第3話「平民としての第一歩」
『これで、私は誰の身代わりでもなくなったんだわ』
王立公証役場の重厚な真鍮の扉を背にした瞬間、胸の内でその言葉が静かに落ちた。 指先に触れる羊皮紙は、まだ乾いたばかりのインクの匂いが残っている。
手にした書類は『身分返上証明書』。
クロイツァー子爵家の籍から除籍され、オルディス辺境伯夫人としての身分も完全に解消されたことを示す公的証書だ。貴族の特権をすべて放棄し、これからは一人の平民として生きるという誓約の印でもあった。
身分欄に記された名は、ただの「エレナ」。 家名のない、たった三文字の名前。 見つめていると、全身の強張りがすうっと解けていくようだった。
私は深く息を吸い込み、王都の中央通りを離れて南へと歩き出した。
石畳が少しずつ不揃いになり、通りを行き交う人々の身なりが華やかな絹から素朴な粗布へと変わっていく。王都の下町――職人や小商人が軒を連ねる職人街だ。
目的の場所は、川沿いの路地裏にあった。 以前は染物屋の作業場だったという、小さな二階建ての木造店舗。
壁の漆喰はところどころ剥がれ落ち、窓枠は歪んでいたが、奥には清らかな水が引かれた井戸があり、風通しの良い乾燥用の小部屋が備え付けられていた。
「本当にここでいいのかい、嬢ちゃん? 敷金と半年分の家賃で、銀貨十五枚前払いだぜ」
鍵束を指で回しながら、初老の家主が怪訝そうに私を見た。 身なりは質素な綿のワンピースだが、姿勢や物腰に貴族の残り香があるのを感じ取ったのだろう。
「はい。作業場としてこれ以上ない条件です。よろしくお願いいたします」
私は前世の知識と辺境での工夫で細々と貯めた持参金の袋から、銀貨をきっちり十五枚数えて手渡した。 家主から受け取った冷たい鉄の鍵を握り締める。
これが、私の城だ。
けれど、扉を開けて埃っぽい室内に足を踏み入れた瞬間、ずしりと重いものが胃の腑に落ちてきた。 後ろ盾となる家名もなければ、辺境伯邸のような潤沢な資金もない。
仕入れの失敗も、商品の売れ残りも、すべて自分の懐から出ていく。明日食べるパンの代金すら、この手で稼ぎ出さなければ誰も助けてはくれないのだ。
一平民として信用を一から自力で築くことの過酷さが、冷え切った板間の感触を通して足裏から這い上がってくるようだった。
「……怖がっていても、何も始まらないわね」
私は小さく頬を叩き、袖をまくり上げた。 まずは掃除だ。箒で床の埃を払い、雑巾で作業台の汚れを拭い去る。
それから、荷物から取り出した真鍮の蒸留器と天秤を作業台に据え付けた。
看板に掲げる名は、あらかじめ決めてあった。 『アトリエ・シエル』。 空のようにどこまでも自由で、誰にも縛られない場所にしたいという願いを込めた。
翌朝から、仕込みを始めた。 釜に清浄な水を張り、木灰から抽出した強い灰汁を煮詰めていく。
下町で手に入る一般的な石鹸は、屠殺場から出る牛や豚の脂を煮固めただけの粗悪な獣脂石鹸だ。強烈な腐敗臭が残り、アルカリが強すぎて肌を痛めるため、平民の洗濯女たちは皆、あかぎれとただれで手を真っ赤に腫らしていた。
私が作るのは、植物性油脂を主原料とした石鹸だ。
安価な菜種油と硬化油を最適な温度で混ぜ合わせ、灰汁を少しずつ滴下して鹸化反応を進めていく。櫂で休むことなくかき混ぜると、澄んでいた油脂が次第にとろみを帯び、滑らかな乳白色へと変わっていった。
次に、香りと薬効を加える工程に移る。 乾燥させたカモミールとタイム、それにラベンダーの花穂を取り出し、天秤の皿に乗せた。
真鍮の分銅をひとつ、またひとつと皿に置いていく。 薬草の油分と香りの配合比率を頭の中で組み立てながら、慣れた手つきでピンセットを動かす。
