第6話 カインから見たミレイユ
ミレイユがグレイハルト辺境伯領へ来てから、一カ月ほどが経った。
最初、俺は彼女にそこまで期待していなかった。
ルーヴェル伯爵家から嫁いでくる令嬢で、植物魔法を使う。
雑草令嬢などと、あまり良い意味ではない呼び名があるらしい。
事前に聞いていたのは、それくらいだった。
初めて会った時の彼女は、淡いはちみつ色の髪を緩くまとめた、少し線の細い女性だった。
顔立ちは柔らかく、派手ではない。だが、よく見ると整っている。
礼もきちんとしていたし、話し方も穏やかだった。
普通の令嬢だと思った。
だが、いきなり……。
『畑などで、植物を育ててもよろしいでしょうか』
そんなことを聞かれるとは思っていなかった。
思い出すと、今でも少し笑ってしまう。
嫁いできたばかりの令嬢が、夫となる男に最初に願うことが畑。
宝石でも、ドレスでも、部屋の調度でもなく、畑。
あの時の俺は、ずいぶん間の抜けた顔をしていたのではないだろうか。
だが、彼女は真剣だった。
本当に畑を使いたかったのだ。
――俺には、過去に婚約者がいた。
学生の頃に決まった婚約だった。
相手は王都の名家の令嬢で、美しく、社交も得意で、周囲からも釣り合いが取れていると言われていた。
俺も、それでいいと思っていた。
辺境伯家の当主にいずれなる身だ。
恋愛よりも、家のため、領地のため。
そういう婚姻になるのは当然だ。
だが彼女は、実際にこの土地へ来てから態度を変えた。
『こんな荒れた地で、一生生きていくなんて耐えられないわ』
その言葉は、今でも覚えている。
彼女の目には、恐れと嫌悪があった。
彼女は俺ではなく、この土地を見て逃げた。
婚約は破棄された。
その後も、辺境伯家という地位を見て近づいてくる女性はいなかったわけではない。
けれど皆、実際に辺境を知ると離れていった。
王都で聞く「辺境伯夫人」という響きと、ここで生きる現実は違う。
だから今回も、そうなるかもしれないと思っていた。
婚約者という形にはなった。
だがミレイユがこの地を見て、やはり無理だと言う可能性はあった。
別に、責めるつもりはなかった。
この土地は厳しい。
魔物は出る。食料は足りない。贅沢もできない。
辺境伯家の当主がいつまでも独り身だと領民が心配するから、せめて形だけでも妻がいればいい。
逃げなければいい。騒ぎを起こさなければいい。
それ以上は、求めるべきではないと。
だがミレイユは逃げなかった。
それどころか楽しんでいた、この荒れ地を。
いや、今となっては荒れ地と呼ぶのも違うかもしれない。
彼女はこの一カ月で、領都の土を変え始めた。
屋敷の裏庭に植えた種は、一晩で芽吹き、翌日には食べられるほどになった。
最初は植物魔法とはそういうものなのかと思った。
だが調べさせると、違った。
普通の植物魔法に、そこまでの力はない。
多少成長を早める。病に強くする。収穫量を安定させる。
それくらいなら例はある。
だが、痩せた土に植えた種を一晩で食べ頃にし、しかも味も栄養も高い状態にするなど、聞いたことがない。
ミレイユの魔法は特別だ。
おそらく、彼女は植物そのものをよく見ている。
何が足りないか。何を与えればいいか。どうすればその植物が最も良い形で育つか。
彼女は感覚でそれを掴み、魔法で整えている。
ただ魔力を注いでいるのではない。
植物にとって最適な状態へ導いている。
だから、彼女が育てるものはほぼ全てよく育つ。
そして美味い。これがまた、本当に美味い。
今では屋敷の食事にも、領都の食卓にも、少しずつ彼女の野菜が並ぶようになった。
さらに彼女は、薬草にも手を伸ばしている。
怪我に効くもの。疲労を和らげるもの。毒を弱めるもの。
今は、そういう薬草を育て、試しているらしい。
つい先日、領都近くに魔物が現れた。
大きな被害にはならなかったが、兵士が何人か怪我をした。
そのうち一人は魔物の爪に毒があったのか、傷口が腫れて通常の傷薬ではなかなか塞がらなかった。
そこへミレイユが、自分で作った薬を持ってきた。
『まだ試作段階ですが、毒を和らげる薬草を使っています。もしよければ』
試作段階と聞いて少し不安になったが、結果は驚くほどだった。
腫れは引き、熱も下がり、翌日には兵士が歩けるようになっていた。
他領から高値で仕入れる傷薬より、はるかに効く。
正直、今まで使っていた傷薬が不良品に思えるほどだった。
ミレイユが来てくれたことは、グレイハルト辺境伯領にとって幸運だった。
それは間違いない。
この一カ月で、彼女がもたらした恩恵はすでに大きすぎる。
だから、礼をしたい。
必要なものがあれば用意すると伝えた。
部屋の調度でも、衣装でも、宝石でも、何でもいいと。
しかし、彼女はいつも困ったように笑う。
『自由に植物を育てられるだけで十分です』
本当に、それだけで満足している顔をする。
欲がないのか。
あるいは……それすら今まで許されていなかったのか。
ルーヴェル家については調べさせた。
ここ数年、ルーヴェル商会の売上は大きく伸びている。
主力商品は、薬草を使った薬、香草を使った商品、高級茶葉などの植物由来の商品。
つまり、ミレイユの力によるものだ。
彼女が植物を育て、品質を整え、商会はそれを売っていた。
にもかかわらず、彼女自身は自由に植物を育てることも許されなかったのだろう。
そしてこれほどの力を持つ彼女を、なぜ簡単に手放したのか。
他にも優秀な植物魔法の使い手がいるのか。
彼女がいなくても育てられる環境が整っているのか。
