第1話「契約満了の朝」
革鞄の真鍮の留め金を、親指で静かに押し込んだ。 乾いた金属音がひとつ、薄明の残る寝室に小さく響く。
中に入っているのは、着替えが二着と、使い慣れた蒸留器の真鍮ノズル、それに薬草の種子を詰めた麻袋がいくつか。嫁いできた当時に身につけていたわずかな私物と、自分の手で稼いだわずかな小銭だけだ。
クローゼットに並ぶ豪奢なドレスや、宝石箱に収まった首飾りには、最初から最後まで一度も触れていない。すべては辺境伯家の資産であり、私の持ち物ではないからだ。
窓の外を見やる。 北方の切り立った山並みが、夜明け前の青暗い光の中に黒々とした稜線を浮かび上がらせていた。
空気が冷たい。肺の奥まで沁み透るような、鋭く澄んだ寒さだった。
三年前の秋、私はこの部屋へ連れてこられた。
妹のリリアーヌが泣き叫んで拒んだ、辺境の武骨な軍閥への嫁入り。父であるクロイツァー子爵が投機に失敗し、モルガン商会から借り入れた金貨三百枚の借金。その利息を肩代わりし、元金の返済期日を猶予してもらう条件として、私は身代わりの妻としてこの地に差し出された。
――三年。 契約書に記された期間は、ちょうど三年だった。
『君を愛する気はない。互いに過度な干渉はせず、務めだけを果たしてもらいたい』
初夜の寝室に現れたジルヴェスト様は、軍服の襟元を硬く締めたまま、そう短く言い放った。氷のように研ぎ澄まされた灰色の瞳は、私を女としてではなく、実家の不始末の証拠品として冷淡に見据えていた。
私は動じなかった。むしろ、その冷淡さに救われたのを覚えている。
政略ですらない身代わりの契約に、情愛などを期待する方が愚かだ。割り切った関係であるなら、私は私の義務を果たすだけでいい。
今日、その三年間が完全に満了する。
私は身支度を整え、薄暗い廊下へ足を踏み出した。 まだ夜明け前、使用人たちすら起き出していない時刻だ。石造りの冷え切った廊下を、足音を忍ばせて歩く。
中庭へ通じる重い勝手口の扉を押し開けると、冷え切った朝気が頬を刺した。 足を止めたのは、中庭の片隅にある薬草園の前だった。
三年前、ここはただの痩せた黒土と雑草が広がる荒れ地だった。 北方特有の厳しい気候のせいで、庭師たちも手入れを諦めていた場所だ。
私は空いた時間を使って土を耕し、日当たりの良い斜面を石で囲い、寒冷地でも育つ薬草の株を植え続けた。
抗炎症作用のあるカモミール、血行を促進するローズマリー、殺菌効果の高いタイム。前世の知識を頼りに土壌の酸度を灰で調整し、風除けの垣根を編み、ようやく根付かせた植物たちが、いまは露に濡れて静かに佇んでいる。
兵士たちの凍傷や皮膚病を予防するための石鹸や香油は、すべてこの土から生まれた。 泥だらけになって指先をあかぎれで割りながら、ひとつずつ育て上げた緑の葉。
愛着がないと言えば嘘になる。
ここを離れれば、手入れをする者はいなくなるかもしれない。手塩にかけた薬草たちが枯れていく姿を想像すると、胸の奥がきりりと痛んだ。
けれど、私は静かに息を吸い込み、踵を返した。 情に流されてはいけない。 私はここで暮らす妻ではなく、三年の務めを果たすために雇われた道具だったのだから。
屋敷の執務室へと足を向ける。
鍵は開いていた。主のジルヴェスト様は、北方の警備巡回のため不在だ。今日戻る予定だと家令から聞いていたが、会うつもりはなかった。顔を合わせれば、無用な言葉や形式的な挨拶を交わすことになる。契約で縛られた関係に、劇的な別れなど似合わない。
無人の執務室は、沈黙に包まれていた。 磨き上げられた黒檀の机に向かい、鞄から一枚の書類を取り出す。
王立公証役場が発行した、契約満了の受領証。
