第7話 ミレイユは小麦を作る
「うーん……」
私は、屋敷の裏庭に作ってもらった小さな畑の前で、腕を組んでいた。
目の前には、少し前まで痩せていた土がある。
けれど今は、だいぶ様子が変わっていた。
指先で掬うと、前よりも柔らかい。色も少し濃くなっている。
乾ききっていたはずの土が、ほんのり水を含み、植物の根を受け入れる準備をしているように見えた。
(ここまでは、うまくいったのよね)
土を良くする植物。これは、思ったより簡単にできた。
もともと実家の温室でも、似たようなものは作っていたからだ。
もちろん、ルーヴェル伯爵家の温室と、グレイハルト辺境伯領の土では条件がまったく違う。
向こうは管理された温室。
こちらは痩せた土地で、風も強く、気温も安定しない。
でも、植物はちゃんと教えてくれる。
この土には何が足りないのか。
そういうことを一つずつ見ながら、魔力を馴染ませていけば、植物は応えてくれる。
この植物を育てて、種を増やす。
それを領都の畑に植えれば、今後は私が特別に改良した野菜や薬草でなくても、ある程度は育つようになるはずだ。
(領都全体には、なんとか配れる。でも……)
さすがに、辺境伯領すべての町や村に、私が改良した種をすぐに配るのは難しい。
種の数も限られているし、土地ごとに気候も違う。
でも、土を良くする植物なら。
まず土の状態を整えるところから始めれば、最低限、自分たちが食べられるくらいの作物は確保できるかもしれない。
そう思ってカイン様に話した時のことを、私は思い出す。
『これを増やして各地に配れば、私が毎回魔法をかけなくても、畑が少しずつ良くなっていくと思います』
そう言った瞬間、カイン様の表情が変わった。
普段は落ち着いていて、あまり大きく感情を出さない方なのに。
その時だけは、はっきりと目を見開いて。
『ありがとう、ミレイユ!』
そう言って、感極まったように私を抱きしめた。
(……っ)
思い出しただけで、顔が熱くなる。
あの時、私は本当に固まってしまった。
カイン様の腕は大きくて、温かくて、力強かった。
私は驚きすぎて、息をするのも忘れていた気がする。
カイン様もすぐに気づいたのだろう。
はっとしたように私から離れて、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
『すまない。急に……』
『い、いえ……大丈夫です』
そう答えるので精一杯だった。
大丈夫……ではないくらい胸が鳴っていた。
(……だめ、また思い出してる)
「ミレイユ様?」
背後から声をかけられて、私ははっとした。
振り返ると、侍女のイーヤが不思議そうにこちらを見ていた。
イーヤは、私がこの屋敷に来てから一番よく世話をしてくれている侍女だ。
年は私と近い。
明るい茶色の髪を後ろで一つにまとめていて、瞳も柔らかな茶色。
よく動く表情が印象的で、話しているとこちらまで気持ちが明るくなる。
最初は丁寧で少し距離があったけれど、最近はずいぶん話しやすくなった。
「顔が赤いですが、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫よ」
慌てて答えると、イーヤは少しだけ目を細めた。
「本当ですか?」
「本当よ」
「そうですか。ならいいのですが、最近は寒くなってきたので体調にはお気をつけください」
そう言いながらも、どこか微笑ましそうな顔をしている。
(もしかして、何を思い出していたか気づかれてる……?)
