7.恐怖の目覚め
朝、人の気配を感じて目が覚めた。
「……」
起き上がることはせず、ディアナは薄目を開けて目線だけで周囲を探る。カーテンのかかっていない窓にはきっちりと鍵がかかっており、少なくとも目で見た範囲に人影はない。
あれからすぐにディアナは床についた。そこから泥のようにぐっすりと眠り、そして物音で目を覚ましたのだ。
(疲れてたのね……)
部屋の扉はもう閉まっている。この部屋に入るためには正面の扉かベッド横の窓からしかない。ということは彼女は扉から入ってきた人物が侵入し、そしてどこかに隠れるまで気づかずに眠っていたということだ。昨夜のエリアスが訪ねて来た時もそうだ。ディアナはちっとも彼の訪問に気づいていなかった。
(昔はリスが部屋に侵入するだけで気づいて跳ね起きていたのに……)
実家に居た頃は毎日のようにリスが遊びに来ていた。ディアナの実家の領地は野生動物や魔獣がたくさん出没し、貧乏で人を雇えないディアナたち家族はその対策に毎日おわれていたものだ。
ちなみにリスは畑を荒らす害獣である。見つけ次第捕獲する。
しかしレーヴラインの立派なお屋敷では、少なくともディアナが嫁いでからは一度も屋敷内に野生動物が侵入するなどの事件は起きていないはずだ。
『僕かあなたが殺されでもしたらすべておじゃんです』
昨夜のエリアスの言葉がよみがえる。
ディアナの背筋がぞわりとあわだつ。
(まさか……)
暗殺者が送り込まれた、などということはあるまい。そう思いつつも彼女の心臓は早鐘のように脈打った。
ディアナはゆっくりと布団をつかむ。もしも本当に暗殺者がいたのなら。今手元にあるのは布団と枕くらいのものだ。窓はすぐ隣。鍵を開けてベランダに出れば助けを求められるかも知れない。
(……よし)
彼女は意を決して、目を開けて布団を跳ね上げ、窓の鍵に手を伸ばそうとしてーー、
「……っ!?」
停止した。おそろしいものを見たからだ。
そこにはーー、ベッドの脇から顔の上半分だけを覗かせている女がいた。
位置はさきほどまでディアナが寝ていた腹のあったあたりだ。彼女は床に座り込むようにして、もぐらのように目だけを布団から上に覗かせこちらを見ている。
その姿はただのホラーだ。
完全に悪霊に取り憑かれた何かである。
「おはようございます。奥様」
「お、おはよう……」
普通に挨拶されるのも怖い。
なにせこれまでは使用人たちも夫にならってディアナのことは無視していたので。
ディアナは部屋から出ることはなかったし、必要最低限の物品だけをただ夫と義母のいいつけに従って持ってくるだけだったのだ。
「えっと……」
とりあえず暗殺者ではなさそうだ。
しかし海面から顔だけをのぞかせる海坊主のように微動だにしない彼女に、ディアナはなんと声をかけたらいいものか戸惑った。
そのことに彼女も気がついたのだろう。彼女はものすごい勢いで後ずさると、まるで蛙のように宙を跳んだ。
「申し訳っ! ございませんでしたぁぁぁ……っ!!」
比喩ではなく、二、三メートルは跳んだ。そしてそのまま床に這いつくばったまま額を地面にこすりつけた。
「いや、あの……」
何が起きているのかわからない。
(まさか……)
別の懸念がよぎる。
ディアナがカークスを殺したことに気づいて、自分まで殺されないように怯えているのだろうか?
しかしその疑念はすぐに晴れた。
「奥様!! あたし! あたしは!! いままで自分のことが大事で! 奥様がひどい目にあっているのにずっと見て見ぬ振りをしてました……っ!!」
彼女は顔を上げない。ただひたすらに声を張り上げる。
「いまさらですが! それを謝りたくて!! あたし! あたしは!! あたしは……っ!!」
彼女の声がつまる。ぽたり、と床の絨毯に滴が落ちてその色を変えた。その華奢な肩は震えている。
「あなた……」
暗いブラウンの髪に浅黒い肌をした彼女は、よく見るとまだ十五歳くらいの少女だった。お仕着せのメイド服は少し大きいのか袖が手のひらにかかってしまっている。
ディアナの声に反応して彼女は顔を少し上げた。髪と同じダークブラウンの瞳には、涙がたっぷりとたまっていた。
けれどそれをこれ以上はこぼすまいとただでさえ大きな瞳をさらに見開いている。
(この子……、昨夜の……)
ホットミルクを運んでくれたメイドだ。
昨夜の彼女は何か物言いたげな様子だった。きっとそれが今言った内容だったのだろう。
彼女がディアナのことを殺人者だと思っていたとしたら、きっとこのように間抜けな謝罪などはしない。自ら保身のために見て見ぬ振りをしてきたと白状する行為は相手を刺激することにほかならないからだ。
ディアナの目には、その涙は殺人者に怯えているというよりは本当に良心の呵責にさいなまれている、といった様子に見えた。
「……」
ディアナは手を伸ばした。その指先が頬に触れそうになると、彼女はびくり、と首をすくませる。
ディアナはそのまま彼女の後れ毛を耳の後ろへとかけた。
「……奥様?」
「いいのよ」
言いながら小さく微笑む。そんなのはディアナだって同じだった。自分のことに必死で、いままで気づいていなかった。
こんなに小さな少女が。
「毎日大柄な男に怒鳴られて、人が殴られるさまを見るなんて……、とても怖かったでしょう。ごめんなさいね……」
「……っ! 奥様ぁ!!」
彼女は泣き崩れた。ディアナはその身体を受け止める。ディアナにすがるその手は震えていた。
(かわいそうに……)
いつ自分が同じ目に遭うかもわからない。そう思うと気が気でなかっただろう。
かばうだなんてできるはずがない。
彼女の首を見る。
そこには彼女がこの家の奴隷であることを示す『ネル』という文字の刻まれた銀色のネームタグが冷たい光を放っていた。




