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都合のいい身代わり妻はやめました。これからは自分の足で幸せになります  作者: 月雅


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第4話「評判と招かれざる客」



「エレナさん、今日もあのカモミールの石鹸を二つ包んでおくれ!」


 朝の澄んだ空気をつんざいて、馴染みの宿屋の女将が工房の引き戸を勢いよく開けた。  エプロンのポケットから銅貨を取り出し、鼻息荒く作業台へと身を乗り出してくる。


「おはようございます、マルタさん。毎度ありがとうございます。奥の棚から取ってきますね」


「待ってたよ! うちの旦那ったらね、あんたの石鹸で体を洗うようになってから、背中の湿疹がすっかり引いたって大騒ぎさ。泊まりの客にも使わせたら、『この宿はどんな高級な香油を使っているんだ』って驚かれちまってねえ」


 奥の乾燥棚から、熟成を終えた石鹸を取り出して麻紙で包む。  紙の擦れる乾いた音とともに、ふわりと甘く青みのあるハーブの香りが立ち上った。


「肌の炎症を抑える成分を多めに配合してありますから。でも、強く擦りすぎないよう旦那様にお伝えくださいね」


「あいよ! ああ、本当に助かるよ」


 女将が笑顔で去っていくのと入れ違いに、今度は近所の鍛冶屋の親方が顔を覗かせた。  煤で汚れたたくましい腕を突き出し、気恥ずかしそうに頭を掻く。


「よお、嬢ちゃん。……あの、油汚れがよく落ちるってやつ、まだ残ってるか? うちの若い衆が、手が荒れて鉄が握れねえって泣きついてきやがってよ」


「職人用の石鹸ですね。木灰の灰汁を強めに調整したものが、ちょうど今朝仕上がりました。泡立ててから少し馴染ませると、頑固な機械油も肌を痛めずに浮き上がります」


「おお、そいつはありがてえ! 五個まとめてくれ!」


 『アトリエ・シエル』の看板を掲げてから二週間。  口コミの広がりは、私の予想を遥かに超えていた。


 共同洗濯場の女たちから始まった評判は、近隣の主婦層へ、そして油汚れに悩む職人たちへと急速に波及した。安価な獣脂石鹸による肌荒れや悪臭に長年苦しめられてきた下町の人々にとって、清潔で、肌に優しく、確かな薬効のある石鹸は、喉から手が出るほど待ち望まれていた日用品だったのだ。


 開店からわずか二刻で、棚に並べた石鹸はすべて完売した。


「エレナちゃん、もっと仕込みの量を増やせないのかい? 原料の油に少し安い獣脂を混ぜちまえば、今の倍は作れるだろ。飛ぶように売れるんだから、勿体ないよ」


 隣の八百屋の親父が、空になった棚を見て声をかけてきた。  悪気のない、純粋な商売上の助言だ。  だが、私は静かに首を横に振った。


「お気遣いありがとうございます。ですが、獣脂を混ぜれば酸化が早まり、特有の腐敗臭が出てしまいます。それに、アルカリと油脂の鹸化が不完全になれば、お肌の弱い方を傷つけてしまうことになりますから」


 どれほど注文が殺到しても、手作りの工程を省くつもりはなかった。  適切な比率で油脂と灰汁を混ぜ、四週間かけてゆっくりと自然乾燥させ、余分な水分と刺激を抜く。

 品質を妥協して粗製濫造に走れば、せっかく築いた職人街での信用は一瞬で崩れ去る。適正な価格で、確実に効果のあるものだけを届ける。それが、私がこの店を開いた時に決めた誓いだった。


