第9話 ミレイユ、冬の食糧準備
雪が降るようになってから、しばらくの日々が経った。
最初に植えた小麦は、順調に育っていた。
それはある程度は予想できていた。
最初の種は、私が植物魔法をかけたものだからだ。
私の魔力を馴染ませて、この土地の寒さに耐えられるように整えた種。
だから育つ。問題は、その次だった。
(本当に大事なのは、ここからよね)
最初の種からできた、新しい種。
私が直接魔法をかけていない、第二世代の種。
それがちゃんと育つかどうか。
それが成功すれば、この小麦は私がいなくても辺境伯領のあちこちで育てられる。
逆に、第二世代以降が弱くなってしまうなら、私がずっと魔法をかけ続けなければならない。
それでは、領都以外へ広げるのは難しい。
屋敷の外にある畑には、今、その第二世代の種が植えられている。
雪は積もっていた。畝の間にも、畑の端にも、白い雪が残っている。
けれど――。
「いい感じに育ってるわね!」
私は思わず、畑の前で頷いた。
第二世代の種は、もう芽吹いていた。
それどころか、思った以上に葉が伸びている。
普通なら三カ月ほどかけて育つものだけれど、この調子なら一カ月ほどで収穫できるところまで行きそうだ。
「雪もずっと積もっているのに、まさかここまで……」
後ろで、イーヤが感嘆したように呟いた。
茶色の髪を揺らしながら、彼女は畑を覗き込む。
「さすがです、ミレイユ様」
「ううん。ここの土が頑張っているだけよ」
「土が、ですか?」
「ええ。私は少し手助けをしただけ」
土を良くする植物を、この土地に合わせて改良した。
それを先に植えて、土を整えた。
今までなら根を張るのも難しかった土が、少しずつ小麦を受け入れられるようになっている。
「それでも、ミレイユ様がいなければ始まりませんでした」
イーヤが真面目な顔で言う。
その言葉が嬉しくて、けれど少し照れくさい。
「まだ安心はできないわ。第二世代は育っているけど、第三世代、その次と続いた時にどうなるかはわからないもの」
「そこまで考えているんですね」
「もちろん。種は続いていくものだから」
最初の特別な種だけが育っても、意味がない。
この土地に根づき、次の種へ、また次の種へ繋がっていくこと。
それが大切だ。
私は小麦の葉に触れた。
冷たい空気の中でも、葉はしっかりしている。
小さな命が、雪の下で懸命に育っているのがわかる。
(大丈夫。まだ、もっと良くできる)
畑を見終えたあと、私たちは屋敷の中へ戻った。
外に長くいると、指先が冷えてしまう。
イーヤが用意してくれた手袋を外しながら、私はそのままカイン様の執務室へ向かった。
小麦の状態を、早く報告したかったのだ。
執務室の扉を軽く叩く。
「ミレイユです」
「ああ、入って」
中に入ると、カイン様は机に向かって書類を読んでいた。
「畑を見てきました」
「そうか、小麦は?」
「順調です。第二世代の種も、しっかり芽吹いていました」
そう言うと、カイン様の表情がわずかに明るくなる。
「そうか。それは良かった」
「はい。ただ、まだ――」
まだ安心はできない、と続けようとした時だった。
コンコン、と窓を叩く音がした。
私はそちらを見る。窓の外に、黒い鳥がいた。
雪の白の中で、その黒い羽はよく目立つ。
「あれは……?」
「魔鳥だ」
カイン様が立ち上がり、窓を開ける。
冷たい空気が少しだけ入り込み、黒い鳥がぱさりと翼を畳んで室内に入ってきた。
大きさは普通の鳥より少し大きい。
瞳は賢そうで、足には筒状の小さな入れ物が結ばれていた。
「魔鳥……魔獣の一種ですよね?」
「ああ。知能が高く、手紙を運ぶのに適しているんだ」
カイン様が慣れた手つきで筒を外す。
魔鳥は役目を終えたと言わんばかりに首を振り、それからまた窓の方へ飛んだ。
「敷地内に鳥舎があるから、そこへ戻る」
「鳥舎……」
そういえば、屋敷の奥に鳥を世話している場所があると聞いたことがある。
魔鳥もそこにいるのだろう。
窓を閉めると、カイン様は手紙を開いた。
その間に、イーヤが温かいお茶を用意してくれる。
「ミレイユ様、どうぞ」
「ありがとう、イーヤ」
湯気の立つ茶器を受け取り、手の中で温める。
外で冷えた指先が、少しずつ戻ってくるようだった。
私とカイン様は向かい合って座った。
「ちょうどよかったです。領都以外の場所で、小麦がどう育っているかの報告も聞きたかったんです」
私がそう言うと、カイン様は手紙へ視線を落としたまま頷いた。
「ちょうど今届いたのが、その報告のようだ」
「本当ですか?」
「ああ」
心臓が少し早くなる。
屋敷の畑ではうまくいっている。
でも、問題は領内の町や村だ。
同じグレイハルト辺境伯領とはいえ、土も気候も少しずつ違う。
山に近い場所、川沿い、北の寒村。
同じ種を配っても、同じように育つとは限らない。
「私も、読ませてもらってもいいですか?」
「もちろん」
カイン様は手紙を読み終えると、私に渡してくれた。
私はそれを受け取り、一つずつ報告を確認していく。
ほとんどの町や村では、順調に育っているようだった。
芽吹きも早く、雪の下でも枯れず、屋敷の外の畑と同じくらいの速度で育っている。
その文字を読むたび、胸の奥が温かくなる。
(よかった……)
けれど、全部ではなかった。
一部の地域では、育ってはいるけれど、速度が遅い。
土を良くする植物を植えたものの、効果が思ったほど出ていない場所もあるらしい。
「……やっぱり、場所によって違いが出ていますね」