辺境伯家が子爵家の債務利息を肩代わりする法的期間が、本日をもって消滅したことを証明する公的な写しだ。この日付を境に、辺境伯家の債務保証は一切の効力を失い、借金の返済義務は完全に父のもとへと戻る。
書類を、机の中央に丁寧に置いた。
それから、私は左手の薬指に視線を落とした。
嵌められていたのは、意匠のない簡素な銀の指輪だ。三年前の婚礼の儀で、形式的にジルヴェスト様から渡されたものだった。
関節に引っかかる銀の輪を、ゆっくりと引き抜く。 空気に晒された左手の薬指には、三年間ずっと締め付けられていた痕が、白くくっきりと残っていた。
私は無意識に、右手の親指の腹でその白い痕を強く撫で擦った。
皮膚の下に残る鈍い圧迫感。外れたはずなのに、まだ見えない何かに縛られているような錯覚を覚える。強く、赤みが差すほどに擦り、私はようやく手を離した。
外した指輪を、受領証の真上にそっと置く。 銀の冷たい光が、淡い生成り色の羊皮紙の上で静かに落ち着いた。
「……お世話になりました、旦那様」
声に出してみると、驚くほど淡々としていた。
寂しさがないわけではない。だがそれ以上に、張り詰めていた糸が静かにほどけていくような、涼やかな実感が胸を満たしていた。
私は一度だけ机に向かって頭を下げ、執務室の扉を引いた。
重厚な正面玄関の脇を抜け、通用口から外へ出る。 東の地平線が、ようやく淡い朱色に染まり始めていた。 夜明け前の乾いた風が吹き抜け、外套の裾を揺らす。
屋敷の門番は、私の姿を見ても咎めなかった。
元より、奥様が朝早くから薬草の採取に出かける姿は見慣れたものだったからだ。鞄ひとつを提げただけの私の姿を、ただの朝の散策だと思ったのだろう。私を監視する者など、この屋敷には最初からいなかった。
町外れの街道へ向かって、砂利道を踏みしめて歩く。
王都へ向かう定期の乗合馬車が、宿場の前で馬を休ませていた。御者に銀貨を渡し、木造の簡素な客車へと乗り込む。車内にはまだ私以外に客はいなかった。
やがて、御者の鋭い鞭の音が鳴り、車輪が軋んだ音を立てて転がり始める。 窓枠に手をかけ、硝子越しに後方を見つめた。
朝靄の中に、黒く聳え立つオルディス辺境伯邸の城館が、少しずつ遠ざかっていく。 あそこで過ごした三年間は、決して温かいものではなかった。
けれど、誰かに媚びることなく、理不尽な侮蔑に耐え、己の知恵と手先だけで築き上げた時間は、確かに私の中に残っている。
誰の身代わりでもない。 誰の都合のいい道具でもない。 今日からは、すべて自分の足で歩き、自分の責任で生きていく。
冷たい風が車輪の隙間から吹き込んできたが、不思議と寒さは感じなかった。
私の胸の内に広がっていたのは、三年間背負い続けた重荷を下ろしたことによる、どこまでも透明で毅然とした解放感だった。
◇
王都、クロイツァー子爵邸。 朝の光が差し込む食堂に、甲高い金属の破砕音が響き渡った。
「なんなのよ、これ……! どういうことなのよ!」
次女のリリアーヌは、給仕の従僕から差し出された空の銀盆を、手の甲で激しく薙ぎ払った。
銀食器が床の絨毯に転がり、甲高い音を立ててスープが飛び散る。床に跪いたままの従僕は、青ざめて肩を縮め、息を殺した。
「申し訳ございません、リリアーヌ様……しかし、今朝の商隊便を確認いたしましたが、オルディス辺境伯領からの送金小切手は、届いておりませんでした……」
「届いてないわけがないでしょう! 今日は一の日よ! あのでき損ないの姉が、実家に生活費を送ってくる日なのよ!」
リリアーヌは金糸で豪奢な刺繍が施された朝着の胸元をかきむしり、ヒステリックに叫んだ。 均整の取れた顔立ちが、怒りと苛立ちで醜く歪んでいる。
「今月はサロンで新しいドレスを披露するって、お友達みんなに約束してあるのよ! ルブラン洋装店への前金だって、今日払わなきゃいけないの! あの女、辺境で野良仕事ばかりしているから、頭まで腐ったんじゃないの!?」
