第2話「残された手紙」
石造りの窓枠を、北風が低く震わせていた。
カチ、と小さく鳴ったのは、卓上時計の振り子が時を刻む無機質な音だけだ。暖炉の火はとっくに消え果て、執務室の空気は外の荒野と変わらないほど冷え切っていた。
ジルヴェストは、机の前に立ち尽くしていた。 視線の先にあるのは、一枚の書類と、その上に置かれた銀の指輪。
王立公証役場の赤黒い蝋印が押された羊皮紙には、三年前の契約が本日をもって期日満了となり、一切の効力を失ったことが簡潔に記されていた。
――3年間の契約は今日で満了です。お世話になりました、旦那様。
添えられていたのは、たった一行の書き置きだけだ。
恨み言もなければ、別れの感傷すら滲んでいない。几帳面で整ったインクの筆跡は、まるで定期報告書のように淡々としていた。
ジルヴェストの喉仏が、大きく上下した。 手袋を外した右手を、恐る恐る伸ばす。
指先が、冷え切った銀の輪に触れた。装飾も宝石もない、三年前に形式的に買い与えただけの安価な指輪だ。
拾い上げた瞬間、掌に伝わってきた冷たさに、ジルヴェストの指が微かに痙攣した。 握り締める。 硬い金属の感触が、皮膚に痛いほど食い込んだ。
途端に、喉の奥が引き絞られたように激しく詰まり、呼吸が乱れた。肺に吸い込んだ空気が酷く冷たく、胸の奥がひび割れるように痛む。
「……エレナ」
掠れた声が、無人の室内に落ちた。 荒々しい怒号を上げることはなかった。 激情に任せて物を叩き壊すこともしなかった。
ジルヴェストはただ、乱れかける呼吸を必死に抑え込みながら、震える手で机の引き出しを開けた。
引き出しの中に収められていたのは、整然と揃えられた革表紙の帳簿の束だった。 『屋敷家計決算録』『薬品調合および消費記録』『北方軍後方支援物資管理簿』。
すべて、エレナが残していったものだ。
「……クラウス」
「は」
背後に控えていた老家令が、静かに進み出た。 その顔には、長年仕えてきた主に対する同情と、逃れようのない現実を突きつける冷徹さが同居していた。
「説明しろ。これは、どういうことだ」
「奥様――エレナ様は、今朝一番の王都行き乗合馬車でお発ちになりました。私物は、嫁いでこられた際にお持ちになった鞄ひとつのみ。屋敷の金銭や装飾品には、一切手をつけられておりません」
「なぜ止めなかった!」
ジルヴェストの声が低く唸った。だが、クラウスは微動だにせず、深く一礼した。
「止める法的権利が、当家にはございません。三年前の契約書に明記されていたはずです。『期間は三年、満了の暁には双方何らの拘束も受けず、自由意志による離脱を認める』と。公証役場への手続きも、今朝の時点で完全に完了しております」
「…………」
反論の言葉が、喉の奥で氷のように固まった。 契約の神聖性を何よりも重んじてきたのは、軍人であるジルヴェスト自身だった。
「閣下。こちらの帳簿を、どうかご覧ください」
クラウスが差し出したのは、過去三年間の家計決算録だった。 開かれた頁に並ぶ数字を追うにつれ、ジルヴェストの灰色の瞳が見開かれた。
「これは……」
「エレナ様が屋敷を預かられてから、当家の維持費は従来の四割にまで圧縮されております。無駄な中間搾取を行っていた王都の出入商人たちをすべて排除し、地元の生産者と直接取引を結ばれました。さらに、奥様が中庭で栽培された薬草から精製した植物性石鹸と香油により、軍部に支給していた高価な輸入軟膏の購入費がほぼ全額削減されております」
数字は嘘をつかない。
過酷な北方警備に追われ、領地の経営など顧みる余裕のなかったジルヴェストに代わり、彼女はこの荒れた屋敷を、軍閥の台所を、完璧に支え続けていたのだ。