いや、まさか。
私は咳払いをして、目の前の土へ視線を戻した。
「それより、次を考えていたの」
「次、ですか?」
「うん。土を良くする植物は作れたでしょう? だから次はどうしようかなって」
イーヤは、すでに私が植物を改良して作ることに慣れているらしい。
最初は、種が一晩で芽吹いただけで目を丸くしていた。
でも今では、私が畑の前で悩んでいても、驚くより先に「次は何を作るんですか?」と聞いてくる。
その変化が、なんだか嬉しい。
「ミレイユ様は、本当にすごいですね。土を良くする植物だけでも、領民の方々はとても助かると思います」
「そうだといいんだけど……でも、まだ足りない気がして」
「足りない、ですか?」
「うん。土が良くなれば作物は育ちやすくなる。でも、何を育てるかも大事でしょう?」
私がそう言うと、イーヤは少し考えるように顎に手を添えた。
その様子を見て、私はふと思いつく。
「ねえ、イーヤ」
「はい」
「イーヤは、作ってほしいものとか、こういう植物があればいいなって思うものはある?」
「えっ、私ですか?」
イーヤは驚いたように瞬きをする。
「うん。私一人で考えていると、どうしても野菜とか薬草とか、そういう方向に寄ってしまうから。実際にこの領地で暮らしてきたイーヤの意見が聞きたいの」
「私の意見なんて……」
「聞きたいの」
そう言うと、イーヤは少し照れたように頬をかいた。
「そうですね……できるのかわかりませんが」
「うん」
「寒い地域でも育って、主食として食べられるものがあれば……とても助かると思います」
「寒い地域でも育って、主食になるもの……?」
私は繰り返した。
イーヤは頷く。
「辺境伯領は、冬になると雪も降ります。とくに北の方の町や村は寒くて……秋まではなんとか食べ物があっても、冬になると一気に厳しくなります」
その声は、いつもより少しだけ静かだった。
「イーヤは、北の方の町で暮らしていたの?」
「はい。小さい頃ですけど」
イーヤは畑の向こうへ視線を向ける。
「冬は、食べられるものが少なくて。干した野菜や硬い保存食を少しずつ食べていました。お腹が空いても、我慢するしかなくて」
「……そうだったのね」
「今は屋敷で働かせていただいているので、食事に困ることはありません。でも、あの頃のことは覚えています」
イーヤは少し笑った。
でも、その笑顔は少し寂しい。
胸の奥が、きゅっとなった。
私は、この領地の冬をまだ知らない。
今はまだ秋で、少し肌寒いくらいだ。
風は冷たくなってきたけれど、畑に立っていられないほどではない。
でも、これから冬が来る。
雪が降り、土が凍り、食べ物が少なくなる。
(冬に食べられる、主食になるもの……)
野菜は育つ。
根菜もいい。
でも、主食にはなりづらい。
毎日食べて、お腹を満たせて、保存もできて、加工もしやすいもの。
そう考えると。
「……うん」
頭の中に、ひとつ形が浮かんだ。
「小麦がいいわね」
「小麦、ですか?」
イーヤが目を丸くする。
「うん。寒さに強い小麦を作るの。秋冬でも育つようにして収穫できるようにできれば……加工は必要だけど、パンになるでしょう?」
「パン……」
イーヤの瞳が、ぱっと明るくなった。
「それができるなら、とても嬉しいです」
「小麦なら粉にできるし、保存もできる。パンだけじゃなくて、粥にもできるし、焼き菓子にも使えるわ」
考えれば考えるほど、胸が高鳴ってくる。
寒さに強い根。
雪の下でも枯れにくい葉。
短い日照でも育つ穂。
辺境伯領の冬に合わせた小麦。
(できる。たぶん、できるわ)
私はイーヤの方へ向き直った。
「ありがとう、イーヤ!」
「えっ?」
「そういう方向で考えたことがなかったから、新鮮だわ。すごくいい案だと思う」
「い、いえ、そんな……すみません。無茶が過ぎましたよね」
「ううん、全然!」
私は思わず、身を乗り出す。
「むしろ、とても大事なことよ。領都だけじゃなくて、寒い村でも食べられるものが必要なのよね。私、まだちゃんとそこまで考えられていなかった」
「ミレイユ様……」
「イーヤのおかげで、新しいものが作れそう。それが人の役に立つなら、もっと嬉しいわ」
そう言うと、イーヤは少しだけ目を潤ませたように見えた。
でもすぐに、力強く頷く。
「ありがとうございます、ミレイユ様。私も微力ながらお手伝いします」
「本当に?」
「もちろんです。私が手伝えることなら、なんでもします!」
その意気込みが可愛らしくて、私は少し笑ってしまった。
「じゃあ、一緒に頑張りましょう」
「はい!」
イーヤは袖をまくる。
侍女の仕事中なのに、そんなにやる気になって大丈夫なのかと思ったけれど、彼女の目は真剣だった。
私は土の前にしゃがみ込む。
頭の中で植物の姿が組み上がっていく。
実家にいた頃、こうやって自由に考えることは許されなかった。
でも今は、誰かが冬にお腹を空かせないための小麦を考えている。
それが、たまらなく嬉しかった。
「ミレイユ様、なんだか楽しそうです」
「ふふっ。ええ、楽しいわ」
私は素直に答えた。
私は、彼女の方を見て言った。
「イーヤ」
「はい」
「最初のパンが焼けたら、一緒に食べましょう」
イーヤは一瞬、目を丸くした。
それから、ぱっと笑う。
「はい。絶対です」
「約束ね」
「はい、約束です」
その約束が、私の胸の中に小さな火を灯した。
そして、いつか辺境伯領の北の町で、子どもたちが温かいパンを食べられるようにする。
(うん。次は、これだわ)
私は土を見つめ、そっと微笑んだ。
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