第3話 雑草令嬢は自由に育てる
翌朝、目が覚めた瞬間、私はしばらく天井を見つめていた。
見慣れない天井。見慣れない部屋。
「……そうだ。私、辺境伯家に嫁いだんだった」
ぽつりと呟いて、ゆっくり体を起こす。
昨夜、自分で淹れたハーブティーのおかげか、思ったよりよく眠れた。
馬車移動の疲れもあったのだろうけれど、身体的には問題ない。
身支度を整えて食堂へ向かうと、朝食が用意されていた。
席は、私一人分。
「あの、カイン様は……?」
給仕をしてくれていた執事の方に尋ねると、彼は少しだけ困ったように眉を下げた。
「いつもは朝食を召し上がるのですが、今朝はまだお起きになっておりません」
「そうなのですね」
「そろそろお声がけをしようかと思っているのですが……」
そう言いながらも、執事の方は少し迷っているようだった。
昨日、カイン様は眠れない日が続いていると言っていた。
執事の方も、それを知っているのだろう。
起こすべきか、寝かせておくべきか。その間で悩んでいる顔だった。
「それでしたら、起こさないほうがいいと思います」
「よろしいのでしょうか」
「はい。昨日、よく眠れるようにハーブティーをお出ししたので……眠れているなら、そのまま寝かせて差し上げたほうがいいかと」
私がそう言うと、執事の方はほっとしたように表情を緩めた。
「ありがとうございます、奥様。では、そのようにいたします」
奥様、またそう呼ばれた。
昨日も思ったけれど、まだ慣れない。
でも、嫌な感じはしない。
「いえ。少しでもお休みになれるといいですね」
「ええ。本当に」
執事の方の声には、心からの安堵が滲んでいた。
カイン様は、きっと使用人たちに慕われているのだろう。
そう思うと、昨日感じた「領民想いの方なのかもしれない」という印象が、少しだけ確かなものになった。
朝食を終えると、私はすぐに裏庭へ向かった。
もちろん、畑を見るためだ。
昨日植えたばかりだから、普通なら何も変化はない。
でも、私の魔法をかけた。
あの土がどれくらい応えてくれたのか、どうしても気になったのだ。
裏庭に近づくにつれて、胸が少しずつ高鳴る。
角を曲がって、畑が見えた瞬間。
「……あ」
思わず声が漏れた。
昨日は土だけだった畝に、緑が広がっていた。
小さな芽どころではない。
葉が伸び、茎が立ち、いくつかの野菜はもう実をつけている。
根菜の葉はしっかりと茂り、豆は支えもないのに器用に絡まりながら伸びていた。
香草も、朝露を受けてみずみずしい香りを放っている。
「嘘……」
後ろからついて来ていたメイドの一人が、小さく呟いた。
その気持ちはわかる。普通ではない。
けれど私にとっては、驚き半分、確認半分だった。
私は畑の前にしゃがみ込み、葉の色を見て、茎の太さを確かめる。
それから、根菜をひとつだけ抜いてみた。
土から現れた根は、思ったより太い。
白くて、傷も少ない。
「うん……最初にしては十分ね」
「これで、十分……なのですか?」
メイドが少し震えた声で聞いてくる。
私は首を傾げた。
「土がまだ痩せていますし、魔力の馴染みも少し浅いので。もう少し調整すれば、もっとよくなると思います」
「もっと……」
メイドの方が遠い目をした。
あれ……何か変なことを言っただろうか。
でも本当に、まだ納得の出来ではない。
実家の温室なら、もっと葉の色も揃えられたし、実も大きく安定させられた。
ただ、この土地で初めて育てたものとしては悪くない。
むしろ、思っていたより素直に育ってくれた。
「この子たち、頑張ってくれたのね」
思わず葉を撫でる。
葉先が朝日に透けて、薄く光った。
うん、可愛い。
やっぱり植物は可愛い。
しばらく畑を確認してから、私は使用人の方々を呼んでもらうことにした。
収穫しなければ、いくつかは育ちすぎて味が落ちる。
野菜は、良い時に採るのが大事だ。
集まった使用人たちは、畑を見るなり固まった。
「これが、昨日の……?」
「まさか一晩で……?」
「奥様が植えていたものですよね?」
ざわざわと声が広がる。
私は少し照れながら頷いた。
「はい。食べ頃のものから採りましょう。まだ全部ではないですが、今日使う分には十分だと思います」
そう言って収穫を始めたのだけれど。
十分どころではなかった。
葉物野菜を籠に入れる。
根菜を抜く。
豆を摘む。
香草を少し分ける。
採っても採っても、まだある。
裏庭は広いし昨日片っ端から植えたので、当然といえば当然なのだけれど、それにしても多い。
屋敷の使用人全員の食事に使っても、十日分くらいはあるかもしれない。
