21.婚約破棄
「ーーというわけで、僕との婚約を解消していただきたいのです」
淡々とした口調でエリアスはそう告げた。それは口調こそ軽いものの反論を許さない断定だった。
彼が婚約破棄を告げた相手は、わずかに息を呑んだ。しかしやがて諦めたようにため息をつく。
「あなたがそうおっしゃるということは、あたしにはもうどうしようもできませんわね……」
美しいブラウンの髪がさらりと流れた。切なげにうるむブラウンの瞳に長いまつげが影を落とし、目の前のテーブルに置かれた紅茶の水面を見つめる。
透き通るような白い肌に薔薇色の唇。一見あまり着飾っていないように見えるが、よくよく見ればその髪に飾られたレースのリボンもそれに合わせた色合いのドレスもとても上質な生地で仕立てられていることがわかる。
深窓の令嬢。その形容詞がぴったりと当てはまるような人物がそこにはいた。
フローラ・デシネ。デシネ伯爵家の子であり、エリアスの婚約者だ。
この度兄の急逝により兄嫁と婚姻を結ぶことになったエリアスは、その旨と謝罪を伝えに尋ねてきたのだ。
「大変申し訳なく思います」
「心にもないことを……」
もうすでに伯爵からの許可は得ていた。フローラ本人へと直接謝罪に来たのはエリアスなりの誠意だ。
この件を伝えた時の伯爵の反応は予想通りに淡泊なものだった。フローラは妾腹の子なのだ。正当な嫡男はまだ幼いとはいえ存在するため、妾の子に対してデシネ伯爵はたいした反応を示さなかった。
エリアスとフローラの婚約を後押ししたフローラの実母はもうずいぶんと前に亡くなってしまっている。ゆえにフローラにはもう後ろ盾はないも同然だ。
(いきなり放り出すような真似はまさかしないだろうが……)
それにしてもこの家がフローラにとって『冷たい家』であることには変わりがなかった。エリアスとの結婚がなくなった以上、デシネ家にとって都合の良い相手に適当に嫁がされてしまうかもしれない。
「残念だわ……。こんなあたしと結婚してくれる殿方はなかなかおりませんもの……」
憂鬱そうにフローラはそう口にした。しばし二人の間に沈黙が落ちる。ややして、「奥様はどのような方なのかしら?」と質問が投げかけられた。
「ぜひとも知りたいわ。あなたが結婚を決める方なのですもの」
「……なりゆきですよ」
「なりゆき、ねぇ……」
含みのありそうなその物言いにエリアスは文句を言いたい気持ちをぐっとこらえた。今回の件は確実にエリアスの過失である。つまりどんな嫌みも苦情もそのすべてを黙って受け入れる責任が彼にはあった。
「長い黒髪に金の瞳をした平凡な女性です。あなたが気にかけるような人ではない」
苦し紛れに彼はそう答えた。
『なりゆき』。自分で言って、深く納得する。あれはまったくもってただの『なりゆき』だった。
だってエリアスは、最初はディアナと結婚するつもりなど欠片もなかったのだから。
思い出すのはカークスの血をしたたらせて立つ彼女の姿だ。あそこまではエリアスの想定通りだった。いつか兄を殺すとしたら、それは彼女だろうとなんとなく思っていた。
しかしエリアスは当初、兄を殺した彼女を糾弾するつもりでいたのだ。
気が変わったのはその黄金の瞳と差し出された手を見た時だ。
エリアスはずっと貴族社会で生きてきた。だまし合い、策略、自己保身。それらの中にどっぷりとつかってきた彼は、当然ながらディアナにもその行動を期待していた。
つまり、彼女は言い訳をすると思っていた。殺してしまったことに対して『違う、そんなつもりはなかった』、もしくは『わたしは悪くない』と弁明するはずだと予想していたのだ。
しかし彼女はその両手をそろえて差しだした。
連日の暴力で全身に青あざをつくり、頬は真っ赤に腫れていた。首を絞められたのか赤い手のひらの跡をくっきりと残し、鼻からも血をしたたらせぼろ切れのような服を着た女は、しかしまっすぐにこちらの目を見つめた。
そこにあったのは、覚悟の目だ。
自分の犯した罪を受け入れる覚悟。
「素晴らしい!」
ーー気がついた時にはその賞賛が口をついて出ていた。
そう、あれはまぎれもなくエリアスの本音であった。
しかしあまりに急な予定変更だったため、少々エリアスの『言い訳』は聞き苦しかったことだろう。エリアスの立場からして、ディアナをわざわざ妻に迎えることにたいしたメリットはない。
しかし『惜しい』と思ってしまったのだ。
人間の本性は追い詰められた時に現れるとエリアスは思っている。
あれだけ切羽詰まった状況で、あんなに真っ直ぐに人を見つめて真実を話すことのできる真摯さを、エリアスは生まれて初めてみたのだ。
とても稀少な珍獣を保護した。そんな気分だった。
……蓋を開けてみたら保護したのは珍獣ではなく、とんだ猛獣だったわけではあるが。
「金色の瞳……」
フローラの声がする。エリアスは思考から浮上した。
「うらやましいわ……」
ほぅ、と夢見るようにフローラはつぶやく。
「髪の色は黒です。そううらやましがるものではないでしょう」
「いいえ、ありふれた茶色よりも髪か瞳、どちらかだけでも金の色を持っているほうがいいわ。それは貴族の血が確かに入っている証ですもの」
帝国にはいろいろな人種が混在している。それは戦争により他国を次々と取り込んできたからだ。しかし王族、貴族と呼ばれる元々存在する血筋の者たちはみな色素が薄い傾向があった。王族などはわかりやすく金髪碧眼であるし、侯爵家であるカークスやエリアスも白銀の髪に碧眼だ。ディアナは先祖の片方が騎士の出だと言っていたので、黒髪はそちらの遺伝だろう。
一方平民は少し色素が濃くなる。すなわち茶色の髪に茶色の瞳がもっとも多かった。
フローラの母は平民だった。だからデシネ家の中で唯一、フローラは髪も瞳もありふれた茶色だ。
「……あなたのほうが肌は白いですよ」
「あら、ありがとう」
弱々しくフローラは微笑む。
「でもいいのよ。そもそもこんな『なり』のあたしを受け入れてくれるあなたのような方とのご縁があったのが、望外の幸運だったのだわ。……こうなったら、どうにかしてここから逃げ出すしかありませんわね」
そう言うと琥珀の瞳は遠い目をして窓の外を見つめた。確かに、とエリアスもうなずく。
次の婚約相手が、目に見えた瑕疵のあるフローラを受け入れてくれる可能性はあまり高くない。
だからエリアスは逃げ道を用意してきた。
「フローラ」
エリアスは言う。
「あなた、僕の部下になる気はありませんか?」
「……え?」
呆けたように、フローラは首をかしげた。





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