36.メイドのネル
走り過ぎて肺が痛い。
ブレンから逃げるようにしてたどり着いた屋敷内の片隅で、ネルは背後を振り返った。
周囲に人影はなかった。
当然だ。こんな廊下のどん詰まり、掃除以外で近づく用事なんてない。
窓の多い屋敷なのに、この場所だけは光が差さずに空気も淀んでいた。ほこりっぽい空気が喉を刺激して軽く咳き込む。
(なんであんなことを言っちゃったのかしら……)
思い出すのは波打つ黒髪に黄金の瞳。ディアナの姿だ。
「……あんなやつどうなろうが知ったことじゃないのに」
声に出してつぶやいてみるが、気持ちは晴れない。
本当はあんな、『まるで心配しているような素振り』をするつもりなんてなかった。
だってネルのディアナに対する従順さなど見せかけだ。別にあんな女好きでもなんでもない。ただ立場が向こうのほうが強いから味方のふりをしているだけだ。
そう、ネルではディアナには立場的にも『物理的にも』敵わない。
ネルはカークスを殺したのがディアナだと知っていた。
ネルはかつて帝国に滅ぼされた黒兎族の末裔だ。滅ぼされた際にそのほとんどは奴隷とされ、その二世として生まれたのがネルだった。
つまりネルは生まれた時から奴隷だった。
生まれついての奴隷はそこそこ需要がある。途中から奴隷になった者よりも従順だからだ。それが求められていることにも聡いネルは幼い頃から気づいていた。
だからずっとそのような性格と態度を演じてきた。
できる限りバカっぽく、そして明るく感情的で愛嬌がある。
仕事はできないほうが余計な業務を任されなくて済む。おまけに油断を誘うこともできた。ネルの中に流れる血。黒兎族はかつて隠密として活躍した一族だ。すばしっこく小柄で、気配を消して動くのがうまい。だからネルも馬鹿のように明るく騒々しくふるまう影でひっそりと人々の秘密を盗み見ることができた。
いつか誰かの弱みをつかんで、それを利用して奴隷の身分から解放されようと思っていたのだ。
その中で、ディアナがカークスを殺すところをネルは天井裏から目撃した。
気弱で一方的に殴られるままだったディアナ。その彼女が首を絞められ、そろそろ死んでしまうのでは、と思った瞬間の出来事だった。
(でもこのネタは下手に脅しに使うとあたしが殺されちゃうものね……)
ネルは弱い。だから人を殺すだのなんだのという秘密を扱うには少々分が悪い。特にエリアス。あの頭の回る男を敵に回すのはまずい。ディアナ一人ならなんとか丸め込めても、あの男がディアナの味方に回るつもりなのだと二人のやりとりを聞いて確信した瞬間からネルはこの脅迫ネタを捨てた。
だから自らの立ち位置の確保のために、翌日にはディアナに派手な謝罪をして味方として取り入ることに成功したのだ。
そのおかげで今のネルの立場は安泰だ。カークスという暴君がいなくなった屋敷の中で、エリアスという後ろ盾のあるディアナのお気に入りのメイドであるネルはそれなりに過ごしやすく生活できている。
しかし記憶のない祖国を滅ぼしたことに恨みなどはないが、自分がこのような自由のない身分に生まれたことには不満のあるネルは、このままディアナのために尽くそうなどという気持ちは欠片もない。
(ブレンさんは……、あたしのそういうところを見透かしてそうだけど……)
しかし何も言ってこないところを見るに、どうでも良いと見逃してくれているのだろう。
(あの人も馬鹿みたい……、いつまでも死んだ主人に操なんて立てちゃってさっ)
ブレンのことを鼻で笑う。
ネルは違う。一途に誰かに尽くしたりなんてしない。それでうまくやってきた。これからも強そうな人間の味方の振りをして、うまく乗り換えてやっていく。
ーーネル。
思考の隅に、記憶の中のダークブラウンの髪がちらつく。
