第2話 雑草令嬢は嫁ぐ
数日後、私はルーヴェル伯爵領を出た。
荷物は最低限。衣装箱も小さなものがひとつだけで、侍女もつかない。
伯爵家の令嬢が嫁ぐにしては、ずいぶん寂しい出立だったと思う。
まあ、見送りに来たのも使用人が数人だけだったし、父も母もモニカも、ダニエルも来なかったのだけれど。
……うん。そこはもう、気にしない。
私は馬車の窓から流れていく景色を眺めながら、小さく息を吐いた。
膝の上には小さな革袋がある。中身は、私がこっそり持ってきた種だ。
商会の財産になるような希少な種ではない。
私が自分で少しずつ集めていた、野菜や香草や、いくつかの薬草の種。
本当なら、もっとたくさん持ってきたかった。
でも大荷物にすれば怪しまれるし、出立前に父に見つかったら没収されていただろう。
だから、これだけ。これだけでも十分。
種は少なくても、増やせばいい。育てればいい。
……そのための場所が、あればだけれど。
馬車は何日かかけて、王国の端へ向かった。
森が深くなり、岩場が増え、遠くに黒い山並みが見えた頃。
馬車の外から、馬の蹄の音が近づいてきた。
「ルーヴェル伯爵家よりお越しのミレイユ様でいらっしゃいますか」
窓の外にいたのは、鎧を身につけた兵士たちだった。
「はい。ミレイユ・ルーヴェルです」
「グレイハルト辺境伯家より、お迎えに参りました。ここから先は魔物の出没もございますので、我々が護衛いたします」
「ありがとうございます」
私は慌てて頭を下げた。
ちゃんと迎えが来た。それだけで、少し安心する。
兵士たちに守られながら進んだおかげで、馬車は無事に辺境伯領の街へ到着した。
最初に見えたのは、大きな城壁だった。
「……すごい」
城門をくぐると、中には想像以上に大きな街が広がっていた。
家も多い。商店らしき建物もある。
馬車の窓から外を見ていると、家々の間に畑が見えた。
けれど、土の色があまりよくない。
畝は作られているけれど、葉の伸びは弱い。
(何を植えているのかしら。麦? 根菜? それとも豆?)
気になる。あの葉の色だと、土の栄養が足りていないのかもしれない。
ああ、少し土を触りたい。
……いけない。まずは辺境伯家にご挨拶だ。
そんなことを考えていると、一際目立つ屋敷に到着した。
そこが、グレイハルト辺境伯家の屋敷だった。
屋敷、というより要塞。
目立つ装飾はほとんどない。美しさよりも、守ることを優先している。
屋敷の裏手のほうには、広い空き地が見えた。
草がまばらに生え、土がむき出しになっている。
(あそこ、土を整えたら畑にできそう……)
いけない、いけない。
カイン様に会うのが先でしょう。
案内の使用人に導かれて、私は屋敷の中へ入った。
中も華美ではない。けれど清潔で、無駄がなく、手入れが行き届いている。
応接室に通されると、そこにはすでに一人の男性がいた。
黒髪に、鋭い灰色の瞳。長身で、引き締まった体格。
立っているだけで、場の空気が少し冷えるような人だった。
この方が、カイン・グレイハルト様。
真顔だと冷たい印象だ。
噂では冷酷だとか言われていたが、噂というのは本当に好き勝手だ。
私も雑草令嬢と言われていたし。
うん、あまり当てにしないでおこう。
「ミレイユ・ルーヴェルと申します。本日よりお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」
私は姿勢を正し、深く礼をした。
カイン様も、短く頷く。
「カイン・グレイハルトだ。遠路はるばる、よく来てくれた」
声は低い。けれど、思っていたより乱暴ではない。
「座ってくれ」
「失礼いたします」
向かい合って座ると、カイン様は静かに口を開いた。
「今回の婚姻は政略によるものだ。こちらから君に多くを求めるつもりはない」
「はい」
「ただ、グレイハルト辺境伯家の夫人として、問題のある行動は避けてほしい。領民や使用人に無理を言わないこと。外に出る時は必ず護衛をつけること。それだけ守ってくれればいい」
思ったより、条件が少ない。
妻として期待していない、という意味でもあるのだろうけれど。
でも実家で毎日温室に閉じ込められていた私からすれば、これくらいは全然問題ない。
「かしこまりました。ご迷惑をおかけしないようにいたします」
「ああ、こちらも君が不自由なく過ごせるように努めよう」
「ご配慮ありがとうございます」
そこで会話が終わりそうになった。
いけない、大事なことを聞いていない。
