第8話 ミレイユ、雪を初めて経験する
――小麦を作ると決めてから一カ月後の、昼食の席だった。
カイン様と向かい合って、温かいスープと焼きたてのパンを食べていたのだけれど、ふと窓の外に白いものがちらついているのが見えたのだ。
最初は、花びらか何かかと思った。
でも風に舞うそれは花びらよりもずっと軽く見えて、ふわふわしている。
「何か……降っています?」
私が首を傾げると、カイン様も窓の外へ視線を向けた。
そして、少しだけ口元を緩める。
「雪が降ってきたようだね」
「っ……これが、雪……!」
思わず椅子から身を乗り出してしまった。
雪。言葉としては知っている。
物語にも出てきたし、寒い土地では冬になると白く積もると聞いたこともある。
けれど私が育ったルーヴェル伯爵領では、雪が降ることはほとんどなかった。
だから、こうして目の前で見るのは初めてだ。
「本当に、白いんですね」
「……雪だからな」
カイン様が少しおかしそうに言う。
「そ、それはそうなのですが……!」
雪は白い、それは知っている。
でも、知っているのと見るのは違う。
窓の向こうで、白い粒がひらひらと落ちていく。
空から、こんなに静かに白いものが降ってくるなんて。
(綺麗……)
胸の奥が、ふわりと浮くようだった。
昼食を食べ終えると、私はどうしても外へ出てみたくなった。
カイン様にそう伝えると、すぐに頷いてくれた。
「もちろん。だが寒いから、無理はしないように」
「わかっています」
一緒に外へ出た瞬間、頬を刺すような冷たい空気に、私は思わず息を呑んだ。
「……っ」
寒い。秋の肌寒さとは、全然違う。
それでも、目の前に広がる景色から目が離せなかった。
屋敷の庭の草の上に、白い雪が薄く積もっている。
石畳の端にも、葉の上にも。
全部が、少しだけ白くなっていた。
私はしゃがみ込み、指先でそっと雪に触れた。
「冷たい……!」
思ったよりずっと冷たくて、指先がきゅっと縮こまる。
でも、すぐに溶けて水になった。
掌の上で消えるのが不思議で、私は何度も見つめてしまう。
「本当に、溶けるんですね」
「雪だからな」
カイン様がまた同じような声で言う。
「わかっています。でも、不思議で」
「初めてなら、そう感じるかもしれない」
彼はそう言って、私の隣に立っていた。
カイン様は雪に慣れているのだろう。
ただ、私が雪を見てはしゃいでいるのを見て、どこか柔らかい顔をしている。
その視線に気づいて、少しだけ恥ずかしくなった。
「すみません。子どもみたいに……」
「いや。見ていて楽しい」
「た、楽しいですか?」
「ああ。君が嬉しそうだから」
その言葉に、今度は寒さとは別の理由で頬が熱くなった。
けれど、次の瞬間。
「くしゅっ」
小さなくしゃみが出た。
思わず肩が震える。
やはり、もう冬なのだ。
ただ綺麗だと見ているだけでは済まないくらい、外は冷えている。
「大丈夫か?」
カイン様がすぐに近づいてくる。
「はい、大丈夫です。少し冷えただけで――」
言い終える前に、ふわりと肩に重みがかかった。
カイン様が自分の外套を私にかけてくれたのだ。
「カイン様?」
「着るといい」
「ありがとうございます。でも、カイン様は……」
「俺は慣れているから問題ない」
そう言って、カイン様は穏やかに笑った。
その笑顔が、寒い空気の中でとても温かく見えた。
外套には、彼の体温が残っていた。
それからいつも近くにいる時に感じる、落ち着いた香り。
草や土とは違う、けれど安心する匂い。
胸が高鳴る。
外套をかけてもらっただけなのに。
こんなことで意識してしまうなんて。
私は顔を隠すように、外套の襟元を少し寄せた。
「……ありがとうございます」
「ああ」
カイン様は、私の様子に気づいたのかどうか。
何も言わずに、ただ雪の降る庭を見ていた。
しばらく雪を眺めたあと、私はふと思い出した。
