62.カークス
その男の青い瞳はぼんやりと窓の外を眺めていた。
頭には包帯が巻かれているが、その下にはもう外傷など残っていない。あるのは怪我の痕だけだが、その生々しさにマルティナが慌てて包帯を巻いたのだ。
男ーー、カークスはそれを好きにさせていた。
どうでもいいことだったからだ。
ぎしり、と腰掛けたベッドが揺れた。この家の物はどれも屋敷の物よりも安っぽい。既製品にしては十分なものではあったが、やはり長年をかけて母ハンナが集めた屋敷の調度品とは比べるべくもなかった。
ここはマルティナの家だ。
彼女を愛人として囲った時、カークスがこの家を準備させた。家具などは実際に住むマルティナが用意すればいいと金を渡してやらせたが、平民である彼女はどうにも金の使い方が下手だ。
流行りのものらしい格式のない絵画にうるさい模様の壁紙。やたらとぴかぴかとした金色の物を飾り立てているせいで全体的に落ち着きがなく、高価なものが置かれているはずなのに安っぽい張りぼてのような印象を受ける。
別に住むわけではないし、時々訪れるだけならそれでいいと放っていたが、……しばらく住むと少し頭痛がした。やはりこのような場所は自分のいるべきところではない、とカークスは思う。
(早く……、屋敷に戻らなければ……)
そんな焦燥が彼を包んでいた。目が覚めた時、幸いなことにもうすでにこの屋敷にいた。マルティナが泣きながら生きたまま墓に埋められたのだと言った時にはぞっとしたものだ。
(ディアナ……)
あの女。遥かに格下の身分にも関わらず娶ってやったというのに、あろうことかこの自分を殴り倒した。
みしり、と手にしていたマグカップが悲鳴を上げる。それにかまわず感情にまかせてカークスはそのカップを壁に投げつけた。
悲惨な音がして壁にぶち当たり、破片が舞う。中に入っていた紅茶が周囲に飛散した。
(早く……、屋敷に戻らなければ……)
再び思う。
今頃マルティナは母と接触している頃だろうか。急がなければ、自分の居場所が奪われてしまう。
(エリアス)
忌々しい腹違いの弟。
初めて目にした時は正直なんとも思わなかった。ただの奴隷の産んだ子ども。自分の下僕にでもしてやるか、としか思っていなかった。
弟が一人で立てるようになり、話し始めて父が連れ回すようになるまでは。
カークスにとって父ルートヴィヒは尊敬すべき父親だった。そこら中で囁かれる武勇伝、鍛えられた体躯に人々から慕われるその力強い背中。
しかし一方で遠い存在でもあった。いつも忙しく領地を飛び回る父は、時々家に帰ってきてはカークスにたくさんの手土産を渡し、軽く頭を撫でるとすぐに仕事に出て行ってしまっていたからだ。
しかし、エリアスが八才頃から違和感を覚えるようになった。
カークスのことは屋敷に置いていく父は、エリアスのことは仕事に同行させるようになったのだ。
別にカークスに対する態度が冷たいわけではない。むしろ優しい父だった。しかしたくさんの物と自由を与える一方で、父はカークスになにかを教えようとはしなかった。
エリアスにだけだ。
エリアスには……、厳しかったようにも思う。しかしそれはエリアスに物を教えようとする気があるからだ、とカークスは理解していた。
剣の稽古をねだったことがある。父は簡単な打ち合いはしてくれたが、それより先は「ブレンに教わるように」と言い置いて仕事へと向かってしまった。
その父の側にエリアスのことを伴って。
(俺は、父に期待されていなかった……)
本当の跡継ぎはエリアスだった。それをきっと屋敷の誰もが薄々気がついていた。だから母に、父を殺すと言われた時も反対はしなかった。
昔は父も母も仲が良かった。すべてはエリアスが生まれてからだ。母はエリアスの存在に気が狂ってしまったのだ。浮気した父のことをことあるごとに口汚く罵り、部屋で塞ぎ込むようになった。だから当然の結末だったのだろう。
母は当時はまだ執事ではなかったスチュワートに命じて馬車の車輪に細工をさせた。そしてその馬車にルートヴィヒが乗るように促した。
カークスはそんなにうまく行くとは思っていなかった。本当に殺せなくとも、大怪我を負うだけでも十分だとそう考えて行った策略は、見事に父を殺した。
足場の悪い崖の道の真ん中で、車輪が外れて馬車は谷底に落ちたのだ。
その知らせを受けた母は真っ先に父の遺言状を探した。ブレンに渡されていたら手遅れだと思っていたが、それは父の書斎の金庫の中にあった。その遺言状を無作法なことに葬儀前に母は開き、ーーそして破り捨てた。
内容までは聞いていない。しかし、その態度からおそらく望まぬことが書かれていたのだろうことだけはわかった。
すなわち、跡継ぎはエリアスである、と。
遺言状は隠蔽され、カークスが後を継いで当主となった。
(あの時にエリアスを追い出せていれば……)
そうは思うが、それは難しかった。
ブレンだ。
ブレンは父の忠実な下僕。おそらく遺言状など見なくとも父の意図を薄々察してはいたはずだ。
そのブレンがいる間はエリアスを排除することなどできない。
そしてブレンを追い出すこともできない。それは領地の運営などよく知らないカークスでも理解していた。この地で白狼族を敵に回すのは下手すれば一族郎党、失脚しかねない下策だ。
そして何よりも領地の管理などできない母とカークスには、ブレンの知識もエリアスの手腕も必要だった。幸いなことにエリアスは父の意図など知らなかったらしい。おとなしくカークスが当主であることを受け入れ、面倒な仕事はすべて請け負った。
だからそれでいいと、足下の爆弾に気づかぬふりをして過ごしてきた。
しかし状況は一変してしまった。
(今ならば……)
ディアナがカークスを殺そうとし、それに味方したという理由でエリアスを処分できる。
実際にエリアスが本当にディアナの味方をしていたかどうかなどはどうでもいい。傍から見ればそのように見える、ということが大事だ。
(マルティナの話では、あの二人は俺がいなくなった後は懇意にしていたらしいからな……)
カークスの殺害にエリアスも一枚噛んでいた。そういうことにしてしまえばいい。領地の運営だけならば、ブレンが居ればなんとかなるだろう。
「エリアス……」
ディアナにも腹は立つ。だがそれ以上に忌まわしい弟をやっと処分することができる、という安堵と、急がなくてはエリアスにすべてを奪い取られるのではないか、という焦燥が、カークスの心を落ち着かなくさせていた。





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