「あの、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「畑などで、植物を育ててもよろしいでしょうか」
「……植物?」
カイン様の眉が、ほんの少し動いた。
ですよね。嫁いできて最初に聞くことがそれなのは、たぶん普通ではない。
でも、私には一番大事なことだった。
「はい。もしご迷惑でなければ、空いている土地や畑の一部をお借りできればと」
カイン様はしばらく考えるようにして私を見た。
「そうか。君は植物が好きだと聞いていたが……」
あっ、雑草令嬢というのを思い出されているような顔だ。
でも彼は一瞬だけ咳払いをして続ける。
「屋敷の裏にある空き地は、もともとは畑だ。ただ、土が悪いからか、あまり育たない。何度か試したが、収穫量は少なかった」
「そうなのですね」
「あそこなら自由に使ってもらって構わない。まあ、できれば食べられるものがいいな」
「領内では、作物が足りていないのですか?」
「自給自足できるほどには育たない。食料の多くは他領から買っている」
やはり、街の畑を見た時の印象は間違っていなかったらしい。
「だから屋敷の裏庭を畑にしてでも、少しは足しになればと思ったのだが、上手くいかなかった」
カイン様の声は淡々としていた。
でもその言葉の中には、領地への責任があった。
辺境伯家の屋敷の裏庭を畑にする。普通の貴族なら、体面を気にして嫌がるかもしれない。
でもこの人は、領地のためならそうするのだ。
(領民想いの方なのかもしれない)
そう思った瞬間、少しだけ緊張が解けた。
「ありがとうございます。では、早速見てもよろしいでしょうか」
「早速?」
「はい。まだ昼過ぎですので」
しまった、さすがに早すぎただろうか。
嫁いできた初日で、挨拶のすぐ後に畑へ行きたいと言う令嬢。
……普通ではないだろう。
でも、畑は気になる。非常に気になる。
「疲れていないのか」
「馬車で座っていただけですので」
「そうか」
するとカイン様は使用人を呼び、裏の畑へ案内するように言ってくれた。
「ありがとうございます、カイン様」
「問題ない」
そして使用人に案内されて裏庭に行き近くで見ると、空き地は思っていたより広かった。
私はしゃがみ込み、土を指で掬った。
乾いている。少し硬い。栄養も足りない。
でも、最悪ではない。これならいける。
「……大丈夫そう」
「奥様?」
案内してくれた使用人が、不思議そうに私を見る。
奥様……今、奥様と言われた。
私はもう、ここではグレイハルト辺境伯夫人になるのだ。
まだ全然実感はない。
「この畑に、種を植えてもよろしいですか?」
「もちろんでございます。ただ……ここでは、ほとんど育たないと思いますが」
使用人の声は申し訳なさそうだった。
馬鹿にしているわけではない。
本当に、これまで上手くいかなかったのだろう。
「大丈夫です」
私は笑顔で答えた。
それから、持ってきた革袋を開く。
根菜。葉物野菜。豆。少しだけ麦。あとは香草。
本当は土をもう少し整えてからがいい。
でも、まずは試したい。この土地に、私の魔法がどれくらい通るのか。
「あの、他に食べ物の種はありますか?」
「倉庫に少しならございますが……」
「片っ端から植えましょう」
「片っ端から、ですか?」
「はい。片っ端からです」
使用人は戸惑いながらも、倉庫から種を持ってきてくれた。
私は畝に沿って種を植えていく。
「本当に、よろしいのでしょうか」
「はい」
「これだけ植えて、もし芽が出なかったら……」
「大丈夫ですよ」
植え終えた畑の前に立ち、両手を重ねる。
「『健やかなれ』」
小さく呟いて、魔力を流した。
淡い緑の光が、足元から畑へ広がっていく。
土の中に眠る種へ。その奥にある、まだ小さな命へ。
少しずつ、少しずつ、魔力を馴染ませる。
「……うん。これで、問題なし」
私は額の汗を拭った。
使用人がぽかんとこちらを見ている。
「今のは……」
「植物魔法です。あとは水をあげましょう」
「は、はい」
使用人はまだ疑っているようだった。
けれど、手伝ってくれた。
井戸から水を汲み、畑に少しずつかけていく。
私も一緒に水を撒いた。
土に触れる。種を植える。水をかける。
それだけで、胸の奥がふわふわする。
実家でやっていた時とは違う。誰かに命じられているわけではない。
この土地に必要なものを、私が選んで育てていい。
それが、こんなに嬉しいなんて。
気づけば夕方になっていた。