「……どうしましょう」
私は籠いっぱいの野菜を見下ろして、少し悩んだ。
嬉しい。嬉しいけれど、保存の準備をしないといけない。
干せるものは干す。漬けられるものは漬ける。
根菜は土つきのまま保存すれば少し持つ。
でも葉物は早く食べたほうがいい。
考えていると、メイドの一人が、おずおずと手を上げた。
「あの、奥様」
「はい?」
「少しだけ、私の家に分けていただくことはできないでしょうか。もちろん、お金は支払います!」
「えっ?」
私は思わず瞬きをした。
「野菜、必要なのですか?」
「はい。辺境伯領では野菜が貴重でして……他領から仕入れてはいるのですが、日持ちしませんし、量も多くはありません。家族にも食べさせてあげられたらと……」
メイドは慌てて頭を下げた。
「勝手なことを申し上げて、申し訳ございません」
「いえ、もちろん大丈夫ですよ。ぜひ食べさせてあげてください」
「本当ですか?」
「はい。お金もいりませんから、好きなだけ持っていってください」
私がそう言うと、メイドの目が丸くなった。
「よ、よろしいのですか?」
「はい。たくさん採れましたし、食べてもらえるほうが嬉しいです」
そう答えると、周りにいた使用人たちが顔を見合わせた。
「あの、奥様。私も、少しいただいても……?」
「うちにも幼い弟がおりまして……」
「年老いた母に、柔らかい葉物を食べさせてやりたくて……」
次々と声が上がる。
私は少し驚いて、それから頷いた。
「もちろんです。皆さんも持っていってください。食べきれないより、必要な方に食べてもらえるほうがいいですから」
その瞬間、使用人たちが一斉に頭を下げた。
「ありがとうございます、奥様!」
「本当に助かります!」
「こんな立派な野菜、久しぶりです……!」
……こんなに感謝されるのは、いつぶりだろうか。
今までの人生でも数えきれるくらいにしかないかもしれない。
私は両手を少し浮かせたまま、どう反応していいかわからなくなった。
実家では、植物を育てるのは当然だった。
品質が良くても、それは商会の商品。
褒められるのは父やモニカで、私はただ温室に戻るだけ。
だから、こうして真正面から感謝されることに慣れていない。
「あ、あの……そんなに頭を下げなくても」
声が少し上ずった。
恥ずかしい。嬉しいけれど、恥ずかしい。
胸の奥がふわふわして、どうにも落ち着かない。
野菜を使用人たちに分けても、まだかなり余った。
そこで、昼食にすぐ使うことになった。
「あの、もしよろしければ、私に少し料理をさせていただけませんか?」
厨房でそう言うと、料理人の方が驚いた顔をした。
「奥様が、でございますか?」
「実家では自分で食事を用意することもありましたし、野菜を使った料理は得意なんです」
言ってから、少しだけしまったと思った。
伯爵家の令嬢が自分で食事を作ることは、たぶん普通ではない。
でも料理人の方は、詮索するような顔はしなかった。
「では、お願いいたします。私どももお手伝いいたします」
「ありがとうございます」
私は採れた野菜を洗い、根菜を薄く切り、葉物をざくざく刻んだ。
香草は最後に少しだけ。
鍋に水を張り、根菜から火を通していく。
立ち上る湯気に、野菜の甘い香りが混ざった。
うん、良い香り。
塩を少し。
肉の切れ端も少し。
最後に葉物と香草を入れると、鮮やかな緑が鍋の中に広がった。
「すごく、いい匂いですね」
若いメイドがぽつりと呟く。
「野菜が元気なので、香りも出やすいんです」
「野菜が元気……」
「あ、変な言い方でしたね」
「いえ、奥様らしいなと」
奥様らしい。
昨日来たばかりなのに、もうそう言われるのは少し不思議だった。
でも、嫌ではなかった。
スープは大きな鍋いっぱいに作った。
使用人たちにも食べてもらえるように。
料理人の方々にも味見をしてもらうと、皆、目を丸くした。
「これは野菜の味が出てて良いですね」
「甘みがあります。とても美味しいです」
「よかったです」
また褒められた。
今日だけで、今までの一生分くらい褒められている気がする。
いや、一生分はさすがに言い過ぎかもしれないけれど、実家の三年分よりは多い。
昼食の時間を少し過ぎた頃、私は食堂へ向かった。
すると、そこにはカイン様がいた。
昨日よりも少し髪が乱れていて、まだ眠気が残っているような顔をしている。
けれど、目の下の影は薄くなっていた。
「おはようございます、カイン様。よく眠れましたか?」
私がそう言うと、カイン様は少しだけ苦笑した。
「……ああ、おはよう。本当によく眠れたよ」
