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第4話 雑草令嬢がいなくなった実家では…


 ミレイユ・ルーヴェルが、グレイハルト辺境伯領へ嫁いでから二週間ほどが経った。

 ルーヴェル商会では、少しずつ異変が起き始めていた。


 最初の一週間は、まだよかった。

 温室の奥に保管されていた種は十分にあったし、ミレイユが管理していた薬草や香草、高級茶葉も残っていた。

 だから、誰も困らなかった。


 誰も、ミレイユがいなくなった影響など考えもしなかった。

 むしろ、温室からあの地味な妹が消えたことで、屋敷の空気がよくなったとすら思っていた。


 けれど――。


「どういうことだ、これは!」


 温室に、ダリウスの怒鳴り声が響いた。


 棚に並んだ鉢植えはどれも小さく、葉はまだ頼りない。

 納品用に育てている薬草も、香草も、高級茶葉に使う若葉も、商品として出せる状態にはほど遠かった。


 ダリウスは鉢のひとつを乱暴に指差す。


「なぜ、まだこの程度しか育っていない!」


 新しく雇われた管理人の男は、青ざめた顔で頭を下げた。


「申し訳ございません」

「申し訳ないで済むか! この薬草は三日後に納める予定だったものだぞ!」

「ですが旦那様、これは……」


「言い訳をするな!」


 ダリウスの怒声に、管理人は肩を震わせた。


 少し離れた場所では、妻のオルガが眉を寄せて扇を広げている。


「本当に嫌だわ。こんな草臭いところに来なければならないなんて」


 その隣で、モニカも不満そうに唇を尖らせる。

 足元が土で汚れないよう、ずっと裾を気にしている。


「お父様、このままだと今週の納品に間に合わないのではなくて?」

「だからこうして確認に来たんだ!」


 ダリウスは苛立たしげに言った。


 その後ろには、ダニエルもいた。

 金髪を整え、上質な外套を羽織っている。


 彼もまた、温室の中にいること自体が不快だと言わんばかりに、眉間に皺を寄せていた。


「まったく……モニカが心配していたから来てみれば、この有様か」

「申し訳ございません!」


 管理人はもう一度頭を下げる。


 しかし、その顔には困惑もあった。

 彼は植物の扱いを知らないわけではない。


 むしろ、この辺りでは腕がいいと言われて雇われた者だ。

 だからこそ、わかっていた。


 今の成長速度は、遅いわけではない。

 むしろ普通だ。


 問題なのは、ルーヴェル家の者たちが『普通』を知らないことだった。


「あの、旦那様」


 管理人は恐る恐る口を開いた。


「こちらの薬草は発芽から収穫まで、本来であれば最低でも二か月は必要な種類でございます」

「……は?」


 ダリウスの声が低くなった。


 管理人は喉を鳴らし、それでも続ける。


「香草も、茶葉も同様です。種類によって差はございますが、数日で商品にできるものではありません」

「何を馬鹿なことを言っている」


 ダリウスが吐き捨てた。


「今までうちは、それでやってきたんだ」

「ですが、それは……」

「何だ」


「以前保管されていた種は、明らかに状態が異常でした。発芽が早く、根の張りもよく、成長の速度も普通ではございませんでした。一日、二日で葉が揃うなど、本来ならありえないことです」