オリーブ油三十、蜜蝋五、そしてラベンダー精油を三滴――。
指先が、流れるように次の薬瓶へ伸びた。 ジュニパーの精油を二滴、ローズマリーを一滴。 血行を促し、神経の強張りを緩め、深い眠りを誘うための配合――。
――あ。
私は唐突に、自分の手が作っていた比率に気づき、息を呑んで手を止めた。
これは、石鹸のための調合ではない。
北方の過酷な雪原から戻った夜、凍傷と神経痛で眠れずにいたジルヴェスト様のために、私が夜な夜な調整していた香油の配合比率だった。
天秤の針が、微かに揺れている。 無意識の習慣とは、これほど恐ろしいものなのか。
三年間、あの冷徹な主が少しでも痛みを和らげられるようにと、そればかりを考えて指先を動かしていた記憶が、身体の奥深くに染み付いてしまっていた。
『君を愛する気はない』
あの拒絶の言葉を思い出し、私は強く奥歯を噛み締めた。 もう、あの人の痛みを心配する必要はない。あの屋敷の務めは、すべて終わったのだ。
私は天秤の皿を一度戻し、深く呼吸を整えた。 今作るのは、下町で働く人々の傷んだ肌を救うための、日常使いの石鹸だ。
カモミールとカレンデュラを中心にした、肌の再生を助ける処方に組み直す。
型に流し込み、四週間じっくりと自然乾燥させて熟成させた石鹸は、雪のように白く、ほんのりと野の花の香りを漂わせていた。
包丁を入れ、手のひら大の四角い塊に切り分けていく。
私はできたばかりの石鹸を布袋に詰め、店を出た。 まずは知ってもらわなければならない。実績のない新参の店に、客が飛び込んでくるはずがないのだ。
向かったのは、近くの共同洗濯場だった。
川沿いの石段では、十数人の洗濯女たちが冷たい水に手を浸し、衣類を叩き洗いしていた。彼女たちの指先はひび割れ、痛々しく赤く腫れ上がっている。
「失礼いたします。みなさま、少しお時間をよろしいでしょうか」
「あン? なんだい、見かけない顔だね」
一番体格のいい、年配の洗濯女が怪訝そうに顔を上げた。
「路地裏で石鹸工房を始めました、エレナと申します。こちら、手荒れを防ぎ、汚れをしっかり落とす薬用石鹸を作りましたの。もしよろしければ、試供品として使っていただけないでしょうか」
「石鹸の試供品……? ふん、どうせ金持ち向けの気取った高い油だろ。あたいたちゃ、いつもの脂石鹸で十分だよ」
「代金はいただきません。まずは一度、その石鹸でご自身の手を洗ってみてください。汚れ落ちの早さと、洗った後の肌のつっぱりが全く違うはずです」
私は穏やかに微笑み、切り分けた白い石鹸を手渡した。 女たちは顔を見合わせ、いぶかしげに眉をひそめながらも、無料だという言葉に釣られて石鹸を受け取った。
同じように、油汚れに悩む近隣の安宿の女将たちにも、試供品の石鹸を丁寧に手渡して回った。 頭を下げ、効能を説明し、手荒れの痛みに寄り添う。
貴族の令嬢であった頃なら、決してしなかった泥臭い営業回り。
けれど、誰かの言いなりになって部屋に閉じこもっていた頃よりも、ずっと血が通っている感覚があった。
◇
一方、王都の中央区にある高級サロン。 豪奢なシャンデリアの下で、甘ったるい紅茶の香りと貴族令嬢たちの扇子の擦れ合う音が漂っていた。
「まあ、リリアーヌ様。今日も素晴らしいドレスですこと」
「ふふ、ルブランの新作ですのよ」
取り巻きの令嬢たちに囲まれ、リリアーヌは扇子を口元に当てて得意げに微笑んでいた。 だが、その内心は焦燥で煮えくり返っていた。
(どうして……! どうして送金どころか、石鹸も届かないのよ!)