寝起きだからだろうか、声が昨日より柔らかく聞こえる。
二人で席に着くと、カイン様は額に手を当てた。
「あのハーブティーのおかげで、こんな時間まで眠ってしまった」
「それはよかったです」
「よかった、のか?」
「眠れなかったのでしょう? なら、よかったです」
私がそう言うと、カイン様は小さく息を吐いた。
「……一応確認するが、あれは睡眠薬の類を盛っているわけではないよな?」
「違います」
即答した。
「安眠効果を増幅させるだけですよ。眠りにつきやすくして、体を休ませる薬草を合わせています。起きた時も、すっきりしたでしょう?」
カイン様は少し考えるように目を伏せた。
「……ああ、とてもな。何日も眠って起きたかのようだった」
「それはよかったです」
「よくはあるが……効きすぎではないか?」
「カイン様がそれだけ疲れていたのだと思います」
私が真面目に言うと、カイン様は言葉に詰まった。
そして、少しだけ視線を逸らす。
「……否定はできないな」
そこへ、料理が運ばれてきた。
今日の昼食は、野菜のスープ。
それから採れたばかりの葉物を軽く和えたもの。
根菜を焼いたもの、などなど。
昨日の夕食より、明らかに野菜が多い。
カイン様もすぐに気づいたようで、目を瞬いた。
「これは……」
「裏庭で採れた野菜です」
「裏庭?」
「はい。昨日、植えたものが育ちまして。いっぱい採れたんですよ」
カイン様が、ぴたりと止まった。
「昨日、植えたものが?」
「はい」
「……昨日?」
「はい。昨日です」
カイン様は私を見た。
それから、目の前のスープを見る。
もう一度、私を見る。
「まさか、あそこでこれだけの野菜が……」
「まだ一部です」
「一部?」
「はい。あとでご覧になりますか?」
そう言うと、カイン様の顔に珍しくはっきりとした驚きが浮かんだ。
少し面白い。いや、失礼かもしれない。
「とりあえず、冷める前にどうぞ」
「あ、ああ」
カイン様は匙でスープを掬い、口に運んだ。
そして、動きを止めた。
「……美味い」
「よかったです」
「野菜がかなり甘いな」
「採れたてですから」
「いや、それだけではないだろう」
カイン様はもう一口、また一口とスープを食べる。
その速度が、だんだん早くなった。
葉物にも手を伸ばし、焼いた根菜も口にする。
「これは……本当に美味いな」
低い声なのに、どこか素直な響きがあった。
昨日までの冷たい印象が、少しだけ薄れる。
食べている時の顔が、思ったより子どもっぽい。
おいしいものを見つけた時の、ほんの少し目が明るくなる感じ。
……可愛い。
いや、辺境伯様に可愛いは失礼かもしれない。
でも、可愛いものは可愛い。
私は口元が緩みそうになるのを、慌ててスープで誤魔化した。
「どうかしたか?」
「いえ。美味しそうに召し上がってくださるので、嬉しくて」
「……そうか」
カイン様は少し気まずそうに咳払いをした。
でも、手は止まらない。
あっという間にスープの皿が空になった。
「おかわりもありますよ」
「……あるのか」
「はい。たくさん作りました。使用人の方々にも食べていただこうと思って」
「そうか。では、少しだけ」
少しだけ、と言いながら、カイン様はしっかり二杯目も食べた。
その姿を見るだけで、胸の奥が温かくなる。
自分が育てたものを、誰かが美味しそうに食べてくれる。
それは、こんなに嬉しいことだったのか。
食事が一段落した頃、カイン様が改めて私を見た。
「それで、裏庭にはまだ野菜があると言っていたな」
「はい」
「どれくらいだ?」
「ええと……今食べた量の、十数倍くらいでしょうか」
カイン様が固まった。
今度こそ、完全に。
「十数倍?」
「はい。使用人の方々にも分けたのですが、それでもまだ余っています。保存方法を考えないといけませんね」
「昨日、植えたんだよな」
「はい」
「昨日、来たばかりで」
「はい」
「あの痩せた畑で」
「はい」
カイン様は片手で額を押さえた。
頭痛ではなさそうだ。
たぶん、驚きすぎている。
「……ミレイユ」
「はい」
「君は、何をした?」
その問いに、私は少し考えた。
何をしたか。
種を植えた。魔力を流した。水をあげた。
植物が育ちやすいようにした。
それだけだ。
「植物が育ちやすいように、少し手伝っただけです」
「少し」
「はい、少し」
カイン様は、何か言いたげに私を見た。
けれど結局、深く息を吐くだけだった。
「……そうか」
「はい」
私はにこりと笑った。
明日は、もっと土を整えてみよう。
そうしたら、今日よりきっとよくなる。
そう思うと、また胸が少し弾んだ。




