第1話 雑草令嬢の日常
「ふぅ、今日もこれで仕事は終わりかな」
私、ミレイユ・ルーヴェルがぽつりと呟いた声は、夜の温室の中に淡く溶けていった。
ルーヴェル伯爵領にある、ルーヴェル商会所有の大温室。
薬草、香草、高級茶葉に使う若葉、貴族向けに売る花、染料に使う草花。
どれもこれも、ルーヴェル商会の商品だ。
そして、どれもこれも――私が魔法で整えている。
「こっちは葉の色が少し薄いわね。明日は水を少し減らして……こっちは魔力を入れすぎると香りが強くなりすぎるから、今日はこれくらい」
私はしゃがみ込み、鉢植えの葉を指先でそっと撫でた。
葉脈に沿って薄く魔力を流すと、しおれかけていた葉が、ほんの少しだけ張りを取り戻す。
うん、いい子ね。
声に出すと誰かに笑われるので言わないけれど、植物に触れている時の私は、たぶん少しだけ顔が緩んでいる。
だって、可愛いのだ。花も、葉も、根も、種も。
同じ種類でも、日当たりや水の量や土の質で顔が違う。
ちょっとした魔力の流し方で香りも変わるし、根の張り方も違ってくる。
毎日見ていても飽きない。
もっと見たい。もっと試したい。
もっといろんな植物を育ててみたい。
……まあ、そんなことを言ったら父に怒鳴られるのだけれど。
『売れないものを育てる暇があるなら、金になる薬草を増やせ』
いつもの声が頭の中に蘇って、私は小さく息を吐いた。
ここで許されているのは、商会の利益になる植物だけ。
植物に価値があるかどうかを決めるのは、父や母や姉にとっては、どれだけ高く売れるかだけなのだ。
立ち上がると腰が少し痛い。
さすがに朝から夜遅くまで温室や畑で作業をしていると疲れが出る。
でも屋敷に戻って、疲れが取れる茶葉を少し煎じれば大丈夫だろう。
あれも、本当は自分用に改良したものだ。
父に見つかったら、きっと商品にされる。
だから今のところ、私の部屋に少しだけ隠してある。
最後に向かうのは、温室の奥にある小部屋だ。
頑丈な扉の向こうには、商会で扱う植物の種が保管されている。
棚に並ぶ小瓶。布袋に入れられた種。箱に分けられた希少な種子。
これらは、ルーヴェル商会の財産だ。
「今日の分、入れておくわね」
私は両手を胸の前で重ね、ゆっくりと魔力を広げた。
「『健やかなれ』」
淡い緑の光が指先から零れ、部屋の中に満ちていく。
種は眠っているようでいて、生きている。
私はその眠りが濁らないように、ひとつひとつに魔力を通す。
発芽しやすいように。病に弱くならないように。
育った時に、葉も実も香りも落ちないように。
そうして、ようやく全部の種に魔法をかけ終えた。
「……よし」
戸締まりを確認し、温室の鍵を閉める。
屋敷に戻ると、食堂のほうから楽しそうな声が聞こえた。
「あら、そうなの? それは素敵ね」
「ええ、ダニエル様もきっと喜んでくださるわ」
「モニカ、お前は本当に商会の顔として申し分ないな」
父と母と、姉の声。
私は足を止めた。
別に、盗み聞きするつもりはない。
けれど、その声の輪の中に自分がいないことは、あまりにも自然で。
今さら傷つくことでもないはずなのに、胸の奥が少しだけ冷えた。
食堂の扉は半分開いている。
中には、父のダリウスと母のオルガ。そして姉のモニカがいた。
姉は、艶のある赤みがかった茶髪を綺麗に結い上げている。
華やかで、目を引く美貌。明るい場所にいると、本当に絵画みたいに映える人だ。
その笑顔が私に向けられることは、ほとんどないけれど。
ふと、モニカがこちらを見た。笑みが、すっと薄くなる。
「あら、なんか雑草の匂いがすると思ったら帰ってたのね」
……まあ、草の匂いがするのは否定しない。
温室にずっといたし、葉にも土にも触ったし。
(でも、臭いのは否定したい)
「臭いから早く部屋に戻ってくれる?」
モニカは扇で口元を隠し、目だけで私を追い払う。
