第10話 余った小麦の使い道
本格的に冬に入ってから、雪は毎日のように降り積もるようになった。
私がグレイハルト辺境伯領に来てから、もう三カ月近くが経とうとしている。
最初の頃に比べれば屋敷での生活にも、少しは慣れたと思っていた。
けれど――。
「……寒い」
朝、目が覚めて最初に出た言葉がそれだった。
布団の中はまだ温かい。
けれど、そこから少しでも肩を出すと、冷たい空気が肌に触れる。
窓の外は白い。
屋根も庭も、遠くに見える城壁の上も、すべて雪を被っている。
綺麗だとは思う。
思うけれど、寒いものは寒い。
実家のあったルーヴェル伯爵領も冬はあったけれど、ここまでではなかった。
ここでは、朝起きるだけで少し気合いがいる。
土も冷たい。
畑に出て指先で触れると、凍えてしまいそうになる。
でも、触りたい。
土の状態は、触ってみないとわからないことが多いのだ。
植物好きとしては、なかなか悩ましい問題だった。
少し前、カイン様の提案で、魔鳥に各地の土を運んできてもらった。
町や村ごとに少しずつ届いた土を観察して、それぞれに合うように、土を良くする植物を改良した。
そして、その種をまた魔鳥に運んでもらった。
あれからしばらくして、各地から報告が届き始めている。
小麦の成長速度が速くなった。雪の中でも枯れずに育っている。
収穫量が、昨年とは比べものにならない。
ほとんどの町や村で、冬を越えるための主食が手に入ったらしい。
その報告を聞いた時は、本当にほっとした。
もちろん、まだ足りない場所もある。
でも領都では、すでに余りあるほど小麦が取れていた。
足りない村へ送る分を差し引いても、まだ余る。
そう……今、私たちが抱えている問題は――小麦が余っていることだった。
そんなわけで、今日の昼過ぎ。
私はカイン様と一緒に、屋敷の小さな談話室で休憩をしていた。
暖炉には火が入っていて、部屋の中は温かい。
窓の外では雪が降っている。
その白さを眺めながら、私は焼きたてのパンを手に取った。
これは、私とイーヤが一緒に作ったものだ。
もちろん小麦は、私が魔法をかけた種から育ったもの。
焼き上がったパンは、ふっくらと膨らんでいて、香りもとてもいい。
手で割ると、湯気がふわりと立ち上る。
「……美味しい」
一口食べて、思わず声が出た。
柔らかい。
小麦の甘みがちゃんとあって、噛むほどに香りが広がる。
自分で育てた小麦だから、余計にそう思うのかもしれない。
でも、本当に美味しい。
カイン様もパンを口に運び、少し目を細めた。
「これは美味いな」
「よかったです」
「店に出しても、十分売れると思う」
「そうでしょうか?」
「ああ。少なくとも俺は、毎日でも食べたい」
その言葉に、胸がふわっと温かくなる。
カイン様は、私が育てたものをよく褒めてくれる。
最初はそのたびにどう反応していいかわからなかったけれど、最近は少しだけ慣れてきた。
まだ照れるけれど。
イーヤも近くで控えながら、嬉しそうに頷いていた。
「ミレイユ様と一緒に作りましたが、生地の手触りがとてもよかったです。こんな小麦、初めてでした」
「イーヤが捏ねるのを手伝ってくれたおかげよ」
「いえ、私は本当に少しだけです」
イーヤは慌てて首を振る。
その様子に、カイン様が小さく笑った。
穏やかな時間だった。
けれど、話題はすぐに小麦のことへ戻る。
「領都の倉の状況は?」
カイン様が茶器を置いて尋ねた。
私はパンを皿に戻して、昨日確認した数字を思い出す。
「冬を越す分は十分にあります。足りない村へ送る分も確保できています。それでも、まだ余ります」
「予想以上だったな」
「はい……」
私は少し肩を落とした。
「楽しくなって、いっぱい作りすぎちゃって……すみません」
「謝ることではない」
カイン様はすぐに言った。
「君のおかげで、冬支度のために使う予定だった資金も多く残っている。その資金を使っても、毎年お腹を空かせる者はいた。だが今年は違う」
「でも、余らせすぎると保存も大変ですし」
「保存の問題はある。だが、作ってくれたことには感謝しかない」
その言葉が胸に染みる。
イーヤもそっと口を開いた。
