16.絶望
「……あっ!!」
すぐ側を走っていたネルが足をもつれさせてふらついた。その背後からも横からも人が押し寄せて、彼女はなすすべもなく態勢を崩す。
「こ、こっち!!」
ディアナは思わず手を伸ばして彼女の身体を受け止めた。しかしその直後に逃げる人々にもみくちゃにされてたまらずディアナは尻もちをつく。
「……っ」
踏まれないように身を縮こまらせる。波に呑まれるように人の群れにさらわれるネルと目が合った。彼女は手を伸ばしたようだったが、その短い腕もあっという間に人の波にさらわれて見えなくなる。あっという間に周囲から人々は去り、ディアナは一人その場に取り残された。
どこに引っかけたのか、彼女のドレスはまるでスリットが入ったかのように裂けていた。
(よかった……)
しかしディアナはほっと胸をなで下ろす。少なくともネルは逃げられたようだ。弟のアルノルトの姿もないことを見ると、彼も逃げられたのだろう。
「わたしも……」
逃げないと、と立ち上がろうとしてがくん、と再び姿勢を崩して座り込む。見ると履いていた靴のヒールが折れている。かぶっていた帽子もヴェールもどこかに飛んでいってしまっていた。今のディアナはぼろぼろだ。
幸いなことに怪我はないため、靴を脱ぎ捨てて再び立ち上がろうとして、
「……っ!!」
ぼおぉぉぉぉ、という低い音と共に押し寄せた突風にディアナはうずくまった。目を手でかばいながら顔を上げる。そこにはーー、
眼前にまで迫った、魔獣シュランゲの腹があった。
先ほどの音はシュランゲの咆哮だったようだ。視線を上へ上へと上げるかろうじてその顎とこちらを見定める赤い瞳に出会う。
「総員、構え!! 打て!!」
突然背後から声が響いた。それと同時に放たれた弓矢が風を切る音がする。
気がつくとどこから駆けつけたのか、弓と剣を携えた兵士たちの姿があった。
(教会騎士団……)
それが教会の自衛組織であることに気づくのとほぼ同時に、うずくまるディアナのすぐ横の地面に折れた矢が突き刺さった。
そして鈍い風を切る音。
恐る恐る上を見上げる。数え切れないほどの矢をくらったはずの大蛇は、しかし悠然とその場にとどまっていた。
次々と放たれる矢はいずれもシュランゲが首を左右に振るだけで弾き飛ばされた。固い鱗に阻まれ肉には届いていないのだ。
その赤い目や鱗の隙間にうまいこと打ち込めばもしかしたら勝機があったのかもしれない。しかしそのような手練れはこの場にはいないようだった。
空一面が矢で埋まり日の光が遮られるほどに放たれた大量の弓矢は、しかしそのすべてがあっけなく弾かれた。折れた矢は豪雨のようにディアナの元に降りそそぐ。
けれどその矢の雨もすぐにやんだ。
数が尽きたのだ。
「お、応援はまだか……っ!!」
先ほど勇ましく号令をかけていた隊長とおぼしき男が怒鳴る声がするが、それに応える返事はなかった。
(……ここまでか)
ディアナは頭を守るようにかざしていた手を下ろし、体から力を抜いた。
幸いなことに降りそそいだ矢はすべて折れていたためディアナに矢じりが突き刺さることはなかった。かばっていた手にかすり傷がついた程度のものだ。
騎士達はもう動かない。剣を抜いている者はいたが、シュランゲとディアナからは数メートルの距離を取ったまま近づいては来なかった。
当然だろう。誰だって自分の命は大事だ。
ディアナは自分の手のひらをじっと見た。
伯爵令嬢にはふさわしくない、切り傷の痕とたこだらけの固い両手を。
今のディアナには戦うための武器も身を守るため盾もない。ついでに魔術師でもないため魔法も使えない。
そしてーー、守ってくれる人もいない。
ディアナの全身を諦めが包む。それはこの三年間、ずっとのしかかっていた無力感だ。
自分が何をしてもしなくても、結局何も変わらない。
カークスを殺して、エリアスに救われて、なにかが変わるような気も少しだけしていた。しかし現実はこれだ。ディアナは結局エリアスと結婚することすらなく、どこに進むこともできずにここで人生を終える。
(……まぁ、ふさわしいか)
うつろな瞳で微笑む。なぜか口角があがった。
人殺しには似つかわしい末路だろう。誰かを害しておいて、平和に死のうなどおごかましい。
人殺しとして処刑されるよりは、家族の名誉が守られる分マシだろう。
ふと、弟のことが頭をよぎった。続いてエリアスとネル。
(ここでわたしが餌になれば、少しは時間が稼げるかしら……?)
ディアナは正面を見上げた。シュランゲの赤い瞳がディアナを見返す。
この三年ですっかり白くなった両手を、彼女は真っ直ぐに魔獣へと伸ばした。
「来なさい」
まるで抱擁でもするかのように、彼女は両腕を広げてみせる。
「わたしが食べられてあげる。だから他の人には手を出さないで」
そう告げる彼女の目は、疲れ果てていた。
シュランゲの口から赤い舌がちろちろとのぞく。ディアナは目を閉じる。
(ああ、もう疲れた……)
もうなにもしたくない。なにも考えたくなかった。恐怖も絶望もほんのわずかな希望も。ーーそれをまた奪われる失望も。結婚してからの日々はディアナには負荷が高すぎた。ずるり、と蛇がうごめく音がする。
(ああ、やっとすべてが終わる)
いっそ開放感すら感じたその時ーー、
「ディアナ……っ!!」
声が聞こえた。




