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第24話 結婚式


 ルーヴェル家との一件から、一カ月ほどが経った。


 季節は、すっかり春になっていた。

 少し前まで屋敷の庭にも、街の道にも、畑の端にも残っていた雪はもうない。


 辺境伯領にも暖かな風が吹くようになり、冬の厳しさはかなり和らいでいる。


 空気はまだ少し冷たいけれど、それでも朝に窓を開けると、土と若葉の匂いがした。


 春の匂いだ。

 その匂いを胸いっぱいに吸い込むと、自然と頬が緩んでしまう。


 今日は、私とカイン様の結婚式の日だった。


 朝から屋敷の中は慌ただしかった。


 廊下を使用人の方々が行き交い、厨房のほうからは焼きたてのパンや料理の香りが漂ってくる。


 外では兵士の方々が式場の警備や案内の確認をしているらしく、時折、掛け声が聞こえた。


 それなのに、誰も嫌そうな顔をしていない。


 むしろ、皆どこか嬉しそうだった。


「奥様、本日は本当におめでとうございます」

「お式、楽しみにしておりますね」

「領都の皆も朝から浮かれておりますよ」


 すれ違うたびに、そんなふうに声をかけられる。


 奥様、と呼ばれることにはもうだいぶ慣れた。


 でも今日は、その言葉がいつもより少し特別に聞こえる。


 本当に今日から、私はカイン様の妻になるのだ。


 そう思うと、胸の奥が落ち着かなくなる。


「ミレイユ様、ぼんやりしている場合ではありませんよ」


 イーヤにそう言われ、私ははっとした。


「ええ、ごめんなさい」

「お気持ちはわかりますが、本日は準備することがたくさんありますので」


 朝早くから、私は支度部屋に連れていかれていた。


 そこにはイーヤのほかにも、数人の侍女が待っている。


 皆、いつも以上に気合いが入っているように見えた。


「では、まずは髪から整えましょう」

「お肌も少し整えますね」

「ドレスは最後に。皺になってはいけませんから」


 手際よく支度が進んでいく。


 髪を梳かされ、花飾りを合わせられ、顔に薄く紅を差される。


 自分がどんどん花嫁らしく整えられていくのが、なんだか不思議だった。


「ミレイユ様、本当にお綺麗です」


 イーヤが鏡越しに私を見て、少し声を震わせた。


「まだ支度の途中よ?」

「途中でも綺麗です。最後まで整えたら、私は絶対に泣いてしまいます」

「泣くのは早いわ」

「早くありません。今日までのことを思い出すと、もう……」


 イーヤは目元を押さえる。


 それを見て、私は少し笑ってしまった。


 でも、胸の奥は温かかった。


 こうして泣きそうになるくらい、私の結婚式を喜んでくれる人がいる。


 それだけで、すでに十分幸せだった。


 ドレスは、グレイハルト辺境伯領で育てた花をモチーフにした特別なものだった。


 真っ白すぎる布ではなく、少しだけ柔らかな生成り色。


 そこに淡い緑の刺繍が入っている。

 裾には、小さな花と若葉の模様。


 派手ではないけれど、優しくて、温かい雰囲気のドレスだった。


 花飾りにも、私が育てた植物が使われている。


 春に合わせて咲かせた小さな白い花と、淡い黄色の花。


 それから、蜜花草の花も少しだけ。


「私が育てた花で、結婚式を飾れるなんて……」


 思わず呟くと、イーヤが微笑んだ。


「ミレイユ様らしいお式になりますね」

「そうかしら」

「はい。きっと、カイン様も喜ばれます」


 その言葉に、また胸が鳴る。


 カイン様は、どんな顔をするだろう。


 綺麗だと言ってくれるだろうか。

 少しだけ期待してしまう。


「では、最後にこちらを」


 イーヤが、髪飾りをそっと差してくれる。


 淡い花と若葉が、私の髪に添えられた。


「できました」


 そう言われて、私は鏡を見た。


 そこに映っていたのは、見慣れているはずの自分ではなかった。


 淡いはちみつ色の髪を綺麗にまとめ、春の花を飾り、優しい色のドレスを纏った花嫁。


 こんな日が来るとは思わなかった。


 ルーヴェル家にいた頃は、想像もできなかった未来だ。


 温室に閉じ込められるように働いて、家族からは雑草令嬢と呼ばれて、婚約者にも疎まれて。


 そんな私が、こんなふうに祝福されて、花嫁になる日が来るなんて。


「……なんだか、私も泣きそう」

「泣くのはまだ早いです」


 今度はイーヤに言われてしまった。


「そうね。お化粧が崩れてしまうものね」

「はい。でも、少しくらいなら直します」

「イーヤまで泣きそうじゃない」

「私はもう、ずっと泣きそうです」


 二人で少し笑った。


 そうしているうちに、式の時間が近づいてくる。


 私は支度部屋を出て、式場へ向かうことになった。


 屋敷の廊下を歩くと、使用人の方々が立ち止まって頭を下げてくれる。


 中には、目元を赤くしている人もいた。


「奥様、本当におめでとうございます」

「とてもお綺麗です」

「カイン様が見たら、きっと驚かれますよ」


 そう言われるたびに、胸がくすぐったくなる。


 屋敷の外へ出ると、暖かな風が頬を撫でた。


 式場は、屋敷の庭に作られていた。


 冬の間は雪に覆われていた庭が、今はたくさんの花で飾られている。


 小さな白い花。

 淡い黄色の花。

 薄桃色の花。


 どれも、私がこの土地で育てたものだった。