「リリアーヌ、朝から見苦しいぞ」
食堂の扉が開き、当主のバルツァーが入ってきた。 仕立てのいい上着を羽織っているが、その顔色は悪く、目の下には濃い隈が張り付いている。
「お父様! 聞いてらして!? エレナの奴、今月の送金を怠ったのよ! あんな身代わりのくせに、実家の援助を忘れるなんて恩知らずにもほどがあるわ!」
「……郵便が遅れているだけだろう。辺境の山道は雪解け水でぬかるむこともある」
バルツァーは苛立ちを隠すように鼻を鳴らし、椅子の背にもたれかかった。 だが、その指先は微かに震えていた。
モルガン商会からの借入金の利息。それを辺境伯家が肩代わりしてくれているおかげで、子爵家はこの三年、王都での体面を保ち続けることができていた。エレナから送られてくる生活費の送金が途絶えれば、日常の贅沢にすら支障が出るのは事実だった。
「だいたい、お父様が甘やかすからよ! あんな役に立たない姉、もっと早く辺境伯に頼んで、小遣いをむしり取らせればよかったのよ!」
「黙れ。あいつは辺境伯邸で大人しくしているだけで価値がある。辺境伯の威光さえ傘に着ていれば、王都の金貸しどもも強くは出られんのだ」
バルツァーはそう言い捨て、従僕に向かって冷たく命じた。
「おい。公証役場と商隊の取次所へ使いを出せ。エレナからの送金為替がどこで止まっているのか調べさせろ。遅延しているなら、エレナ宛てに督促の手紙を認めろ。『親に対する義務を怠るな』とな」
「かしこまりました、閣下」
従僕が慌てて部屋を出ていく。 リリアーヌはなおも忌々しそうに床の銀食器を蹴飛ばし、爪を噛んだ。
「まったく、目障りな女。わたくしの身代わりに辺境へ行かせてあげた恩も忘れて……。次に顔を見せたら、ただじゃおかないわ」
傲慢な嘲笑を浮かべる父娘は、まだ知らなかった。 彼らを守っていた最大の防壁が、すでに完全に消滅したという事実を。
◇
同じ日の午後。 北方オルディス辺境伯邸、主執務室。
分厚い樫の木の扉が、勢いよく開かれた。 入ってきたのは、黒い軍用外套を翻したジルヴェストだった。
長旅の砂埃を微かに纏ったその身からは、冷徹な軍閥の総帥としての威厳が漂っている。彫りの深い精悍な顔立ちには、北方の風雪に晒された厳しさが刻まれていた。
だが、その瞳にはいつにない微かな焦燥が滲んでいた。
「クラウス」
部屋に控えていた老家令の名を呼ぶ。その低く硬質な声に、わずかな熱が混じる。
「は。おかえりなさいませ、閣下」
「……エレナは、自室にいるのか」
ジルヴェストは外套を脱ぎながら、視線を室内へと走らせた。
三年の任務を終え、北方国境の警備体制は盤石となった。実家の借金の盾として差し出され、過酷な辺境で健気に屋敷を守り続けてくれた妻。形式的な契約で縛りつけ、「愛する気はない」などと突き放して傷つけた己の傲慢を、今日こそ清算するつもりだった。
正式な妻として、一人の女として、誠心誠意迎え直すための言葉を、彼は胸の中で何度も反芻して帰還したのだ。
だが、クラウスは静かに頭を垂れたまま、何も答えなかった。
「どうした。返答をしろ」
ジルヴェストの眉が不審に寄る。 クラウスは痛ましげに目を伏せ、無言のまま、主の執務机へと視線を向けた。
机の上には、冷めきって久しい一杯の紅茶。 そして、その傍らに置かれた一枚の書類。
ジルヴェストは無言で大股に歩み寄り、机上の羊皮紙を見下ろした。
王立公証役場の印章が押された、契約満了の受領証。 記載された日付は、まさしく今日だった。
そして、その生成り色の受領証の中央には――。
彼が三年前、彼女の細い指に嵌めた、飾り気のない銀の結婚指輪が、主を失ってただ冷たく光を反射していた。