父も母も、特に何も言わない。その沈黙が答えだった。
「……失礼します」
私は軽く頭を下げて、その場を離れた。
反論したら面倒なことになる。それはもう、何度も学んだ。
廊下を歩きながら、袖口をそっと鼻に近づける。
草の匂いはする。でも、私は嫌いじゃない。むしろ落ち着く。
「臭くは、ないと思うんだけどなぁ……」
小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。
自室に戻ると、私は燭台に火を入れた。
部屋は質素だ。本棚と小さな机と、窓辺に置いた鉢植えがある。
それだけで、私には十分だった。
棚から小瓶を取り出し、茶葉を少しだけ茶器に入れる。
湯を注ぐと、ふわりと柔らかな香りが広がった。
疲れを取るために、いくつかの薬草を調整して作ったお茶だ。
「……はぁ」
一口飲むと、肩の力が少し抜けた。
今日も終わった。
そう思った瞬間、ふと考える。
いつから、こんな生活をしているんだろう。
朝起きて、温室へ行って、商会の商品になる植物の世話をして。
夜遅くに戻って、家族の輪には入れず、自分でお茶を淹れて眠る。
「……三年、か」
十五歳で学園を卒業した後、私は家で植物魔法を活かして働くようになった。
活かして、というと聞こえはいい。
実際は、強制的にやらされているだけだ。
私の植物魔法は、植物の成長を促したり、品質を整えたり、種を改良したりするもの。
学園では、華やかな攻撃魔法や治癒魔法に比べれば地味だった。
だからよく笑われた。
草ばかりいじっている令嬢。雑草令嬢。
その呼び名は、卒業するまでずっと私について回った。
そして卒業後も、家族は私を温室に閉じ込めるように働かせている。
売れる植物を育てろ。高く売れる薬草を増やせ。余計なものを育てるな。
確かに、それも大事だとは思う。
商会をやっている以上、利益は必要だ。
それはわかる……わかるけれど。
「もっと、いろいろ育てたい年頃なのよ」
年頃……いや、年は関係ないかもしれない。
たぶん私は、おばあさんになっても同じことを言っている。
もっといろいろ育てたい。見たことのない種を植えてみたい。
……なのに、現実の私はこの部屋と温室の往復だ。
家を出たら自由になれるのかもしれない。
でも、婚約者もいない私が家を出るのは難しい。
学園を卒業する十五歳までは、婚約者がいた。
ダニエル・ベルフォード。
侯爵家の令息で、金髪に青い瞳の、いかにも物語に出てきそうな人だった。
親同士が決めた婚約だから、恋愛感情があったかと聞かれると困る。
ただ婚約者なのだから、それなりに仲良くできたらいいなとは思っていた。
でも、その婚約は三年前に終わった。
『侯爵家の令息は、あんたなんかじゃもったいないわ』
モニカはそう言って笑った。
その少し後、ダニエルは私との婚約を破棄し、姉のモニカと婚約した。
まあ、姉は華やかだし、社交も得意だし、父と母のお気に入りだ。
私よりずっと侯爵家の令息にふさわしい、と言われればそうなのかもしれない。
『雑草令嬢とか言われている君と婚約していたのが嫌だったんだ。隣にいると臭いし。婚約破棄できて清々しているよ』
でも、ダニエルにそう言われた時は、さすがに少しだけ傷ついた。
恋愛感情はなかったけど、婚約者だった相手にそんなふうに思われていたとは知らなかった。
「いつまで、こんな生活を続けるんだろうなぁ……」
呟いても、答えはない。
私は残りのお茶を飲み干し、明かりを落とした。
明日もまた温室や畑で仕事だ。
そう思いながら、眠りについた。
――そして、翌日。
朝から父の執務室へ呼ばれた。
「ミレイユ」
「はい」
「お前には、グレイハルト辺境伯家に嫁いでもらう」
「……えっ?」
本当に、声が漏れた。
グレイハルト辺境伯家に、嫁ぐ……私が?
