50.ネル
それはかすれて息切れを起こしたような男の声だった。
「……エリアス?」
振り向いてディアナは驚く。
いつもは隙なく整えた前髪、そして皺一つない衣服を涼しげに身にまとった彼が、今は汗だくでまるで全力疾走でもしてきたかのように髪をぼさぼさにして肩で息をしている。
「どうしたの!?」
慌ててその尋常ではない様子の彼に駆け寄ると、「それはこっちの台詞です」と息も絶え絶えに言われた。
「え?」
「ネルからディアナが殺されるかもしれないと言われて慌てて駆けつけたら『大好き』ってなんですか? 一体なにが起こっているんです!?」
その目は据わっている。
「え、ええーと……」
そんなものディアナにもわかりはしない。
庭掃除をしていたらうっかり相手の琴線に触れる発言をして殺し合いをした末になんか大好きって言われました。
(……なんか違うな)
いや事実その通りなのだが、これを言ったところで一体なにが伝わるのだろう。
「とりあえず……、殺されてはないわ」
「それは見ればわかります」
ディアナの必死の説明はエリアスにぴしゃりとはねのけられた。
「拳を交わし合って仲良くなったんだよー、ねぇルリ」
そんな二人の間に割って入るようにハリがぴとりとディアナにくっつきながらそう告げる。それに遅れて来たルリも同じようにハリがいるのと反対側のディアナの腰にぴとりと張り付きながら、
「僕は仲良くなってないけど、ハリが仲良くしたいみたいだから仲良くするよー」
と同じように告げた。
「……はぁ」
エリアスは心底疲れたというようにため息をつく。
「とりあえずあなたの勝利で決着がついたということは理解しました。そもそも諍いになってしまったのも……、おそらくあなたがなにか不用意なことでもしたのでしょう、ディアナ」
「うっ」
何も言っていないのにその理解度の高さはなんなのだろう。
(わたしってそんなに空気が読めていないのかしら?)
助けを求めるように視線をさまよわせると、どうやらエリアスについてきたらしい、新しい執事のアスターがにこやかに手を振ってくる。そしてそのすぐ近くにはネルが所在なさげに立っていた。彼女とばちりと目があう。
「べ、別にっ、あたしは奥様のことを心配したとかそんなんじゃないんですからねっ」
そう目線をそらされて、ディアナはきょとんとする。そういえば彼女がエリアスのことをここまで連れてきてくれたのだ。おそらくディアナが負けないようにと思ったのだろう。その手には部屋に置いてきたディアナの剣が握られている。
ディアナは微笑んだ。
「そうなの? ありがとう、ネル」
「だからっ、違うって言ってるじゃないですかぁっ!」
顔を真っ赤にして怒鳴るネルに、ディアナは微笑ましくてくすくすと笑う。
「わたし、てっきりネルにはあんまり好かれていないんじゃないかと思っていたの」
「えっ!」
その言葉に彼女は絶句した。
「な、なっ、なっ、なんでっ!?」
「え? なんとなく?」
「な、『なんとなく』!?」
「でもそんなことなかったのね。仲良くしてくれて嬉しいわ、ネル」
ディアナの言葉に彼女はしばしわなわなと震えた後、そっと視線を地面へと落としてぼそりとつぶやいた。
「おそるべし、野生の勘」
「え? なぁに?」
「なんでもないですっ!」
びしりっ、と姿勢を正すと、手に持っていた剣をディアナへと差しだした。
「奥様、死にませんよね?」
「え?」
突然のその言葉に驚きながらも、ディアナはその剣を受け取る。
しばらくネルのその不安そうな表情をしげしげと眺めた後、「そうねぇ」とのんびりつぶやいた。
「わたしが死ぬとしたら、病気か裁判じゃないかしら?」
「え」
「病気に剣は振れないし、死刑になったら逆らう気はないし……」
ディアナは考える。カークスの件がバレて死刑判決が下ったら。家族には被害がいって欲しくないため減刑は求めるかもしれないが、ディアナ自身への死刑判決は抵抗せずに受け入れるだろう。
それがせめてもの、殺人を隠蔽をしたディアナなりの最後の一線だ。
(バレたらその時は潔く死のう)
エリアスと家族だけは、逃れてほしいけれど。
「だから、それ以外では死なないわ。ほらわたしって結構強いみたいだから」
にっこりとディアナはネルに笑いかけた。
「きっと誰にも負けないわ?」
「……っ」
ネルは息を呑み、そしてすぐに目をそらした。
「そ、そうですかぁ……」
そうつぶやくその頬は、そっぽを向いていてもほのかに色づいて赤かった。





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