「それだけではございません」
クラウスの声が、わずかに低くなった。
「この冬、前線で凍傷や皮膚病によって戦線を離脱した兵の数は、例年の十分の一以下に激減いたしました。奥様が調合された保湿油と殺菌石鹸を、全兵士に配給した結果です。兵站部の将兵たちは皆、あの石鹸を『奇跡の白塊』と呼び、奥様に深く感謝しておりました」
「……俺は、知らなかった」
「閣下が、お聞きにならなかったからです」
クラウスの容赦のない言葉が、刃となって胸に突き刺さった。
「奥様は、毎月の報告書を必ずこの机の上に提出されておりました。ですが閣下は、一度もお目通しにならなかった。夕食の席でも、軍務の話を手短にされるだけで、奥様が何をされているのか、一度もお尋ねにならなかった」
『君を愛する気はない』
三年前の初夜、自らが彼女に突きつけた冷酷な宣告が、耳の奥で生々しく蘇った。
北方の過酷な戦場に、いつ命を落とすかも知れぬ我が身に、若い娘を巻き込みたくはなかった。情で縛りつけ、未亡人にするような無責任な真似はしたくなかった。
だからこそ、一線を引いた。触れず、関わらず、ただ契約の履行者として扱った。
だが、それはただの傲慢な自己満足だったのだ。 危険から遠ざけるという名目で、彼女の尊厳を踏みにじり、その献身に甘え、言葉を尽くす努力を怠っただけだった。
彼女の爪の間がいつも泥で黒く汚れていた理由を。 かすかに漂っていた、爽やかな野草の香りの理由を。
戦場から戻るたび、痛む古傷を和らげるために枕元に置かれていた、あの香油の主が誰であったのかを。
なぜ、気づこうとしなかったのか。 なぜ、「ありがとう」のひと言すら、口にしなかったのか。
後悔が、内臓を素手で握り潰されるような激痛となって全身を駆け巡った。
失ったものの重さと巨大さが、冷え切った執務室の中で、容赦なくジルヴェストの肩に圧し掛かっていた。
◇
同じ頃、王都――クロイツァー子爵邸。
「どういうことだ、モルガン! いきなり屋敷に押し入ってきて、無礼であろう!」
応接間のソファで、バルツァー子爵は顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていた。
だが、対面に座る男――仕立てのいい黒い外套を羽織った貸金業者モルガンは、冷え切った薄笑いを浮かべたまま、微動だにしなかった。
「無礼、でございますか? クロイツァー子爵閣下」
モルガンは濁った茶色の瞳を細め、革鞄から分厚い書類の束を取り出した。 羊皮紙が擦れ合う乾いた音が、室内に響く。
「あっしはただ、正当な商売の話をしに参っただけでしてね。本日、王立公証役場から正式な通知が届きやした」
「公証役場からだと……?」
「ええ。三年前、オルディス辺境伯閣下と貴方様の間で交わされた債務保証契約――子爵家が抱える元金三百枚の債務について、辺境伯家が利息の支払いを肩代わりし、返済期日を猶予するという特約条項。あれの有効期限が、本日午前零時をもって満了いたしやした」
モルガンの言葉に、バルツァーの呼吸が止まった。 室内の空気が、一瞬で凍りつく。
「ま、満了……? 何を言っている。あれは、娘が辺境伯夫人の座にある限りの契約だぞ! エレナはあちらに嫁いでいるのだから、更新されるに決まって――」
「更新? へえ、どなたがそんな申請を出したんで?」
モルガンは嘲笑混じりに唇を歪め、一枚の受領証の写しを卓上に滑らせた。
「エレナ様ご本人が、今朝がた辺境伯邸を正式に退去なさいましたよ。契約満了に伴う身分返上届と、辺境伯家からの離脱通知。すべて公証役場で受理済みでさあ。……つまり、辺境伯家の債務保証は、たったいま完全に消滅いたしやした」
