63.地獄からの帰還
最初にその人物は見つけてしまったメイドは、まるで悪霊でも見たかのように顔を青ざめさせて二、三度目をこすって見直した。
どうか見間違いであってくれ、と願ったからだ。
その横っ面が容赦なく拳で殴り飛ばされる。
「遅い。主人の帰りに礼の一つもできんのか」
短く駆られた白銀の髪に鋭い刃物のような青い瞳。
そしてがっしりと鍛えられた体躯。
それは間違いなく、暴君カークスの帰還であった。
屋敷のエントランスで上がった悲鳴と逃げ惑う足音に、その騒ぎを聞いてエリアスとディアナは駆けつけた。
そこで見たのはまるで地獄のような光景だった。
殴り飛ばされたとおぼしきメイドの血が磨かれた床にはへばりついていた。その軌道の先で殴られた彼女は震える足でなんとか逃げようとして立てずにもがいている。
その彼女を引きずってなんとか助けようとするメイドが「誰か! 誰か!」と助けを呼び、その声に駆けつけた使用人たちはエントランスに飛び込んできた途端にその光景を認めて絶句したように立ちすくむ。その中で我に返った幾人かは逃げようときびすを返し、「こっちに来るな! 逃げろ!」という警告の声が屋敷内を駆け巡った。
「カークスだ!! カークス・レーヴラインが帰ってきた……っ!!」
その悲鳴じみた叫びに更に混乱が波紋のように広がっていく。
(ああ、ブレンの言うことは本当だったんだ……)
ディアナの胸には言い知れぬ絶望感がじわじわと広がっていっていた。
騒動の最中にあって、逃げ道を塞ぐように扉の前に堂々と腕を組んで立つ男。
それは間違いなく死んだはずのカークスだった。
「……カークス」
うめくようにエリアスがその名を呼ぶ。その声に反応するように彼はゆっくりと二階へと続く踊り場に立ちすくむエリアスとディアナの方へとその青い瞳を向けた。
「……っ」
たったそれだけのはずなのに、ディアナの全身からぶわりと汗が噴き出て心臓が早鐘を打つ。足下がふらつき倒れ込みそうになって、その腰をエリアスの腕に支えられた。
「……エリアス」
「……大丈夫です、ディアナ」
緊張した面持ちで、しかし安心させるような静かな口調で彼はそう告げた。
同じ青い瞳なのに、あまりにも違う瞳。
(ひとつも大丈夫じゃない……)
そうわかっているのに、ディアナはその彼の言葉にすがってしまいそうになる。
「あいつだ」
その時、カークスがそう重々しく告げた。太く節くれ立った指を真っ直ぐにディアナへと突きつける。
まるでディアナの心臓を刺すかのように。
「あの女が俺を殺した。その隣にいる男も共犯だ」
「……っ!」
息を呑む。
カークスは一人ではなかった。その両脇にはいつの間に結託したのか二人の女性が立っていた。右脇には母のハンナ。そして左側にはなぜかメイドのローザが立っている。
しかしローザの格好はメイドではなく、まるで裕福な貴族のように優美な曲線を描く真っ赤なドレスに派手な宝飾品を身にまとっていた。
しかし問題はその背後だ。
彼らはたくさんの憲兵を引き連れて訪れていたのだ。
「え、えーと、レーヴライン侯爵……、それはまことですかな?」
カークスを殺した夜、ディアナに同情的に話を聞いてくれていた人の良い憲兵が額の汗をハンカチで拭いながらそう尋ねた。おそらく優しい気質であろう彼には迷いがあるのだろう。
この阿鼻叫喚で主人の帰宅を誰も喜ばない屋敷の中で、本当にカークスの言葉を信頼していいのか、という迷いが。
だがその迷いはカークスにとって酷く不快なものだったようだ。彼は強い力で床をガンガンと二、三度蹴りつけ、その音で周囲の者を黙らせた。
その音の強さに悲鳴を上げていた使用人たちもびくり、と首をすくめて動きを止め、憲兵も怯えたように口を閉ざした。
「俺の言うことを疑うな」
たった一言。しかしその一言は圧倒的な権力と傲岸さを持って反論を押さえ込んだ。
「あの二人が俺を殺した。そしてレーヴライン家を乗っ取ろうとした大罪人だ。今すぐ捕らえろ……っ!!」
憲兵たちは戸惑ったように、しかし渋々動き出した。カークスは侯爵家の当主。逆らうには分が悪いことを察したのだろう。
逆らった時に、カークスの気性では温情が見込めないということも。
「あの、そういうことなので、とりあえずお話を伺わせてもらって……」
憲兵が申し訳なさそうにディアナとエリアスのことを屋敷の外に誘導しようとして、再び床をガンガンと打ち付ける音が鳴る。
首をすくめて見ると、カークスはぎらぎらと怒りに瞳を光らせて「罪人を捕らえろ!!」と怒鳴った。
そのきちがいじみた恐ろしさに憲兵は慌ててディアナとエリアスの手を取ると引っ張り始める。
「申し訳ありません、ひとまず駐屯所まで同行いたします。必要なら拘置所などに留置していただいてかまいません」
エリアスがそう落ち着かせるように告げて素直に同行する。それに憲兵はやっとほっとしたようにうなずくと無言で先導を開始した。
「あたしね、マルティナって言うのよ。あなたとは違って愛されている。この人の本当の妻よ」
外へと出る直前のすれ違いざま、ローザはそう勝ち誇ったようにディアナに囁いた。そこでやっとディアナは彼女の正体がカークスの愛人であることを知った。





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