「なるほどねえ。あんたのその頑固さが、あの石鹸の良さを作ってるってわけかい」


 親父は感心したように頷き、自分の店へと戻っていった。


 私は作業台を拭き清め、明日の仕込みのために木灰の準備を始めた。  平穏で、心地よい疲労感に満ちた午後。


 ――だが、その静寂は、唐突に鳴り響いた無礼な足音によって破られた。


 ドカドカと乱暴な靴音が路地の石畳を踏み荒らし、店の前に止まる。  開け放たれた入り口に現れたのは、見覚えのある制服を着た男だった。

 濃紺の上着に、銀の縁取り。クロイツァー子爵家の家紋が刺繍された従僕の制服だ。


「おい、エレナ」


 男は帽子も取らず、埃除けの布で鼻を覆いながら、汚いものを見るような目で店先を見下ろした。  子爵邸で父に仕えていた従僕のひとりだった。


「下町のみすぼらしい路地裏で何をしているかと思えば、こんな油臭い小屋で泥仕事をしていたのか。相変わらず卑しい娘だ」


 私は作業の手を止め、静かに男を見据えた。  感情を動かす必要はない。冷淡な敬語で、事務的に応じる。


「何の御用でしょうか。当店は本日の販売分をすべて終了いたしました。御用がないのであれば、お引き取りください」


「ふん、相変わらず生意気な口を利く。誰のおかげで今まで飯が食えていたと思っているんだ」


 従僕はずかずかと泥のついた靴で土間へと上がり込み、懐から一枚の羊皮紙を乱暴に作業台へと叩きつけた。


「子爵閣下からのご命令だ。この店の営業権利書と、これまでの売上台帳をすべて差し出せ」


「……なんですって?」


「聞こえなかったのか? 子爵家の血を引く者が得た財産は、すべて家長たる閣下のものだ。実家の恩も忘れ、勝手に辺境伯邸を逃げ出してこんな店を開くなど、言語道断。閣下は大変ご立腹だぞ。『店の権利書を引き渡し、今後は子爵家の直営工房として売上を全額実家へ納めよ』とのことだ」


 あまりの理不尽と厚顔無恥さに、私は乾いた息を吐きそうになった。

 借金の盾として辺境へ売り飛ばしておきながら、その契約が満了して自立した途端、今度はその成果を丸ごと奪い取ろうというのか。

 実家にとって、私はどこまでも都合よく搾取できる家畜でしかないのだ。


「お断りいたします」


 私は視線を逸らさず、はっきりとした声で告げた。


「私はすでに王立公証役場において、身分返上の手続きを完了しております。クロイツァー子爵家の籍からは完全に除籍されており、法的には赤の他人です。子爵閣下に、私の財産や店舗を処分する権限は一切ございません」


「黙れ! 出来損ないの分際で、親に向かって法律を振りかざす気か!」


 従僕が激昂し、作業台を拳で激しく叩いた。  真鍮の天秤がガタガタと音を立てて揺れる。


「平民風情が生意気な口を利くんじゃない! 子爵家の命令に従えなければ、貴族を侮辱した罪で憲兵に突き出してやるぞ!」


 男が作業台越しに私の腕を掴もうと、乱暴に手を伸ばしてきた。


「――おい。何やってんだ、てめえ」


 背後から、低く地を這うような怒声が響いた。


 従僕が驚いて振り返る。  工房の入り口を塞ぐように立っていたのは、先ほどの鍛冶屋の親方だった。手には真っ赤に焼けた鉄を叩くための、巨大な鉄鎚が握られている。

 その後ろには、八百屋の親父、木工職人の男たち、さらには洗濯板を手にした洗濯女たちが、殺気立った形相で路地を埋め尽くしていた。


「だ、誰だ貴様らは! 私はクロイツァー子爵家の使者だぞ!」


「貴族の使いだか何だか知らねえがな」


 鍛冶屋の親方がずいと一歩踏み出し、従僕の胸板を鉄鎚の柄で小突いた。  大人の頭ほどもある太い腕が、男を威圧する。


「ここは下町の職人街だ。王国憲章第十二条――都市不可侵権を知らねえのか? 正当な令状も持たねえ下級貴族の犬っころが、平民の店に押し入って脅迫しやがったら、現行犯で叩き出されても文句は言えねえんだよ」