最低限の身支度を整えた後、私は夕食の席へ向かった。
食堂には、カイン様がいた。
運ばれてきた食事は、貴族の食卓としてはかなり質素だった。
「すまないな」
カイン様が静かに言った。
「え?」
「食事ではあまり、ここでは贅沢はさせられないかもしれない」
私は慌てて首を振る。
「全然問題ありません。美味しいです」
本当にそう思った。
実家では、仕事で忙しくて食事も最低限だった。
こうして温かい料理を、誰かと同じ席で落ち着いて食べる。
それだけで、十分ご馳走だ。
「はい。スープが温かいです」
「温かいだけでいいのか」
「温かいのは大事です」
「……ふっ、そうだな」
カイン様はそう言って、スープを口に運んだ。
食事の途中、私はふと気づいた。
カイン様が時々、目頭を押さえている。
「あの、どこか悪いのですか?」
「いや……最近、忙しくてな。眠りが浅いだけだ」
「不眠症ですか?」
「そこまで大げさなものではない。疲れているのに眠れない日が続いているだけだ」
それは、十分大変なのでは。
「それでしたら、よく眠れるようになるハーブティーがありますよ」
「ハーブティー?」
「はい。いくつかの薬草を調整したものです。体が温まって、眠りやすくなると思います。あとで寝室にお持ちしますね」
「君が淹れてくれるのか?」
「はい。よく実家ではやっていました」
自分で淹れるしかなかったので、とは言わないでおく。
「そうか。じゃあ、頼む」
「はい」
食後、私は厨房を借りてハーブティーを用意した。
持ってきた茶葉と、屋敷にあった香草を少しだけ合わせる。
香りを確かめながら、湯を注ぐ。
うん、いい感じ。これなら、飲みやすいはず。
私は盆に茶器を乗せ、案内されたカイン様の寝室へ向かった。
扉を叩くと、中から低い声がする。
「入ってくれ」
「失礼します」
部屋に入ると、カイン様はすでに寝る準備を終えているようだった。
シャツの上にガウンを羽織っている。
昼間や食事の時よりも、少しだけ雰囲気が柔らかい。
黒髪が少し乱れていて、灰色の瞳も昼間ほど鋭くない。
その姿に、なぜか少しだけ胸が跳ねた。
……いや、落ち着いて。ハーブティーを届けに来ただけ。
「こちらです」
私は茶器を差し出した。
カイン様は受け取り、香りを確かめるように少しだけ顔を近づける。
「いい匂いだな」
「眠りを妨げないように、香りは柔らかめにしてあります」
彼は一口飲んだ。少し間が空く。
私は妙に緊張して、その反応を待った。
「……美味い」
「よかったです」
思わず笑みがこぼれた。
自分の育てたものや調整したものを褒められるのは、やっぱり嬉しい。
実家では、商品が売れても褒められるのはモニカや父だったから。
「意外と苦味がないんだな」
「少しだけ甘みのある香草を足しました。それも安眠効果がある香草です」
「詳しいんだな」
「植物のことだけは自信があります」
ここで熱く語り始めたら引かれる気がする。
薬草の香りの違いとか、収穫する時間帯による効能の差とか、土の質で後味が変わる話とか。
語りたいことはたくさんある。
でも初日からそれはやめておこう。
カイン様は茶器を見下ろし、静かに言った。
「ありがとう。助かる」
「いえ。少しでも眠れるといいのですが」
私は軽く礼をして、部屋を出た。
扉が閉まった後、廊下で小さく息を吐く。
緊張した。でも、嫌な緊張ではなかった。
用意された自室へ戻ると、私は荷物を少しだけ整理した。
部屋は実家の部屋より広いくらいだった。
派手ではないけれど、清潔で、窓も大きい。
それから、窓辺に鉢を置けそうな場所もある。
私は革袋から、自分用に残しておいたハーブティーを取り出した。
湯を注ぐと、嗅ぎ慣れた香りが部屋に広がる。
今日一日のことを思い返す。
まだ初日なのに、胸の奥が少し軽い。
ここでは、実家の頃のように無理やり働かされることはないのかもしれない。
もちろん、辺境伯夫人としての役目はある。
それはちゃんとしなければいけない。
でも、植物を育ててもいい。自由に植えてもいい。
この土地に必要なものを、自分で考えていい。
「明日、芽が出ているかしら」
普通なら、明日すぐに芽が出るはずがない。
でも、私の魔法をかけた。あの土も、きっと応えてくれる。
私はハーブティーを一口飲んだ。
温かさが体に広がっていく。
「……明日が、少し楽しみね」
そう呟いて、私は灯りを落とした。
久しぶりに、眠る前に明日のことを楽しみだと思えた気がした。




