第10話「自分の足で、ふたりで」
「エレナ親方、北方軍兵站部から今月分の検収書と、追加の発注書が届きましたよ!」
木製の厚い扉を開け放ち、帳簿を抱えた若い職人が元気な声を響かせた。 作業場を満たす、石鹸の清々しいハーブの香りと、蒸留器から立ち上るほのかな熱気。
エプロン姿の弟子たちが、手際よく白く固まった石鹸を切り分け、麻紙で包んでいく。
「ありがとう、トーマス。作業台に置いておいてちょうだい。温度計の確認が終わったらすぐに見るわ」
私は真鍮の蒸留器の温度を確認し、記録板に数字を書き込んだ。 顔を上げると、弟子たちが誇らしげに笑い合っているのが目に入る。
あの日から、一年。
下町の路地裏にあった小さな作業場は、川沿いの広い土地へと拠点を移し、いまや王都と北方を結ぶ特約工房『アトリエ・シエル』として確固たる地位を築いていた。
壁の中央に誇らしく掲げられているのは、王都商人ギルドから授与された最高等級工房の認可証だ。
貴族の庇護に縋ることなく、前世の知恵と己の腕、そして下町の職人たちと共に一歩ずつ積み上げてきた信用が結実した証だった。
「親方、そろそろ時間ですよ」
仕込みを担当している年配の職人が、からかうように眉を動かした。 街道の方から、規則正しい馬蹄の音が近づいてくる。
私はエプロンを外し、袖の煤を払って工房のエントランスへと向かった。
ガラス張りの明るい扉を押し開けて現れたのは、黒い上質な外套を羽織ったジルヴェスト様だった。
「……待たせたな、エレナ」
「いいえ。ちょうど午前の仕込みが一段落したところです」
お互いに交わす会釈には、かつての主従のような硬さも、契約で縛られた他人のような冷たさもない。
一年前、あの夕暮れの工房でお茶を共にして以来、彼は軍務の合間を縫って足繁く王都へ通い詰めていた。
時には新しい薬草の苗を北方から抱えて現れ、時には石鹸の搬送ルートの安全確保について夜遅くまで意見を交わした。
言葉足らずだったあの人は、自らの行動と誠実さをもって、私への敬意を示し続けてくれたのだ。
応接室の机の上に、ジルヴェスト様は一枚の公的な羊皮紙を広げた。
「北方辺境領兵站部と、アトリエ・シエルにおける特約供給協定の更新書面だ。……オルディス軍が調達する衛生用石鹸および凍傷予防香油の全量を、向こう三年間、君の工房から独占的に買い上げる。価格はすべて、商人ギルドの適正公定価格に準拠する」
「ありがとうございます。精魂込めて、北方で戦う皆様の肌を守る品をお届けいたします」
私は自らの手でインク壺からペンを取り、協定書の末尾に署名した。 領主からの施しではなく、対等な事業者同士の通商条約。
誰の身代わりでも、都合の良い道具でもない。自分の腕で勝ち取った、確かな誇りが胸を満たす。
◇
ペンを置いた私に、ジルヴェスト様がふと穏やかな声音で告げた。
「……昨日、王宮の貴族院へ立ち寄ってきた」
「貴族院へ……?」
「ああ。クロイツァー子爵家の残余資産の競売と、負債清算の手続きが完全に完了した。……貴族名簿から、クロイツァーの家名は永久に抹消されたよ」
「……そうですか」
私の胸に去来したのは、驚くほどの静けさだった。 悲しみも、憐憫も、復讐の快感すら湧き上がらない。ただ、遠い過去の出来事として心の中で片付いた感覚だった。
王都の社交界では、すでにクロイツァーの名を口にする者など一人もいなかった。
あれほど取り巻きに囲まれて贅沢を貪っていたリリアーヌのことも、令嬢たちは自らの汚点として記憶の底に封じ込め、完全に存在そのものが忘れ去られていた。
北方の冷たい鉱山で、泥水を啜りながら死ぬまで岩を砕く元子爵。 共同洗濯場の冷たい川水で、ひび割れた手から血を流しながら、一生他人の泥汚れを擦り続ける元令嬢。
誰かを踏み台にして得た虚飾は、土台が崩れれば跡形もなく消え失せる。 因果応報の結末を、彼らは自らの身体で背負い続けているのだ。
「……エレナ」
ジルヴェスト様が、真剣な眼差しで私を見つめた。 その瞳の奥には、一年間温め続けられてきた、揺るぎない覚悟が宿っていた。
「俺は君を、辺境伯邸の奥深くに閉じ込める気はない。社交界の飾り物にする気も毛頭ない。……君がこの工房で、自分の足で立ち、自分の道を歩む姿を、誰よりも誇りに思い、愛している」
ジルヴェスト様は懐から、あの求婚状ではなく、新しく刻印された小さな真鍮の指輪を取り出した。
意匠は、工房『シエル』の紋章である青空の雲と、オルディス家の双頭鷲が寄り添う彫刻。
「平民の職人たる君の自立を侵さず、一人の男として、生涯の対等なパートナーとして、俺の隣に立ってくれないだろうか」
貴族のしがらみを超え、お互いの領分と誇りを尊重し合う、新しい婚姻の形。 それは、三年前の冷たい契約の朝には想像もできなかった、温かな光だった。
「……はい、喜んで」
私が微笑んで頷いた瞬間。
ジルヴェスト様の表情が一気に崩れた。
張り詰めていた肩の力を抜き、子供のように相好を崩したかと思うと、彼は人目も憚らず、作業台の上に置かれていた私の右手を両手で包み込んだ。
そして、慈しむように、大切そうに、私の手の甲へ温かな口づけを落とした。
「っ……ジルヴェスト様、誰かが見て――」
突然の熱い感触に、私の頬が一気に朱に染まる。 工房のガラス戸の向こうで、弟子たちが「うわあ!」と歓声を上げ、慌てて目を覆う気配がした。
恥ずかしさで胸が破裂しそうになりながらも、私は彼の手を振り払うことはしなかった。
不器用で、武骨で、けれど誰よりも真っ直ぐなその指を、赤くなった顔のまま、ぎゅっと強く握り返す。
彼の手のひらは温かく、私の指先をしっかりと包み込んでいた。
◇
契約満了の朝から始まった、私の旅路。 身代わりの鎖を自らの手で断ち切り、冷たい土を耕し、知恵と技術を磨いて手に入れた居場所。
自分の足で立っているからこそ、いま、こうして誰かの手を対等に握ることができる。
「行こうか、エレナ」
「はい、旦那様」
私が悪戯っぽくそう呼ぶと、ジルヴェスト様は少し困ったように、けれどこの上なく幸せそうに目を細めた。
二人は手を取り合い、工房の裏庭へと歩み出した。
扉の向こうには、かつて北方の荒れ地で育てたのと同じ、紫のラベンダーが初夏の爽やかな風に揺れ、見渡す限りの青空の下で誇らしげに咲き誇っていた。
誰の身代わりでもない。 都合のいい道具でもない。 自分の足で、ふたりで、新しい幸せの物語を紡いでいくために。
(完)
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