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第5話 雑草令嬢の匂いは…


 私がグレイハルト辺境伯領に来てから、二週間ほどが経った。


 最初は、屋敷の裏庭だけだった。

 でも今では、領都のあちこちで、私が植物魔法をかけた種や苗が育てられている。


 もちろん、最初から領民の方々が信じてくれたわけではない。


『こんな痩せた土で、本当に育つんですか?』

『今まで何度も試して、だめだったんですよ』

『奥様の魔法はすごいと聞きましたが……』


 そう言われた時は、少しだけ緊張した。

 でも、種を植えて、土に魔力を馴染ませて。


「『健やかなれ』」


 そう唱えて、数日。


 芽が出た。葉が伸びた。実がなった。

 そして、それを食べた領民の方々が、目を丸くした。


『甘い……!』

『こんな野菜、初めて食べた』

『これ、本当にうちの畑で育ったのか?』


 その日から、領都の畑は少しずつ賑やかになった。


 空いていた庭先。家の裏手。城壁近くの小さな畑。

 皆、競うように種を植え始めた。


 私が思っていたより、ずっと早く広がっている。

 正直、少し驚いている。


 けれど誰かが嬉しそうに籠いっぱいの野菜を抱えているのを見ると、胸の奥が温かくなった。


「奥様、本当にありがとうございます」

「母が久しぶりに野菜を食べて、泣いて喜んでいました」

「子どもが、この豆ならもっと食べたいって言うんです」


 そう言われるたび、私はどうしていいかわからなくなる。

 実家の商会にいた頃、感謝されることはほとんどなかった。


 だから今、真正面から笑顔を向けられると、まだ少し照れる。


 慣れないけれど、とても嬉しい。

 むしろ、もっと役に立ちたいと思ってしまう。


 そのために、私は今日も屋敷の裏庭にいた。


 食べ物は少しずつ広がってきた。

 次は、怪我や疲れに効く薬草を安定して育てたい。


 辺境伯領は魔物が多い。

 兵士の方々も、領民の方々も、怪我をすることが多いと聞いた。


 なら、食べ物の次は薬草だ。


「この子は葉の香りが少し強すぎるわね。もう少し穏やかに……こっちは根に魔力が溜まりすぎてるから、巡りをよくして……」


 私は膝をつき、鉢植えを前にして魔力を流した。


「『健やかなれ』」


 淡い緑の光が、葉先へゆっくり移っていく。


 うん、悪くない。

 でも、まだ少し強い。


 薬効が強すぎる薬草は、扱いを間違えると逆に体に負担をかける。

 優しく効いて、毎日使えて、子どもや老人にも飲ませられる。


 そういうものにしたい。


「……難しいけど、楽しい」


 思わず口元が緩む。

 やっぱり植物は面白い。


 土も、水も、日差しも、魔力も。

 少しずつ変えるだけで、ちゃんと応えてくれる。


「また裏庭にいるのか」


 不意に声がして、私は顔を上げた。

 そこには、カイン様が立っていた。


 今日もきちんとした服装なのに、どこか少し疲れて見える。

 けれど、最初に会った頃より顔色はいい。


 夜にしっかり眠れているのだろう。


「あっ、カイン様」


 私は慌てて立ち上がった。


「すみません。何かご用でしたか?」

「いや。最近、ずっとここにいると聞いたから様子を見に来た」

「ずっと……」


 否定しようとして、できなかった。


 たしかに、朝食後はだいたい裏庭にいる。

 昼も夕方もいる。

 夜はさすがに部屋に戻るけれど、鉢植えを部屋に持ち込んでいる。


 ……うん、ずっといるかもしれない。


「あの、迷惑でしたか?」


 私は少し不安になって尋ねた。


 畑を使っていいとは言われたけれど、さすがに使いすぎているのかもしれない。

 領都の畑にも手を出しているし、使用人の方々にも手伝ってもらっている。


 調子に乗りすぎたのだろうか。


 けれど、カイン様はすぐに首を振った。


「そうじゃない」

「では……?」

「無理はしないでくれ」


 低い声だった。

 でも、叱っている感じではない。


「君は薬草で体調を整えられるのかもしれない。だが、薬草があるからといって、身体を酷使し続けていいわけではない」

「……」

「倒れてからでは遅いからな」


 その言葉に、私は少しだけ瞬きをした。


 心配、されている。


 私が畑にいることを咎めに来たのではなく、私の体を案じて来てくれたのだ。


 そんなことを言われたのは、初めてかもしれない。


