39.ブレン
コツコツと革靴の音が廊下に響く。夜は稀少な魔石の消費を押さえるために廊下の灯りはおとされていた。月明かりだけが差し込む回廊で、紅い瞳が光を反射して鈍く輝く。
(不備はないようだな……)
消し忘れがないことを確認すると、ブレンは足を止めた。どこか遠い空で狼の遠吠えの声が聞こえる。おそらく常人には気づくことができないだろうかすかなそれを、ブレンの獣耳は正確に捉えていた。
しばらくその声に耳を傾けた後、ブレンは視線を空へと移す。
そこには浩々と輝く満月があった。
(すこし話し過ぎたか……)
昼間のことだ。アイリスと名乗るディアナにあそこまで過去の話をするつもりはなかった。
ただディアナがあまりにもつまらない思い出話に熱心に耳を傾けてくれるので、興が乗りすぎてしまった。
実のところ、ブレンはディアナのことをそう嫌ってはいなかった。
少し前までは陰気な女だと思っていた。カークスに殴られてもなんの抵抗もしない無気力な女。その当時は関心がなかった。
しかし白狼族は勤勉で強い者を好む。
葬儀の席に現れたシュランゲを一人で仕留めたという噂。もしもそれが本当ならば……、いや、そうでなかったとしても。
(カークス様を殺したのは彼女だろうな……)
殺害現場を思い出す。ブレンは実は当初からその事実に気づいていた。
なぜならば、あの現場にはカークスとディアナ、そしてエリアスの匂いしかなかったからだ。
殺したのは第三者ではなく匂いのしたエリアスかディアナのどちらか。
おおかた、抵抗した弾みでディアナがカークスを殺してしまい、エリアスがそれに隠蔽を提案したのだろう、と思った。
それを咎めなかったのは、カークスに対してはかつての主の息子である、ということ以外に価値を見いだしていなかったからだ。ブレンが仕えているのはあくまでもカークスとエリアスの父ルートヴィヒだ。
正直、あの一件でブレンはディアナのことを見直した。
自らを害する相手に対して、自らの手で反抗する気力があったことにだ。
弱い者よりも強い者のほうが好ましい。ディアナがカークスを殺したというのなら、それはカークスが弱かったというまでのことだ。
カークスは怠惰で、その上弱かった。それに対して今のディアナは勤勉で強い。
好意があるのは当然のことだ。
とはいえ、それとエリアスに仕えるかどうかというのは別問題だ。
(……ルートヴィヒ様)
思い出す。あれはまだルートヴィヒが健在で、カークスが十歳になるかならないかの年齢だった時のことだ。
ブレンがルートヴィヒに付き従い中庭を散策していた時のことだ。大きな声と叩くような音がした。そちらに視線をやると幼いカークスと目の前でうずくまる使用人の姿。
「ここにいろって言っただろうが!!」
「は、はいっ、ですからこうしてここに……っ」
「ずれてるだろっ!!」
また打撲音。手に持った棒でカークスが使用人を殴ったのだ。
見ると使用人の足下には非常に小さな丸が地面に描かれていた。それは両足を収めるのがぎりぎり可能な程度の大きさで、ほんの少しでも足を動かせばすぐにはみ出てしまうようなものだった。
確かにほんの少し足先がはみ出ている。
「し、しかしもう三時間も……」
「言い訳するなっ!!」
再び打撲音。
さすがに見過ごせず、ブレンは眉をひそめた。そして咎めようと足を踏み出したところで、
「ブレン」
ルートヴィヒが引き留めるように名前を呼ぶ。
「あいつはいい、放っておけ」
「しかし……」
言いかけて、振り返った先の主人の表情にブレンはなにも言えなくなった。
「あいつはいいんだ」
それだけを言うとルートヴィヒは再び歩み出す。カークスのことは素通りして屋敷の方へと。
「……」
ブレンは後ろ髪を引かれながらも、主人に遅れるわけにも行かず、後に続いた。
「旦那様……」
長い回廊の窓とは反対側、その壁に飾られた肖像画を見上げる。
銀色の髪に青い瞳。険しい顔をして前方を睨むその雄々しい姿。
今は亡きルートヴィヒだ。
「あなた様は将としては素晴らしかった。しかし父親としては……」
続きは濁すように沈黙に溶けた。





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