私は手紙を見つめながら言った。
カイン様が頷く。
「ある程度は育っているようだが」
「はい。でも、まだ改良できます」
「まだ?」
「育っていない町や村もあります。速度が遅いだけなら、土が合っていない可能性があります」
私は手紙の該当箇所を指でなぞった。
「この土地に合わせた土を良くする植物にしたつもりでした。でも、辺境伯領全体となると、やっぱり差がありますね」
「それは仕方ないだろう」
「仕方なくはあります。でも、諦める理由にはなりませんから」
自分でも思ったよりも強い言葉が出た。
でも、本心だった。
「本当なら、その土地に行って土を見たいです。現地で土を触って、どこが足りないのかを見れば、もう少し調整できると思います」
ただ、今は冬だ。
雪が積もっている。移動は難しい。
山道や北の村へ行くのは危険もある。
「今年中にそれをやるのは……厳しいですよね」
私は少し肩を落とした。
すると、カイン様が少し考えるように視線を伏せた。
そして、静かに言う。
「土を見たいだけなら、魔鳥に運ばせればいい」
「……え?」
「鉢植え程度の土なら、魔鳥でも問題なく運べる。村ごとに少量ずつ送らせれば、君がここで確認できるだろう」
私は思わず顔を上げた。
「……その手がありました!」
胸の中がぱっと明るくなる。
そうだ、私が行けなくても、土を持ってきてもらえばいい。
畑全体を見られないのは惜しいけれど、土の状態を確認するには十分だ。
「鉢植えくらいの量があれば、だいたいわかります。そこから土を良くする植物を調整して、その地域用に種を返せば……!」
「できそうか?」
「はい! できます!」
嬉しくて、思わず身を乗り出してしまった。
「さすがです、カイン様!」
そう言うと、カイン様は少しだけ目を瞬いた。
それから、穏やかに笑う。
「役に立てたならよかった」
「とても助かります。私、一人で考えていたら移動することばかり考えてしまって……」
「君は現場に行きたがるからな」
「そ、それは……見たほうが早いので」
「知っている。だが、雪の中を無理に行かせるつもりはない」
その声が優しくて、少し照れてしまう。
カイン様は本当に、私が無理をしそうになるとすぐ止めてくれる。
「ありがとうございます」
「ああ。むしろ礼を言うのはこちらだ」
「カイン様が?」
「冬に小麦を育て、収穫できるようになるなんて……夢のようだ」
その言葉に、胸がきゅっとなった。
カイン様の声には、領主としての重みがあった。
この土地で生まれ、この土地を守り、冬の厳しさを知っている人の声。
「私は……イーヤが言ってくれたおかげです」
「私、ですか?」
部屋の隅に控えていたイーヤが、驚いたように目を丸くする。
「ええ。寒い地域でも育って、主食になるものが欲しいって言ってくれたでしょう? あれがなかったら、こんな成果は出ていないもの」
「とんでもないです!」
イーヤは慌てたように首を振った。
「私は何もしていません。ただ、昔のことを少し話しただけで……」
「その昔のことが大事だったのよ」
「ミレイユ様……」
イーヤの目に、じわりと涙が浮かぶ。
彼女はそれを隠すように、少し俯いた。
「本当に……本当に、感謝しております。これで、寒冷地にいる人たちが救われます。冬に、お腹を空かせる子どもが減るかもしれません」
その声は震えていた。
私は胸が詰まりそうになって、慌てて首を振る。
「大袈裟よ。まだ成功したわけじゃないわ」
「大袈裟ではない」
カイン様が静かに言った。
私は思わず彼を見ると、彼はまっすぐに私を見ていた。
「君は本当に、救世主のようだ」
「きゅ、救世主……!?」
あまりに大きな言葉に、顔が一気に熱くなる。
「そんな、私はただ植物を育てているだけで……」
「その植物が、人を救う」
カイン様の言葉は、淡々としているのに重い。
「飢えを減らし、冬を越えさせ、領民を安心させる。十分すぎるほどのことだ」
「……っ」
そこまで言われると、どう返していいかわからない。
照れくさくて、くすぐったくて。
でも、それ以上に嬉しかった。
実家では、私の植物魔法は商品を作るためのものだった。
私自身が褒められることはなく、ただ結果だけを求められていた。
でもここでは違う。
私が育てたものを、誰かが喜んでくれる。
役に立ったと、まっすぐ言ってくれる。
(……嬉しい)
私は茶器を両手で包みながら、そっと笑った。
「では……もっと頑張ります」
「無理はしない範囲でな」
カイン様がすぐに言う。
その言い方があまりにも早くて、私は思わず笑ってしまった。
「はい。無理はしません」
「本当か?」
「本当です」
イーヤが横で小さく咳払いをする。
「私も見張っておりますので、ご安心ください」
「イーヤまで……」
「ミレイユ様は、植物のことになると休むのを忘れますから」
「……それは、少しだけです」
「少しだけ、ではありません」
イーヤが真面目な顔で言うので、カイン様が小さく笑った。
その穏やかな空気が、暖炉の火みたいに温かい。
「では今夜は、早めにお休みいただきますね」
「イーヤ……」
「約束ですよ、ミレイユ様」
「わかったわ」
そう答えると、カイン様が満足そうに頷く。
なんだか二人に見守られているみたいで、少し恥ずかしい。
でも嫌ではなかった。むしろ、胸の奥が温かい。
(小麦、きっと成功させる)
冬の村で、温かいパンが焼けるように。
子どもたちが、お腹いっぱい食べられるように。
そして、この土地が少しずつ豊かになっていくように。