今はもういない。ネルの姉の影だ。あの女は馬鹿だった。
人を信じて、人を敬って、誠実に生きて、そして裏切られて死んだ。
(……あたしはそうはならない)
終わったことだ。それなのになぜ、最近あの馬鹿な姉のことをよく思い出すのだろう。
ーー大丈夫よ。
記憶の中のダークブラウンの髪が振り返る。伸ばされる腕、温かな温度、抱きしめられるその体の柔らかさ。
その顔が、姉のものではなくディアナのものと重なって見えた。
ーー毎日大柄な男に怒鳴られて、人が殴られるさまを見るなんて……、とても怖かったでしょう。ごめんなさいね……。
申し訳なさそうに眉をさげて笑う顔。顔立ちは違うのにその表情はとてもそっくりだ。
気がつくと記憶の中のネルは人波にもまれていた。小柄なネルはすばしっこいが力は弱い。大柄な人に押されては敵わない。
巨大な蛇シュランゲ。あんなの一生かかっても敵わない。けれど逃げ足には自信がある。悔しさが全身を包む。周りにすし詰めのようにいる愚鈍な人の群れがなければ、ネルは風のように駆けて余裕で逃げることができるというのに。
白くて細い、しかし良く鍛えられて皮膚の硬い手がネルのことをつかむ。人の洪水から救い出すように引っ張り上げると同時に、変わりに彼女が尻もちをついた。
その手がネルの背中を力強く押す。まるで前へ進めと言うかのように。
振り返る先で、その愚かな女は安心したかのように微笑んでいた。
(……っ! バッカじゃないの……っ!!)
誰かを助けて安心するなどどうかしている。ネルはそんなこと頼んでいない。はらわたが煮えくり返りそうに熱かったのを覚えている。
馬鹿な姉に良く似た女、ディアナ。
(……ああいう女は早死にする)
そう思っていた。だって姉がそうだったからだ。
ああいう優しい女はみんなすぐに死ぬのだ。
だからシュランゲから逃れた時、ディアナは死んだと思った。まったく馬鹿な女だったと。ネルは自分の生き方は間違っていないのだと、またひとつ確信を得た。
(……でも)
気まぐれを起こして様子を見に戻った。人の群れから離脱してしまえば、森の木々の上を飛び移って戻るのは容易なことだった。
ただの気まぐれ。ネルに誰かを助ける気持ちなどない。ただ馬鹿な女の死に顔をおがんでやろうと思っただけだ。
けれどディアナは死ななかった。
思い出すのは剣を片手に駆ける姿。蛇の背を駆け上がり、吹き飛ばされたかと思ったら振り下ろす手でその頭を切り落とした。
返り血に染まる黒髪、響く魔獣の断末魔。その凄惨な光景の中にあって、涼しげに、けれど一際輝く黄金の瞳。
「ーー死なないのかな」
ぽつりとつぶやく。今度は凶悪な双子に目をつけられたディアナ。
もしもこれでも死なないのならば、ネルの生き方は間違っているということになる。
(ああいう馬鹿な女はすぐに死ぬと思っていた)
だからあんな生き方はしないと決めた。あんな生き方をする人間は相手にしないと決めた。
ーーでもそれが、否定されたら?
ディアナは強い。ならば死なないかもしれない。
そんな余計な考えがネルの内に小さく灯る。
(そうしたら、あたしはどうしたらいいんだろう……?)
もしもこれまでのネルの生き方が否定されてしまったら。
その恐ろしい考えに、ネルはぶるりと身を震わせると振り払うように首を大きく振った。
(そしたら……、その時は……)
結論はでない。考えるだけ無駄だ。
「……どうせ、あの双子に酷い目に遭わされてどっかに消えるでしょ」
そうつぶやく声はなぜだろう。自分の声だというのにとても心細い子どもの声のように耳に響いた。





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