あるいは……ただ何も考えていないだけなのか。
それが一番ありえないと思いたいが。
だが彼女の扱いを聞く限り、そうとも言い切れない。
もし本当に何も考えずに手放したのだとしたら。
ルーヴェル商会は、じきに困るだろう。
それは俺が考えることではない。
今はただ、彼女がここに来てくれたことに感謝すればいい。
その日の夕食も、ミレイユと向かい合って食べた。
この一カ月で、彼女と食事をする時間は自然なものになっていた。
最初は少し緊張していた彼女も、今は食卓でよく話してくれる。
特に植物の話になると、よく話す。
普段は控えめなのに、植物のことになると瞳が輝く。
それを見るのは、嫌いではない。
いや……かなり、好きだと思う。
「今日は薬草の調整をしていたのか」
俺が尋ねると、ミレイユはスープの匙を置いて頷いた。
「はい。怪我に効くものと、疲労に効くものを少しずつ。毒消しに使えそうなものも育てています」
「毒消しか」
「まだ安定していません。薬効が強すぎると体に負担がかかるので、もう少し穏やかにしたいんです」
「十分すごいと思うが」
「でも、子どもやお年寄りにも使えるものにしたいので」
そう言って、彼女は真剣な顔をする。
領民のため。兵士のため。
彼女は自然にそう考えている。
まだ来て一カ月しか経っていないのに。
「無理はしないでくれよ」
「はい。気をつけます」
本当に気をつけるのかは怪しい。
彼女は植物のことになると、自分の疲れを忘れる。
自分の調合した薬草などで疲れなど取れる、とか言って。
そこは注意して見ておかなければならない。
「次は、何を育てるつもりなんだ」
「まだ悩んでいます。食べ物と薬草は少しずつ広がってきたので……今度は土そのものを良くする植物などを考えています」
それは、領地のためになるものだ。
ぜひ欲しい、そう思った。
だが、それをこちらから強く望むのは違う気がした。
彼女には、自由に育ててほしい。
ルーヴェル家でできなかったことを、この土地でしてほしい。
「そうか、上手くいくことを願っているよ」
「はい、ありがとうございます」
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。
彼女は、植物の話をしている時が一番楽しそうだ。
その顔を守りたいと思った。
夕食後、寝る前になると、ミレイユがハーブティーを持ってきてくれる。
最初の夜に出されたそれを飲んで、俺は昼過ぎまで眠った。
正直、最初は薬を盛られたのかと思った。
今となっては笑い話だが、あの時は本気で驚いた。
扉が軽く叩かれる。
「カイン様、失礼します」
「ああ」
ミレイユが盆を持って入ってくる。
柔らかな湯気と、草花の穏やかな香りが部屋に広がった。
この香りがすると、体が少し休む準備を始める。
そんな気がする。
「今日のハーブティーです。昨日より少し甘みを控えめにしました」
「ありがとう」
茶器を受け取り、ひと口飲む。
温かさが喉を通り、胸のあたりに落ちていく。
「……やはり美味いな」
「よかったです」
ミレイユは嬉しそうに笑う。
俺は茶器を見ながら、ふと思い出して口元を緩めた。
「最初にこれを飲んだ時は、睡眠薬でも盛られたのかと思った」
「そんなもの盛りませんよ」
彼女が即座に言う。
その真面目な顔がおかしくて、少し笑った。
「ああ。あの時は、目が覚めたら昼だったからな。驚いた」
「それだけお疲れだったんです」
ミレイユは少しだけ眉を寄せる。
心配されているのがわかる。
それが、妙にくすぐったい。
「最近は眠れている」
「それならよかったです」
「君のおかげだ」
そう言うと、ミレイユは少し頬を染めた。
「私は、お茶を淹れているだけですから」
「その茶が効いているからな」
彼女も少し困ったように笑った。
しばらく、他愛のない話をした。
ミレイユの声を聞いているうちに、少しずつ瞼が重くなる。
彼女もそれに気づいたようだった。
「そろそろお休みください」
「ああ」
「茶器は下げておきますね」
彼女が盆を持ち上げようとする。
その前に、俺は彼女の手を取った。
ミレイユがびくりとする。
手は細い。
少し荒れている。
土に触れ、種を植え、薬草を育てている手だ。
俺はその手の甲に、そっと唇を落とした。
ミレイユの肩が跳ねる。
「か、カイン様……」
「今日もありがとう」
「い、いえ……」
彼女はわかりやすく照れて、視線を泳がせる。
頬が赤い。耳まで赤い。
その反応が、とても可愛らしい。
「おやすみ、ミレイユ」
「……おやすみなさいませ、カイン様」
彼女は礼をして、少し急ぎ足で部屋を出ていった。
扉が閉まった後、俺は自分の口元が緩んでいることに気づいた。
新しくできた婚約者。
最初は、何も期待していなかった。
最悪、逃げられても仕方がないと思っていた。
その時は、また次を探せばいい。
そう思っていたはずだ。
だが今は、彼女以外は考えられない。
この土地を見て、逃げなかった。
それどころか、荒れた土を見て目を輝かせた。
領民のために種を植え、怪我人のために薬草を育て、俺のために茶を淹れてくれる。
草と土の匂いをまとった、柔らかくて不思議な令嬢。
彼女が来てくれて、本当によかった。
そう思いながら、俺は目を閉じた。
ハーブティーの香りが、まだ部屋に残っている。
そしてその奥に、かすかにミレイユの草の匂いがした気がした。
ひどく落ち着く匂いだった。
その夜も、俺は深く眠った。




