく滑り込んできた。
私服を着崩しているが、目つきの鋭い男――北方軍の諜報部員だ。
「閣下。ご指示通りの調査結果です」
男は周囲を警戒しながら、ジルヴェストの耳元に低く囁いた。
「クロイツァー子爵家が、極めて不穏な動きを見せております。昨日、子爵の従僕がこの工房に押し入り、営業権利書の引き渡しを要求して職人たちに叩き出されました。……さらに子爵は、高利貸しのモルガン商会へ駆け込み、信じがたい念書を差し入れております」
「……何だと」
「子爵はモルガン商会に対し、『娘エレナが開業した工房の全資産および調合技術の独占権』を担保として差し入れるという念書を作成し、追加融資の返済猶予を取り付けようと画策しております。言うまでもなく、完全な無権限による詐術です」
ジルヴェストの灰色の瞳に、氷のような殺気が宿った。 あの一族は、どこまでエレナを搾取すれば気が済むのか。
三年の身代わりで自らの借金を先送りしておきながら、今度は彼女が自力で築いたわずかな城すら、己の延命のために奪い取ろうというのか。
「子爵の私兵の動きは」
「子爵本人が私兵数名を連れ、力ずくで工房を制圧する準備を進めております。今夕にも決行する見込みです」
「……愚か者が」
ジルヴェストは低く吐き捨て、懐から軍用時計を取り出して時刻を確認した。
「王都憲兵隊の本部へ走れ。憲兵隊長のアレクシスを呼べ。俺の直筆の書簡を渡せば、即座に動くはずだ」
「はっ。……しかし閣下、辺境伯家の私兵を用いれば、子爵の私兵など一瞬で粉砕できますが」
「駄目だ」
ジルヴェストは即座に部下の提案を却下した。
「ここは王都だ。平民街での貴族の私闘は、都市不可侵権を定めた王国憲章に抵触する。何より、エレナの工房に貴族同士の抗争という泥を塗るわけにはいかん。……すべては国家の法に従い、公的な手続きのもとで、あの一族を完全に断罪する」
「御意!」
部下が影のように駆け去っていく。 ジルヴェストは再び、遠くの工房へと視線を向けた。 夕暮れの光が、店先の片付けを始めたエレナの髪を淡く照らしている。
(二度と、お前を踏みにじらせはしない)
ジルヴェストは胸の中で静かに、だが鋼のように固い誓いを立てた。 己が彼女に愛される資格があるかどうかは関係ない。
一人の人間として、彼女の誇りと居場所を、何があっても守り抜く。それが、過去の罪を背負う男の唯一の務めだった。
◇
同じ頃、王都下町の歓楽街外れ――モルガン商会、会主応接室。
「これだ、モルガン! これを見ろ!」
バルツァー子爵は机の上に、朱肉の印が押された一枚の書面を叩きつけた。 目の充血した狂気の表情で、脂汗を垂らしながら身を乗り出す。
「娘のエレナが開業した石鹸工房の担保設定念書だ! あいつが辺境で開発した薬用石鹸の調合製法、それに店舗の権利と売上請求権を、すべて貴殿の商会へ担保として譲渡する!」
モルガンは机上の書面を指先で拾い上げ、じっくりと目を走らせた。 冷淡な視線が、不自然な文言と、不完全な署名を捉える。
「へえ……。エレナ様ご本人の直筆署名はございませんが?」
「親であるわしの署名があれば十分だ! 未婚の娘の財産は家督の管理下にある! あいつの石鹸は、いま下町で飛ぶように売れているのだぞ! 王都中の大商人どもに独占販売権を売り払えば、金貨千枚など軽く回収できるわ!」
バルツァーは必死に捲し立てた。 エレナがすでに身分を返上し、子爵家の管理権など爪の先ほども及ばない事実を、己の都合のいい妄想で完全に上書きしていた。
モルガンは書類から顔を上げ、細めた瞳の奥でぞっとするほど冷たい光を走らせた。
(……この男、完全に正気を失っていやがる)
モルガンは貸金業者として、数多くの没落貴族を見てきた。
だが、王立公証役場の身分返上証明書が発行された後で、他人の財産を勝手に担保にするような愚行に走った者は初めてだった。
これはもはや民事の債務不履行ではない。国家の法を愚弄する完全な詐術――公文書偽造および詐欺未遂の重罪だ。
「……なるほど。確かに受け取りやしたよ、子爵閣下」
モルガンは口元だけに商売用の歪んだ笑みを張り付け、念書を金庫へと収めた。
「これで、旧債務三百枚と追加融資二百枚、計五百枚の返済期日を、明日の正午までお待ちいたしましょう」
「お、おお……! そうか、恩に着るぞ、モルガン!」
「ええ、ええ。ただし、もし明日の正午までに現金の用意か、あるいはこの担保が正当なものとして引き渡されなかった場合……その時は、法に基づき全財産を差し押さえさせていただきやすんで。よろしいですな?」
「ふん、心配するな! 今夜中には工房を完全に手中に収めてみせるわ!」
バルツァーは勝ち誇った笑みを浮かべ、大股で商会を後にした。 自ら首に縄をかけ、絞首台の踏み板に立っていることすら気づかずに。
モルガンは窓から遠ざかる子爵の後ろ姿を見送り、冷酷に吐き捨てた。
「馬鹿め。……墓穴を掘りやがったな」
◇
黄昏時が過ぎ、下町は急速に深い闇へと沈んでいった。 通りを行き交う人影もまばらになり、路地には冷たい夜風が吹き抜ける。
工房の灯りは消え、表の木戸には頑丈な閂が下ろされていた。 物陰に潜んでいたジルヴェストは、路地の奥から響いてくる不穏な足音を聞き逃さなかった。
ガタガタと車輪を軋ませ、一台の黒塗りの馬車が下町の狭い路地を暴走気味に突き進んでくる。
御者台に乗っているのは柄の悪い男たち。馬車の後方には、棍棒や鉄パイプを手にした私兵風の荒くれ者たちが四人、息を潜めて追従していた。
馬車が『アトリエ・シエル』の真ん前に急停止する。
扉が開き、血走った目をしたバルツァー子爵が、手にした短杖を振り回しながら降り立つのを、ジルヴェストの灰色の瞳が冷徹に捉えた。
「……愚か者が。自ら破滅の罠に飛び込んできたか」
ジルヴェストは外套を翻し、暗闇の中で鋭く指を鳴らした。 闇に潜んでいた憲兵隊の伏兵たちへ向けた、開戦の合図だった。