「な……っ!?」
バルツァーの顔から、急速に血の気が引いていった。 真っ赤だった顔が、見る影もなく青白く染まり、唇がガタガタと激しく震え出す。
「ば、馬鹿な……! あいつが、勝手に出て行くだと!? そんな勝手な真似が許されるはずがない! わしは親だぞ! あいつは子爵家の人間だぞ!」
「いいえ、もう子爵家のお嬢様でも、辺境伯夫人でもございませんよ。公証役場を通した完全な契約終了だ。文句があるなら国王陛下の法廷にでも訴え出ますかい?」
モルガンは身を乗り出し、机を指先でコツコツと叩いた。 その瞳から、商売人特有の愛想が完全に消え去っていた。
「さて、子爵閣下。利息の肩代わりと元金の猶予は終わりました。契約通り、旧債務の元金金貨三百枚を、本日中に一括で返済していただきましょうか。……ああ、それから」
モルガンはもう一枚、別の借用書を取り出して見せた。
「辺境伯家からの送金をあてにして、先月あっしの商会から追加で借り入れた無保証融資、金貨二百枚。……こちらの返済期日も、保証の失効に伴い即時到来となっております。合計で、金貨五百枚。耳を揃えて、払っていただけますな?」
「ご、五百……!? そんな大金、今すぐ払えるわけがないだろう!」
バルツァーは絶叫し、頭を抱えてソファの上で縮こまった。 五百枚。子爵家の全財産を売り払っても、到底届かない天文学的な数字だった。
エレナという便利な盾を失った瞬間、背負いきれない負債の刃が、己の喉元に突きつけられたのだ。
「払えねえなら、法に則って動産・不動産の差し押さえの手続きに入りやす。……せいぜい、首を洗ってお待ちくださいよ、子爵閣下」
モルガンが冷酷に吐き捨てて席を立つ。 残されたバルツァーは、床に崩れ落ち、ただガタガタと震え続けることしかできなかった。
◇
北方、オルディス辺境伯邸。
ジルヴェストは、無言のまま机の前に立ち尽くしていた。 手の中には、冷え切った銀の指輪。 そして、胸元の内ポケットから取り出した、一枚の羊皮紙があった。
王都の筆耕職人に清書させた、正式な求婚状。
身代わりとしての契約ではなく、オルディス辺境伯の正妻として、一人の愛する女性として、生涯を共に歩んでほしいという願いを綴ったものだった。
三年間の任務を無事に終え、今日、この手で彼女に手渡すはずだった紙片。
「……エレナ」
ジルヴェストは机に両手をついた。 ミシミシと、頑丈な黒檀の木が軋む音がする。
彼女は、一度も助けを求めなかった。
理不尽に耐え、泥にまみれ、自らの務めを完璧に果たし――そして、期限が切れた瞬間に、誰の情けも乞うことなく毅然と立ち去った。
彼女にとって、この屋敷での三年間は、ただ耐え忍ぶだけの冷たい牢獄でしかなかったのだ。
「俺が……お前を、追い詰めたのか」
激しい自責と焦燥が、胸の奥で煮えたぎる。 ジルヴェストの右手が、激しく痙攣した。
くしゃり、と乾いた音が室内に響いた。 渡されることのなかった求婚状の厚い羊皮紙が、彼の握り締めた拳の中で、無惨にしわくちゃに押し潰されていく。
だが、その瞳の奥に宿ったのは、絶望だけではなかった。 拳を固く握り締めたまま、ジルヴェストは猛省の炎を宿した灰色の瞳を鋭く吊り上げた。
「……馬を引け、クラウス」
「閣下……?」
「王都へ行く。全速力で追う」
権力で連れ戻すのではない。 傲慢な命令を下すのでもない。 ただ一人の愚かな男として、己の非礼を詫び、彼女の足元に跪くために――。
ジルヴェストは外套の裾を翻し、冷え切った執務室を疾風のように飛び出していった。