「ひっ……!」


「エレナちゃんの石鹸に文句をつける奴は、あたいたち全員を敵に回すってことだよ! さっさと失せな!」


 洗濯女たちが一斉に怒声を上げる。  下町の荒くれ職人たちに取り囲まれ、従僕の顔は瞬く間に土気色へと変わっていった。


「お、覚えていろ……! 子爵閣下に逆らって、ただで済むと思うなよ!」


 従僕は作業台から書類をひったくると、職人たちの隙間を縫って、尻尾を巻いた犬のように無様につまずきながら逃げ去っていった。


「まったく、みっともねえ野郎だ。……大丈夫だったかい、エレナちゃん」


「はい。皆様、本当にありがとうございました……」


 私は深く頭を下げた。  胸の奥が、温かい感謝と、そして実家に対する冷徹な怒りで満たされていた。  彼らは私を人間として見ていない。ただの金蔓、都合の良い道具。

 だが、今の私には、守るべき自分の場所と、背中を支えてくれる仲間がいる。もう二度と、あの者たちの理不尽に屈する気はなかった。


 皆に礼を言って解散してもらった後、私はすぐにペンを取り、羊皮紙に向かった。  恐れて閉じこもるのではない。法的な対抗手段を打つためだ。


 ――商人ギルド正規組合員宛て、不当介入に対する公的保護要請書。


 身分返上証明書の写しを添え、子爵家による不法な恫喝の記録を克明に記す。

 夕暮れの公証役場とギルド本部へそれを提出し終えた時、王都の空はすでに濃い群青色に染まっていた。


◇


 その夜、クロイツァー子爵邸の執務室。


「なんだと!? 追い出された、だと!?」


 バルツァー子爵の怒号が、壁の絵画をビリビリと震わせた。  床に額を擦り付けて震える従僕を、バルツァーは容赦なく革靴で蹴りつけた。


「無能が! たかが平民相手に、子爵家の威光すら示せんのか!」


「も、申し訳ございません! 下町の職人どもが武器を持って集まってまいりまして……『都市不可侵権だ』と騒ぎ立てられ、手出しができませんでした……!」


「ええい、薄汚い平民どもめが!」


 バルツァーは執務机を激しく叩き、部屋の中を狂ったように往復した。  目の下には黒々とした隈が落ち、髪は乱れ、完全に追い詰められた獣の目をしている。


「モルガン商会の返済期日は迫っているのだぞ……! 今すぐ金貨五百枚を用意できねば、この屋敷も、わしの爵位すら危ういのだ!」


 エレナからの定期送金が途絶えただけで、家計はすでに火の車だった。そこへモルガンからの即時一括返済の督促。もはや猶予は一日たりともなかった。


「あの出来損ないめが……! 親の恩を仇で返し、下町で小銭を稼いで調子に乗りおって!」


 バルツァーの歪んだ思考は、すべての責任をエレナへと転嫁していた。  あいつが辺境伯邸に留まってさえいれば。あいつが店の権利書を素直に差し出しさえすれば。


「……こうなったら、力ずくだ」


 バルツァーの口元に、浅ましい笑みが浮かんだ。


「あいつの工房をモルガン商会への担保として差し入れる念書を偽造してやる。公証役場など知ったことか。子爵家の私兵を集めろ。夜陰に乗じて工房を制圧し、調合の秘伝書と資産を根こそぎ押収するのだ!」


 自らが破滅の蟻地獄へ向かって、自ら足を踏み出していることにも気づかず、愚かな父は狂気の計画に没頭していった。


◇


 夜の帳が降りた下町。  『アトリエ・シエル』の作業場で、私は一日の後片付けを終えたところだった。


 表の木戸へ向かい、太い樫の木の閂を持ち上げる。  ガチャン、と重い金属の金具に木棒を落とし込み、しっかりと扉を閉ざす。


「ふう……」


 静寂が満ちる工房の中で、小さな息が漏れた。  ギルドへの保護申請は済ませた。職人たちも味方についてくれている。法的な守りは固めたはずだ。


 それなのに。  頑丈な閂を見つめていた私の脳裏に、不意にある光景が浮かんできた。


 ――北方の冷え切った執務室。  黒い軍服を隙なく着こなし、厳しい寒風の中でも微動だにしなかった、ジルヴェスト様の広く頑丈な背中。


 どんな魔物の襲撃も、どんな北方の吹雪も、あの背中が決して通すことはなかった。

 あの人の傍らにいた三年間の記憶が、理不尽な外敵の気配を感じた瞬間、無意識に安全の象徴として記憶の底から蘇ってしまったのだ。


「……っ」


 私はハッと我に返り、己の心の隙間に唇を強く噛んだ。  痛みが走る。


 何を甘えたことを考えているのか。  あの人は私を愛していなかったし、私も契約を満了して自ら出てきたのだ。

 もう二度と、誰かの庇護に縋って生きるような真似はしない。


 私はランプの灯りを吹き消し、暗闇の中で毅然と背筋を伸ばした。  自分の足で、この場所を守り抜くために。

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