「畑の様子を見てもいいですか?」
「畑?」
「はい。屋敷の外にある方の畑です。小麦が心配で」
裏庭の小さな畑ではない。
屋敷の外にある、もともと荒れ地だった場所。
今では畝が作られ、すっかり畑らしくなっている。
そこでは、あれから改良した小麦を育てていた。
この小麦の種は、すでに領都以外の町や村にも少しずつ配っている。
もちろん、全領地に十分な量というわけではない。
でも最初の試験栽培として、いくつかの寒い村にも送った。
しっかり植えて育てていれば、屋敷の畑と同じくらいに芽が出ているはずだ。
「わかった。行こう」
カイン様はすぐに頷いた。
護衛を一人だけつけて、私たちは屋敷の外の畑へ向かった。
雪はまだ強くない。
空から静かに落ちる程度だ。
でも、畑の土の上にはうっすらと白いものが乗り始めていた。
「……大丈夫そうね」
私は畑の端にしゃがみ込み、小麦の芽を見た。
細く伸びた葉の上にも、雪が少し積もっている。
けれど葉は倒れていない。色も悪くない。
触れると冷たいけれど、根元にはしっかり力があるように感じる。
(今のところ、問題はなさそう)
もちろんこれが長時間続いたり、本格的な冬になって雪が積もり続けたりすれば話は変わる。
今はまだ雪が降り始めたばかり。
ここからが本当の実験だ。
私が改良した小麦は、雪が降る寒冷地でも育つように考えた。
寒さに強い根。
短い日照でも育つ葉。
雪の下でも腐りにくい茎。
でも実際に冬を越せるかは、育ててみないとわからない。
「今日は魔法を使うのか?」
カイン様が尋ねる。
いつもなら、私は種や植物に魔法をかける。
健やかに育つように。病に負けないように。実りが豊かになるように。
そう願いを込めて、『健やかなれ』と唱える。
だから、カイン様はそれを聞いたのだろう。
でも私は、首を横に振った。
「今日は使いません」
「使わない?」
「はい。この畑は、雪が降る時期でもちゃんと育つかどうかの実験ですから」
私は小麦の葉に積もった雪を、そっと払う。
「私が魔法を使えば、きっと育ちます。でもそれだと実験になりません」
「……なるほど」
「私がいなくても育つかどうかが大事なんです。領都だけなら、私が見て回ることもできます。でも、辺境伯領の町や村すべてとなると難しいですから」
カイン様は、少しだけ目を細めた。
感心したような、嬉しそうな表情だった。
「しっかり考えているのだな」
「はい、成功するかはこれからなので」
「それでも素晴らしいな」
そう言われると、胸が少しだけ温かくなる。
カイン様に認めてもらえるのは、やっぱり嬉しい。
けれど彼は、少し残念そうに畑を見た。
「だが、少し残念だな」
「残念、ですか?」
「ああ。君の魔法は見ていて美しいから、見たかった」
「……っ」
不意打ちだった。
確かに植物魔法を使うと、種や葉が淡く光る。
土に魔力が馴染む時も、緑や金の光がふわりと浮かぶことがある。
それを美しいと言われたのだと、わかっている。
わかっているのに、まるで私自身を綺麗だと言われたみたいに、胸が跳ねた。
恐る恐るカイン様を見ると、彼は穏やかな笑みを浮かべて、私を見ていた。
(……やっぱり、勘違いしそうになる)
私は視線を逸らし、咳払いをした。
「そ、それなら……この後、領都の畑を回る予定なので、その時にお見せできると思います」
「領都の畑?」
「はい。雪が降り始めたので、他の畑も見ておきたくて」
「なら、俺も一緒に行っていいか?」
「もちろんです。カイン様がお忙しくないのであれば」
「今日は急ぎの執務はない。君の仕事を見たい」
そう言われて、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「では、一緒にお願いします」
「ああ」
そのまま私たちは馬車に乗り、領都の畑をいくつか回ることになった。
