61.ハンナの嘆き
ハンナはぼんやりと窓辺に置かれた椅子に腰掛けて外を見ていた。
(どうしてこんなことになったのだろう?)
そんな疑問ばかりが頭にこびりつく。
一体なにが間違いだったのだろう。
一番最初は間違いない。ルートヴィヒに目をつけられたことだ。何度もふって、他の人と結婚するつもりだったのに連れ去られてしまった。
それでも若かったハンナはそれだけ愛されてるんだ、などと自惚れて悪い気はせず、結局多少粗野だが、見た目も身分も申し分のないルートヴィヒにほだされる形で結ばれた。
ーーけれど、
次の間違いはルートヴィヒの浮気だ。あんな下賤な奴隷女。ハンナがいるにも関わらず彼は浮気をした挙句、子どもを作った。
その子どもを捨て置けばまだ気まぐれとして許すこともできたのに、あろうことか大金を積んでハンナとルートヴィヒの正式な子として引き取ってしまったのだ。
「……エリアス」
憎い名前。けれどルートヴィヒとその忠実な下僕であるブレンの目がある間は手出しなどできない相手。
「カークス……」
そして最大の間違いは、カークスが亡くなったことだ。
可愛いカークス、大切なカークス。
彼が自分よりも先に亡くなるなんて、ハンナは思っても見なかった。
「ディアナ……」
忌まわしいあの女。波打つ黒い髪が思考を遮る。
あの女を娶らなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。
絶対に許せない女。しかしハンナにはもうどうすることもできない。執事のスチュワートは処分され、他の使用人たちも落ち目の自分から離れていってしまった。今側にあるのはエリアスの息のかかった使用人たちからの監視と冷たい眼差しだけだ。
少し前まではあれほどこちらを敬いへこへことへりくだっていたというのに、今はどうだろう。
まるでゴミでも見るような蔑みの目を向けてくる。
ハンナは両手で顔を覆うとうずくまった。
「カークス! カークス、カークス、カークス!!」
呼んでも我が子からの返事は返らない。
彼がいればこんなことにはならなかった。こんな無礼など許されるはずもない。カークスさえ、カークスさえいてくれれば。
(この母のことを守ってくれたはずなのに!!)
「大奥様、失礼いたします」
嘆きを引き裂くように静かな声がした。そのまま無遠慮に扉が開かれる。こちらの返事を待つこともないその無礼は今に始まったことではない。ハンナは今までこのような侮辱を受けたことはなかったはずなのに。
カークスが亡くなって、すべては一変してしまった。
近づいてくるメイドに振り返る気にもなれない。
両手で顔を覆い床を見つめるハンナに、そのメイドの足元だけが視界に入る。
「大奥様……、なんとおいたわしい……」
しかし予想に反して彼女は床に膝をつくと、同情するようにハンナの腰に手を添えた。
「……っ!!」
それにハンナは逆上して振り払う。立ち上がった勢いで椅子が倒れる音が部屋に響き渡った。
「わたくしに触れないで!! 無礼者!!」
痩せ細った顔、乱れた髪で、けれどその青い目ばかりはぎょろりと最後の矜持を宿してメイドのことを睨みつける。
「わたくしを誰だと思っているの!! たとえどのような境遇であろうと! あなたのような下賤な者に同情されるような人間ではありません!! 見誤るな!!」
ゼイゼイと肩で息をする。見下ろしたメイドは、ありふれたブラウンの髪と瞳をした女だった。
いつもハンナの周囲にあった、金や白銀とは似ても似つかない薄汚れた色だ。
メイドはしばし呆然とハンナのことを見上げていたが、やがて「大奥様がやけを起こされているのはわかりますわ」とつぶやいた。
「あたしも同じでしたもの」
「はぁっ!? わたくしとお前を一緒になど……っ!!」
「カークスは生きておりますわ」
怒鳴りつけようとして、続けられた言葉にハンナは止まった。目を見開く彼女の目の前でメイドはしたり顔で笑う。
「疑う気持ちはわかりますわ。ですからこちらをお持ちしました」
そう言って差し出されたのは一枚の封筒だ。
質素な封蝋のされたそれを、ハンナは恐る恐る手に取る。
例えこれが嘘でも信じたい。
そんなことを思う頭を強く横に振った。
そしてーー、
「……ああっ!」
ハンナは泣き崩れる。その背中をメイドはそっと支えた。
ハンナは今度はそれを振り払わない。
なぜならその手紙、その封筒にはよく見慣れた文字でサインがされていたからだ。
カークス・レーヴライン、と。
「い、生きて、いるのね……?」
「生きておりますわ、大奥様」
メイドが背をさする。その温度が、これが現実であることを知らせる。
「カークスは生きていたのです。彼は気絶していただけ。あたしが墓から掘り起こした時に、確かに息がありました」
「ああっ、ああ……っ!!」
どれほど夢に見たことだろう。これが夢なら覚めないでほしいと祈りながら、ハンナは口を開いた。
「おまえは誰なの……?」
メイドはその真っ赤なルージュのひかれた唇を吊り上げる。
「あたしはマルティナ」
豊かなブラウンの髪、猫の目のように釣り上がった勝気なブラウンの瞳。
「カークスの恋人ですわ、大奥様」
『ローザ』と、そう詐称して屋敷に入り込んだ彼女は艶やかに微笑んだ。





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