第8話「シュガーツリー」
「……なんか、ちゃんと、見たの……初めての気がする」
高い位置にあった太陽が姿を消し、夜空には月と星の煌きが人々を魅了する。
ゲームの中では、良い子が眠る時間。
でも、魔法学園に通う生徒たちは眠りに就くことなく、列車での長旅から解放された憂さ晴らし。
森に生息する魔物退治に向かうというイベントに赴いていた。
「今まで、どんな風に生きてきたの……?」
「ん? ああ、星は見たことあるんだけど……」
窓越しに眺める星じゃないってことに、心が動かされているんだと思う。
(あの頃は、空を見る余裕すらなかったなぁ)
寝たきりだった頃の俺にとって月も星も、どれだけ手を伸ばしても届かないものだった。
あまりにも遠すぎて、別の世界の存在にすら思えていた。
(でも、今は違う)
触れられなくても、ちゃんとそこにあるのだと感じられる。
見上げれば届きそうなほど近くに、月も星も輝いている。
「見ていたものと、見えてるものは違うんだなぁって」
病院や家の窓硝子が、汚れていたんじゃないかと疑ってしまう。
同じ景色を見ていたつもりで、実はそうじゃなかった。そんな感覚が、じわりと体に広がっていくのが分かる。
「……行くよ」
リアムはそれ以上、何も言わなかった。
でも、一度だけ夜空に視線を向けて、そのまま歩き始めた。
「シュガーツリーに向けて、しゅっぱぁつ」
砂糖を取りに行くという目的があることが、今はなんだかありがたい。
ファルが楽しそうに回転する様子を見ていると、こっちの目が回りそうになった。
「弱すぎて話にならないんだけど」
「でも、これくらいがちょうどいいよ……」
砂糖収穫班の俺たちは、学園の生徒たちの後を追っている。
お金持ちのご令息やご令嬢が危険に晒される状況を見て、彼らの親は何を考えているのかと思うかもしれない。
だが実際のところ、そうした心配が生まれない理由は単純だ。
この学園に通う生徒たちは、いずれも家の将来を託されていないはずれ枠なのだ。
(家族から期待されていない者同士なら、分かり合えそうな気もするけど……)
学園生活の中で仮に命を落としたとしても、それは家系の未来に影響しない。
だからこそ、教師たちは生徒たちに過剰な干渉をせず、生徒たちに自由を与えている。
「先生、討伐完了しましたー」
「さっさと宿に帰ろうぜ」
ゲームの設定上は、リアムもそれなりの実力者とされている。
それでも、魔法学園の生徒たちの異常なまでの実力を目の当たりにすると、彼らがはずれ枠に置かれている意味が分からなくなってくる。
「これが……シュガーツリー……」
「甘そうだねぇ~」
視線の先にあったのは、森の中心に根を張る大樹だった。
幹には蜂蜜を思わせる琥珀色の液体が脈打っていて、それらは血管のように大樹全体へと広がっている。
枝や葉っぱは真っ白に染まっていて、雪をまとったような大樹って表現が合っているのかもしれない。
でも、これらの白を構成しているのは、雪ではなく砂糖なのだと思う。
「生徒たちが魔物は討伐してくれたけど、一応は物陰とか気をつけて」
「いつ襲われても、おかしくないってことか」
生徒たちは血気盛んらしく、俺たちがひっそりと行動している間にも魔法の光が何度も煌いた。
詠唱の声が止むことはなく、リアムの心配は杞憂に終わるだろう。
(耳で聞いてた研修旅行とは、違う……)
『お菓子の国の魔法使いと恋のレシピ』をプレイしていたのは、ベッドの中で体調を崩していた俺ではなかった。
体が弱くて碌に学校も通うことができなかった俺に、青春というものを教えようとしてくれた姉だった。
「あー……」
「ニコ? どうかしたのぉ?」
あのときはただ、姉の声を頼りに断片的な情報を拾っていただけだった。
「なんか、感動してる……」
けれど、今は違う。
自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の鼻で、世界の空気を吸い込んでいる。
「あー、もう、いちいち感動してる暇ないってのに!」
画面の向こう側にしか存在しないと思っていた景色が、音が、匂いが、今は確かに現実としてここにある。
「いいんじゃない?」
こんなにも、世界は鮮やかだったのか。
胸の奥から言葉にできない感情が押し寄せた、そのとき。
一緒にシュガーツリーを見上げていたリアムが、声を投げかけてくる。
「俺やファルは見慣れていても、ニコには新鮮なら」
そう言いながら、リアムはシュガーツリーへと手を伸ばす。
幹にそっと触れ、その質感をなぞるように指先を滑らせていく。
「俺に合わせて、感情を閉じ込めることはない」
真っ白な砂糖をまとった樹皮を指先で撫で、さらりと零れた粒を擦り合わせるリアム。
「ニコは、ニコなんだから」
何気ない、その一言。
不思議なほど心を満たしていくから、リアムは立派に乙女ゲームに登場する攻略キャラクターって役割を全うしていると思う。
「……じゃあ、リアムも、リアムってことか」
上手く言葉をまとめられず、俺の言葉は独り言のように零れ落ちていった。
リアムはそれを特に拾い上げることもなく、シュガーツリーをじっと見つめる。
「……そろそろ、収穫に入りたいんだけど」
きらきらと白い砂糖をまとった枝が、月光を受けてかすかに揺れる。
「どうやって収穫するんだろ」
「……は?」
さっきまでの落ち着いた空気が、リアムの一言によって崩された。
リアムが変わり始めているっていう感覚すら、今の一言であっさりと吹き飛んでいく。
「砂糖って取り放題なんだけど、収穫方法は秘密って言われてて……」
さらりと投げられた世界説明に、きっと俺の眉はわずかに動いたと思う。
「自然落下とか、削るって方向ではなさそう」
そもそも、砂糖が自然に落ちるっていう発想自体に驚かされる。
でも、それは俺が日本人だからであって、ゲームの登場人物たちにとっては常識だからこそ何も言えなくなる。
「さっき、指で触って……」
「少量なら、それでいけそうだけど……必要なのは、《《大量》》の砂糖だよね?」
「っ」
おはぎを作るには、想像していたよりずっと大量の砂糖が必要だった。
リアムが示す、指先でひとすくいなんて可愛らしい単位では到底足りない。