領都には、今では畑が増えている。
領民の方々が自分たちで畑を作り、私の持ってきた種や改良した種を植えてくれている。
もちろん、一番詳しいのは私だ。
だから時々、こうして見て回ることにしていた。
馬車が最初の畑に着くと、すでに何人かの農家の方々が外に出ていた。
「奥様!」
「ミレイユ様、雪が降ってきましたね」
「畑を見に来てくださったんですか?」
馴染みのある顔がいくつもある。
私は馬車から降りて、笑顔で頷いた。
「はい。少し様子を見に来ました」
けれど、その後ろからカイン様が降りると、農家の方々が一気に背筋を伸ばした。
「へ、辺境伯様……!」
「ご、ご足労いただきありがとうございます……!」
慌てて頭を下げる姿に、カイン様は軽く手を上げた。
「大丈夫だ。今日は妻の付き添いで来ただけだから」
そう言って、自然な動作で私の腰に手を回した。
「……っ」
思わず身体が跳ねそうになる。
外套越しでも、手の温度がわかる。
領民の方々の前だ、落ち着かないと。
そう思っているのに、心臓は素直に言うことを聞いてくれない。
農家の方々は、私たちを見てぱっと顔を和ませた。
「仲睦まじくて何よりですなあ」
「辺境伯領は安泰ですね」
「奥様が来てくださってから、領都も明るくなりましたし」
そんなふうに言われて、ますます頬が熱くなる。
(これは……領民を安心させるためよね)
領主夫妻が仲良くしている姿は、領民にとって安心材料になる。
だからこうして自然に振る舞っているのだろう。
けれど、腰に添えられた手が優しくて、どうしても胸が落ち着かない。
「ミレイユ」
「は、はい」
「畑を見るのだろう?」
「あ……はい」
私は慌てて畑へ向かった。
少し離れた場所にしゃがみ込み、葉の状態を確かめる。
ここは実験畑ではない。
すでに領民の方々の食卓に乗る野菜や薬草を育てている畑だ。
だから、ここでは魔法を使ってもいい。
私は手を土の上にかざし、静かに息を吸った。
「――『健やかなれ』」
魔力が、指先から土へ流れていく。
土の中で根が反応する。
葉が微かに震え、茎がまっすぐ伸びる。
畑全体に、淡い緑の光が息をするように広がった。
「おお……」
「何度見ても、綺麗だねえ」
「本当に、植物が喜んでいるみたいだ」
農家の方々が感嘆の声を上げる。
その声を聞くと、私も嬉しくなる。
私はほっと息を吐いて立ち上がる。
その時、カイン様の声がした。
「本当に綺麗だな」
「はい。植物たちも元気そうで――」
言いかけて、気づいた。
カイン様は、畑ではなく私を見ていた。
「……っ」
また、胸が跳ねる。
彼は何も言わない。
ただ、穏やかに私を見ている。
その目が優しすぎて、私は耐えられなくなった。
「つ、次に行きますよ、カイン様」
照れ隠しのようにそう言うと、カイン様は少しだけ笑った。
「ああ」
そして、エスコートするように手を差し出す。
私は少し迷ってから、その手を取った。
大きくて、温かい手。
雪はまだ、静かに降っている。
でも、不思議と寒さはさっきほど感じなかった。
馬車へ戻る途中、農家の方々がまた笑顔で頭を下げてくれた。
「奥様、ありがとうございます!」
「小麦も、きっと上手く育ちますよ!」
「辺境伯様、奥様を大切になさってくださいね!」
「もちろんだ」
カイン様が当然のように答える。
その声があまりにも自然だったから、私はまた顔を赤くしてしまった。
(もう……)
困る……でも、嬉しい。
私はカイン様の手を握り返しながら、雪の降る領都を見た。
(この土地で、もっとたくさんのものを育てたい)
カイン様と一緒に。
この領地の人たちと一緒に。
雪の中、馬車は次の畑へ向かってゆっくり進み出した。
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