「何だ、その不満そうな声は」
父の眉間に皺が寄る。
待ってほしい。
今の「えっ?」は不満ではなく、ただの驚きだ。
「い、いえ。急な話でしたので」
「急も何もない。お前も十八歳だ。貰い手もいない娘を、いつまでも家に置いておくわけにはいかん」
父は書類を机に置き、私を見た。
「相手を見つけてやっただけ感謝しろ」
「……はい」
父の隣にいた母が茶器を置き、微笑む。
その微笑みは柔らかいのに、言葉は冷たい。
「グレイハルト辺境伯家なら、家格としても悪くないわ。まあ、辺境ですけれど」
グレイハルト辺境伯領。
王国の端にある、魔物が多く出る土地。
その影響で作物が育ちにくく、荒れ地も多いと聞いたことがある。
当主のカイン・グレイハルト様は二十五歳。
領地の危険さや忙しさもあって、婚姻から遠のいていたと噂で聞いた。
「だが、向こうは辺境伯だ。お前のような女でも、妻として引き取ると言っている」
「……私のような」
「婚約者もおらず、家に居座っている娘だろう」
胸の奥が少しだけ冷えた。私は思わず口を開いていた。
「私は、仕事をしていますけど」
「仕事?」
「温室や畑の管理を――」
「ただの植物の管理だろう。誰でもできる」
即答だった。あまりにも迷いなく言われて、私は一瞬、言葉を失った。
私が三年、毎日魔力を使って整えてきたことを。
種の状態を見て、土を変えて、水を変えて、魔力の流れを調整してきたことを。
この人たちは、本当に何も見ていない。
いや、見ようとしなかったのだ。
「そう、ですか」
「数日後には出立してもらいます。準備しておきなさい」
「……承知しました」
「ならいい。下がれ」
「失礼します」
執務室を出る。
グレイハルト辺境伯領。
魔物が多い。荒れ地が多く、作物が育ちにくい。
それは、とても大変な場所なのだろう。
普通の令嬢なら、きっと泣くのかもしれない。
でも私は、ふと思ってしまった。
荒れ地。作物が育ちにくい土地。
つまり、まだ何も試されていない土地。
そう考えた瞬間、胸の奥に小さな火が灯る。
いや、だめだ。嫁ぎ先に歓迎されるとは限らない。
でも……もし、少しでも自由に植物を育てられるなら。
それは――。
「ミレイユ?」
考え込んでいた私は、呼び止められて顔を上げた。
廊下の先に、モニカとダニエルがいた。
モニカは赤みがかった茶髪を肩に流し、薄桃色のドレスを纏っている。
隣のダニエルは金髪を綺麗に整え、いかにも貴公子らしい笑みを浮かべていた。
「ああ、聞いたわよ」
モニカが扇を開く。
「あんな死地のような辺境伯領に嫁ぐんですって? あんたもついてないわね」
「……」
「まあ、せいぜい死なないでね。葬儀をするのも面倒だから」
私は何か返そうとして、やめた。
ダニエルが一歩前に出る。
「正直、君が商会からいなくなってくれて助かるよ」
「……助かる?」
「ああ。元婚約者がいつまでも近くにいると、周りの目が気になっていたからね。モニカにも余計な気を遣わせる」
「ダニエル様ったら、お優しいんだから」
モニカが甘えるようにダニエルの腕に触れる。
「本当のことだよ。ミレイユ、君には悪いけれど、これでようやくすっきりする」
悪いけれど。その言葉に、悪いと思っている響きはなかった。
誰も私のことを大事にしていない。
それは知っていた。
でもここまではっきり嫌われていたのだと思うと、胸の奥がじわりと痛む。
「……そうですか。では、私は仕事に行きます」
「まだ仕事をする気なの?」
モニカが呆れたように眉を上げる。
「数日後には出ていくのに?」
「引き継ぎがありますので」
「そんなもの必要ないわよ。種は山ほどあるもの」
扇の向こうで、モニカが笑う。
「あなたがいなくても、商会は困らないわ」
その言葉を聞いた瞬間、私は温室の種保管室を思い出した。
私がいなくなれば、品質は維持できない。
今までも、何度も伝えようとした。
種はただ保管すればいいものではない。
でも父は聞かなかった。母も、モニカも、ダニエルも。
誰も、私の言葉をまともに受け取らなかった。
なら、もういい。
「そうですね。困らないといいですね」
思ったよりも、穏やかな声が出た。
モニカが一瞬だけ目を細める。
「……何よ、その言い方」
「いえ、失礼します」
私は頭を下げ、二人の横を通り過ぎた。
数日後には、私はここを出る。
この温室も、屋敷も、家族も。
それが怖くないと言えば嘘になる。
でも、もし。今より自由に植物をいじれるなら。
好きな種を植えていい場所があるなら。
荒れた土地に、何かを芽吹かせることができるなら。
「……それだけで、十分かもしれない」
私は温室の扉の前で立ち止まり、鍵を握りしめた。
「自由に、育てられますように」
祈るように呟いて、私は温室の扉を開けた。