「ありえない?」


 モニカが不機嫌そうに目を細めた。


「でも、今までは育っていたわ」

「はい。ですから、以前の状態が異常だったのです」

「異常ですって?」


 モニカの声が鋭くなる。

 管理人は慌てて頭を下げた。


「失礼な意味ではございません。ただ、植物としてはあまりにも成長が早すぎたと……」

「それなら、あなたも同じように育てればいいだけでしょう?」

「それができれば、もちろんいたします。ですが、種そのものの質が違います。今ある新しい種は、普通の種でして……」


「普通の種?」


 ダニエルが鼻で笑った。


「言い訳にしては苦しいな」

「ですが、事実でございます」

「君の管理が悪いだけではないのか?」


「ですが、問題は――」

「問題はお前の腕だろう!」


 ダリウスが机代わりの作業台を叩いた。


「申し訳ございません。ですが、これらが育つのは最低でも二か月先で……」

「二か月?」


 オルガが顔色を変えた。


「二か月も先では、納期に間に合わないではありませんか」

「ええ。ですから、最初からその前提で栽培計画を――」

「今さらそんなことを言われても困るわ!」


 モニカが声を荒げた。


「今週、侯爵家へ納める香草があるのよ? 来週には王都の貴族から茶葉の注文も入っているわ。全部、契約済みなの」

「それは存じております。ですが、植物は急には育ちません」


「育っていたじゃない!」


 モニカの声が温室の中に響いた。


「今までは育っていたの! 一日か二日で芽が出て、数日で売れるくらいになっていたでしょう!」

「それが、普通ではないのです」

「そんなわけがないわ!」


 モニカは顔を歪めた。


「雑草令嬢が適当にいじっていただけの温室よ。あなたは専門家なのでしょう? だったら、あの子と同じくらいできて当然じゃない」


 管理人は一瞬、言葉を失った。


 その雑草令嬢が何をしていたのか。

 彼にはもう、薄々わかり始めていた。


 この温室の棚。土の配合。種の保存状態。残っていた魔力の気配。

 どれも、ただの管理ではない。


 植物を深く理解している者が、毎日、細かく手を入れていた痕跡だった。


 だが、それをここで言ったところで、目の前の者たちが聞き入れるとは思えない。


「……申し訳ございません。できる限りのことはいたします」


 その言葉に、ダリウスはなおも不満そうだった。

 だが、ダニエルが一歩前に出る。


「まあ、今は責めても仕方ありません」

「ダニエル様……」


 モニカが不安げに彼を見上げる。

 ダニエルは、彼女を安心させるように微笑んだ。


「ここは私が何とかしましょう。いずれ、この商会は私とモニカが中心となって運営することになるのですから」

「まあ……!」


 モニカの表情がぱっと明るくなる。

 ダリウスも少しだけ表情を和らげた。


「ダニエル殿、何か考えが?」

「我が侯爵家の伝手を使います。足りない分の薬草や香草は、他所から買い集めればいい」

「なるほど」


「少々値は張るでしょうが、納期に遅れるよりはましです。契約を切られるより、損をしてでも信用を守るべきでしょう」

「さすがダニエル様ですわ」


 モニカがうっとりとした声で言う。


「頼りになります」

「君のためだからね、モニカ」


 ダニエルは微笑む。


 その横で、管理人は言葉を飲み込んだ。


 他所から買い集める。

 確かに、一時しのぎにはなるだろう。


 だが、ルーヴェル商会の商品が評価されていたのは、品質の高さだ。

 他所の品で、それを満たせるのか。


 同じ香草でも香りが違う。

 同じ薬草でも効きが違う。

 高級茶葉など、味と香りのわずかな差で評価が変わる。


 だが、それを言えばまた怒鳴られるだけだ。

 管理人は黙って頭を下げた。


「では、ひとまずそれでいこう。まったく、使えない者ばかりだ」


 ダリウスは吐き捨てるように言った。


 オルガは温室の空気を嫌がるように身を引く。


「もうよろしいでしょう? 私、これ以上ここにいたくありませんわ。服に匂いがつきます」

「私もですわ」


 モニカもすぐに同意した。


「こんな雑草臭いところに長居したら、気分が悪くなってしまうもの」

「行こう、モニカ。君にはこんな場所は似合わない」

「ええ、ダニエル様」


 四人は温室を出ていく。


 温室を出たモニカは、廊下を歩きながら扇で鼻先を仰いでいた。


「本当に嫌な匂い。ミレイユはよく毎日あんなところにいられたわね」

「彼女には似合っていただろう」


 ダニエルが笑う。


「雑草令嬢には、温室の土と草の匂いがお似合いだ」

「ふふ、そうですわね」


 モニカも笑った。

 けれど、その笑みはすぐに薄くなる。


 なぜか、胸の奥がざわついていた。

 管理人の言葉が頭に残っている。


『以前の状態が異常だったのです』


 そんなはずはない。

 ミレイユは雑草令嬢だ。


 自分より地味で、社交もできず、ただ温室にこもっていただけの妹。


 モニカのほうが美しく、社交的で、商会の顔として相応しい。

 そう言われてきた。そう思ってきた。


 なのに……ふいに、数日前のミレイユの声が蘇った。


『そうですね。困らないといいですね』


 あの時の穏やかな顔。

 怒るでも、泣くでもなく、ただ静かにそう言った妹。


 モニカは思わず足を止めた。


「モニカ?」


 ダニエルが振り返る。


「どうしたんだい?」

「……いえ」


 モニカはすぐに微笑みを作った。


「少し、匂いに酔っただけですわ」

「かわいそうに。早く部屋に戻ろう」

「ええ」


 ダニエルに手を取られながら、モニカはもう一度だけ温室のほうを振り返った。


 嫌な予感がする。

 そんなはずはない。


 あの子がいなくなったくらいで、ルーヴェル商会が困るはずがない。


 そう思うのに。

 胸の奥に落ちた小さな不安は、どうしても消えてくれなかった。



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