これまで、エレナが辺境から送ってくる試作品の石鹸や香油を、リリアーヌは「自分の手作り」だと偽ってサロンの令嬢たちに配り、歓心を買っていたのだ。
辺境特有の高純度な植物性香油は、王都の貴族たちの間でも類を見ない品質で、サロンでのリリアーヌの地位を押し上げる最大の武器となっていた。
「ところでリリアーヌ様、例の『雪解けの香油』は、まだ手に入りませんの?」
ひとりの伯爵令嬢が、探るような視線を向けてきた。
「先週も『明日には届く』とおっしゃっていましたけれど。わたくし、肌の乾燥が酷くて、あの香油を心待ちにしていますのよ」
「え、ええ……! もちろんですわ。北方からの商隊が、少し雪道に足を取られているようでして。近々、姉から最高級のものが届く手はずになっておりますの」
リリアーヌは引きつった笑みを浮かべた。 だが、別の令嬢が訝しげに囁き合うのが耳に入った。
「でも、おかしな噂を聞きましたわよ? クロイツァー子爵邸に、高利貸しのモルガン商会が出入りしているとか……」
「まあ、まさか。あの辺境伯家と縁続きの子爵家が、そんなはず……」
令嬢たちの冷ややかな視線が、値踏みするようにリリアーヌの肌を撫でた。 リリアーヌは扇子を握り締める指に力を込め、喉の奥で憎々しげにエレナの名を呪った。
(あの愚図……! わたくしに恥をかかせる気!? 早くあの香油を寄越しなさいよ……!)
◇
その日の夕暮れ。 下町の『アトリエ・シエル』の作業場で片付けをしていると、外から慌ただしい足音が近づいてきた。
「おい、嬢ちゃん! いるかい!?」
ガラリと木戸が開いた。 息を切らして立っていたのは、昼間に試供品を渡した洗濯場の親方女だった。
その後ろには、同じ洗濯場の女たちが三人も引き連れられている。
「はい、エレナです。何か不都合がございましたか?」
「不都合どころじゃないよ!」
女は大きな両手を私の前に突き出した。 赤く腫れていた指先が、心なしか落ち着き、皮がめくれて白くなっていた部分がしっとりと潤っている。
「これだよ、これ! 昼からずっと使わせてもらったんだけどね、油汚れが嘘みたいにすっきりと落ちるくせに、手がちっとも痛まないんだ! それにあたしの洗ったシーツから、ふわっと野原のいい匂いがするって、宿屋の旦那が大喜びしちまってさ!」
「私の手も見ておくれよ! いつもなら夕方には血が滲むのに、今日は全然痒くならないんだ!」
「嬢ちゃん、あの石鹸、売り物はあるのかい!?」
女たちの真剣な眼差しに、私は一瞬目を見張り、それから胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じた。
「はい……! 熟成を終えたものが、奥に三十個ほどございます」
「全部買い取るよ! 仲間にも分けるんだ!」
チャリン、チャリンと、作業台の上に銅貨と小銀貨が次々と積み上げられていく。 冷たい金属の響きが、これほど誇らしく、温かく聞こえたことはなかった。
自分の足で大地に立ち、自分の知識と手先で生み出したものが、誰かの痛みを救い、正当な対価となって返ってくる。
身代わりの妻として豪邸の奥で息を潜めていた時には、決して得られなかった確かな手応え。
石鹸を抱えて笑顔で帰っていく女たちの背中を見送りながら、私は夕暮れの空を見上げた。 この評判は、明日には下町中の路地に広がるだろう。
私の新しい人生が、いま確かに動き始めていた。