「本当に、その通りです。冬に食べ物があるというだけで、どれほど安心できるか……ミレイユ様は、まだご存じないかもしれません」
「イーヤ……」
「今年は、子どもたちが泣かずに済む家が増えます。それだけで、十分すぎるほどすごいことです」
そこまで言われると、またどう返していいかわからなくなる。
嬉しいけれど、少しだけ申し訳ない。
私はただ、育てたかっただけなのだ。
この土地でも小麦が育つか試したくて。
寒さに強い種を作りたくて。
それが誰かの役に立っているなら、とても嬉しいけれど。
「……ありがとうございます」
私は小さく言った。
カイン様は優しく頷く。
「ただ、問題は余った分だな」
「はい」
冬を越す分はある。
足りない村へ送る分もある。
それでもまだ余る。
「他領へ売るのは難しいでしょうか」
「冬前ならまだよかったかもしれない。だが今は、どこの領も冬支度を終えている。小麦が足りない場所がないとは言わないが、今から運ぶとなると道も悪い」
「雪ですものね」
「ああ。護衛も必要になる。小麦だけでは、利益が出ない可能性が高い」
「そうですよね……」
私はパンを見つめた。
パンにすれば美味しい。
でも、毎日パンだけを食べ続けるわけにもいかない。
「何か、パン以外に加工できればいいんですけど」
私は指先で皿の縁をなぞりながら考える。
小麦粉にして菓子。
麺。
保存食。
それもいい。
でも、もっと領地の特産になるようなもの。
保存できて、価値があって、余った小麦を使えるもの。
「うーん……何かあるかしら」
すると、カイン様が少し考えるように視線を落とした。
そして、静かに言う。
「酒はどうだろうか」
「お酒、ですか?」
「ああ。麦から作る酒があると聞いたことがある」
私は目を瞬いた。
お酒、その発想はなかった。
薬草酒のようなものは知っている。
果実酒も知っている。
でも、小麦でお酒。
「麦から、お酒が作れるのですか?」
「専門ではないから詳しくはない。だが、作れるはずだ」
カイン様は少しだけ苦笑した。
「以前は、寝る前に酒を飲むこともあった」
「寝酒ですか?」
「ああ。眠れなかったからな」
その言葉に、少し胸が痛んだ。
今はハーブティーを飲んで眠ってくれている。
でも、以前はお酒に頼るほど眠れなかったのだ。
「最近は飲んでいませんよね」
「ああ。君のハーブティーのほうがずっといい。翌朝も頭が重くならない」
「それならよかったです」
「だからこそ、酒という案を思い出したのかもしれない」
カイン様はそう言って、少し肩をすくめた。
小麦をお酒にする。
どれほど美味しくなるかはわからない。
そもそも、私にお酒造りの知識はほとんどない。
でも、植物を使うなら気になる。
……面白そう。
「試してみる価値はあると思います」
私は思わず身を乗り出した。
カイン様が少しだけ目を細める。
「興味が出た顔だな」
「はい。とても」
「正直だな」
「小麦がお酒になるなら、見てみたいです。どうやって作るのかも知りたいですし、どんな香りになるのかも気になります」
言っているうちに、どんどん気になってくる。
もし美味しく作れたら、辺境伯領の新しい特産品になるかもしれない。
「酒造りに詳しい者を呼ぼう」
カイン様が言った。
「領内にも酒を作る者はいる。専門の職人も探せばいるだろう」
「私も参加していいですか?」
即答だった。
カイン様は、予想していたように笑った。
「言うと思った」
「だって、見たいです」
「ああ。もちろん構わない。ただし、無理はしないこと」
「はい」
「徹夜もしないこと」
「……はい」
「今、少し間があったな」
「気のせいです」
私とカイン様は笑い合った。
「では、明日から準備しよう」
「はい!」
私は思わず笑顔で頷いた。
余った小麦。
それが、新しいものを作るきっかけになるかもしれない。
そう思うと、胸が弾む。
(小麦のお酒……どんなものになるのかしら)
寒い冬の朝はまだ苦手だけれど、楽しみがあると少しだけ待ち遠しくなる。
この土地で過ごす冬は、きっとこれからもっと面白くなる。
私はそう思いながら、もう一口、焼きたてのパンを食べた。