 実家では、疲れていても温室に行くのが当たり前だった。

 熱があっても、種の管理だけはしておけと言われた。


 だから、無理をするなと言われると、どうしていいかわからない。

 胸の奥が、少しくすぐったい。


「ありがとうございます、カイン様」

「礼を言われることではない」

「いえ、嬉しかったので」


 素直にそう言うと、カイン様が一瞬、言葉に詰まった。

 それから、少しだけ視線を逸らす。


「……そうか」


 耳が少し赤いような気がした。

 気のせいだろうか。


「そろそろ休憩を取ったほうがいい」

「休憩、ですか」

「ああ。菓子でもどうだ?」


「お菓子……」


 その言葉に、思わず反応してしまった。

 カイン様は少しだけ口元を緩めた。


「君のおかげで採れた野菜で、料理人がクッキーを作ったらしい」

「野菜でクッキーを?」

「ああ。根菜を練り込んだものと、香草を少し使ったものだと聞いた」


「ぜひ食べたいです」


 即答だった。

 これは仕方ない。


 植物からできたお菓子なんて、気になるに決まっている。


「では行こう」

「はい。一緒に食べましょう」


 そう言って、私はカイン様のほうへ一歩近づいた。

 けれど、その瞬間、足が止まった。


 私は今の今まで裏庭にいた。

 土に触り、葉を撫で、薬草の鉢を抱えていた。


 当然、草の匂いがついているだろう。


 いや、裏庭にいなくても、私の体にはもう草の匂いが染みついているのかもしれない。


 実家でも、モニカに何度も言われた。


『雑草の匂いがする』

『臭いから近寄らないで』


 ダニエルにも言われた。


『隣にいると臭い』


 私は無意識に一歩下がった。


 カイン様が気づいたように、こちらを見る。


「どうした?」

「あ、いえ……」

「疲れたのか?」


「そうではなくて」


 私は少し迷ってから、袖口を握った。


「私、今まで裏庭にいましたので……草の匂いがついていると思います。不快な思いをさせるといけないので」


 言いながら、少し恥ずかしくなった。


 わざわざこんなことを言う必要があっただろうか。

 でも、近づいてから嫌な顔をされるよりはいい。


 カイン様はしばらく黙っていた。

 怒っているのかと思って、少しだけ不安になる。


 けれど、次の瞬間。


「不快なことは何一つない」


 はっきりとした声だった。

 私は思わず顔を上げた。


「え?」

「草の匂いがするからといって、不快だと思ったことはない」

「でも……」


「それに」


 カイン様が一歩近づく。

 私は思わず固まった。


 距離が近い。

 いつもよりもずっと近い。


 彼は少しだけ身を屈め、私の髪の近くに顔を寄せた。


 え?

 な、何を……。


 考えるより先に、カイン様が静かに息を吸った。


 匂いを、嗅がれた。

 たぶん、いや、確実に。


 私は一瞬で耳まで熱くなった。


 カイン様は顔を離すと、真面目な顔で言った。


「俺は、君の匂いは落ち着くから好きだよ」

「……っ」


 息が止まった。


 好き、落ち着く。

 それは、草の匂いのことだろう。

 きっとそうだ。


 私も草の匂いは好きだ。

 落ち着く。


 だから、一緒。


 一緒なのだけれど……なぜだろう。

 胸がものすごく騒がしい。


「あ、ありがとうございます……?」


 お礼で合っているのかわからない。

 でも他に言葉が出てこなかった。


 カイン様は少し笑った。


「なぜ疑問形なんだ」

「い、いえ。こういうことを言われ慣れていなくて」

「ふふっ、そうか」


 カイン様は悪戯っぽく笑った。

 その笑みが可愛らしくて、また胸が跳ねた。


 ずるい。

 何がずるいのかはわからないけれど、少しずるい。


「それじゃあ行こうか」


 カイン様が手を差し出す。

 エスコートの手だ。


 私は少し躊躇って、それからそっと手を乗せた。


 大きな手、温かい。

 繋がれた手は優しい。


 お菓子を食べるだけ、ただの休憩。

 そう思っているのに、なんだか少し落ち着かない。


 自分の匂いを好きだと言われた。

 草の匂いのことだとわかっている。


 わかっているのに。


『俺は、君の匂いは落ち着くから好きだよ』


 私は、しばらくその言葉を頭の中から追い出せそうになかった。



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