 そこに、領民の方々や兵士の方々、町や村の代表の方々が集まっていた。


 皆がこちらを見る。

 一瞬、緊張で足が止まりそうになった。


 でもすぐに、あちこちから笑顔が向けられる。


「奥様!」

「おめでとうございます!」

「綺麗です!」


 その声に、胸の緊張が少しずつほどけていった。


 皆、笑っている。

 心から祝ってくれている。


 私はそれが嬉しくて、少しだけ泣きそうになった。


 式場の奥には、カイン様が待っていた。


 黒を基調とした礼装姿で、普段よりもさらに凛々しく見える。


 背筋は真っ直ぐで、表情は落ち着いている。


 けれど、私が近づいていくと、カイン様は一瞬だけ固まった。


 普段は何があっても落ち着いているカイン様が、私を見て言葉を失っている。


 それがわかると、恥ずかしいのに嬉しくなった。


「カイン様」


 私がそっと呼ぶと、カイン様はようやく瞬きをした。


「ああ……」


 そして、少しだけ息を吐く。


「綺麗だ」

「……っ」


 真っ直ぐに言われて、顔が一気に熱くなる。


「ありがとうございます」

「本当に、綺麗だ」

「に、二回も言わないでください」

「二回では足りないくらいだ」

「カイン様……」


 周りから、微笑ましそうな気配がする。


 恥ずかしい。

 でも、カイン様の目が優しくて、嬉しくて。


 私は小さく笑った。


 式は、穏やかに始まった。


 私とカイン様は向かい合った。


 周りにはたくさんの人がいるのに、不思議とカイン様だけがはっきり見えた。


「ミレイユ。俺はこれからも、君が育てたいものを自由に育ててほしいと思っている」


 その声は、よく通った。


「君が土に触れ、種を植え、植物を育てる姿を、俺は隣で見ていたい。そのために、これからも君を支えたい」


 胸の奥が、じんわり温かくなる。


 この人は、本当に私を自由にしてくれる。


 好きなものを好きだと言わせてくれる。


 それがどれだけ幸せなことか、私は知っている。


「だから、ミレイユ。これからも俺の隣で生きてほしい」


 私はカイン様を見つめる。


 そして、ゆっくり頷いた。


「はい」


 声が少し震えた。

 でも、ちゃんと言いたかった。


「私は、この辺境伯領が大好きです」


 この土地の寒さも、厳しさも。

 春に芽吹く強さも。

 領民の方々の笑顔も。


 全部、大好きになった。


「カイン様と一緒に、この土地で生きていきたいです」


 カイン様の表情が、柔らかくなる。


「植物を育てて、この土地で暮らして、カイン様の隣で……これからも幸せを育てていきたいです」


 そう言うと、カイン様の目が少しだけ細められた。


 私たちは、誓いを交わした。


 そして、正式に夫婦となった。


 グレイハルト辺境伯家の夫人。

 カイン様の妻。


 その言葉が、ようやく本当に自分のものになった気がした。


 カイン様が、そっと私に近づく。


 誓いの口づけ。


 初めてではないが、これだけたくさんの人の前でとなると、また別の恥ずかしさがある。


「ミレイユ」

「……はい」


 私は目を閉じた。


 唇が、優しく重なる。

 ほんの少しだけ。


 それでも、胸がいっぱいになる。


 以前よりは少し自然にできた気がする。


 でも、やっぱり恥ずかしい。


 唇が離れた瞬間、領民の方々から大きな拍手と歓声が上がった。


「おめでとうございます!」

「カイン様! 奥様!」

「末永くお幸せに!」


 兵士の方々も笑っている。


 普段は厳しい顔をしている人まで、今日は柔らかい表情だった。


 イーヤを見ると、やっぱり泣いていた。


 ハンカチで目元を押さえながら、でも嬉しそうに笑っている。


 それを見たら、私まで泣きそうになった。


 式の後は、祝宴が始まった。


 屋敷の庭には料理が並び、領民の方々にも振る舞われる。


 焼きたてのパン。

 春野菜のスープ。

 根菜の焼き菓子。


 蜜花酒や麦酒も並んでいた。


 どれも、この土地で育ったものから作られている。


 少し前まで、冬を越えるだけで大変だった土地だとは思えないくらいだった。


「奥様のお陰で、今年はちゃんと春を迎えられました」


 年配の女性が、私の手を取ってそう言ってくれた。


「本当にありがとうございます」

「私は少し手伝っただけです。育てたのは皆さんです」

「それでも、奥様がいなければ始まりませんでした」


 そう言われると、やっぱり照れてしまう。


 別の男性も笑顔で声をかけてくれる。


「今年の春は、何を植えるか皆で話しているんです。こんなこと、前は考えられませんでした」

「それは楽しみですね」

「はい。子どもたちも、畑仕事を手伝うと言っています」


 その言葉に、胸が温かくなる。


 私が育てた植物が、誰かの明日を少し楽しみにしている。


 それが、本当に嬉しい。


 祝宴の途中、私はふと庭の端に目を向けた。


 そこには、食魔植物がいた。


 今日は警備として配置されているらしい。


 大きな葉をゆっくり揺らしていて、いつも通り頼もしい。


 ただ、普段と違うところがあった。


 葉の根元に、小さな花飾りがついている。


「……可愛い」


 思わず呟いた。


 隣にいたイーヤが、少しだけ遠い目をする。


「ミレイユ様、本当にそう思われますか?」

「もちろん。花飾りが似合っているわ」

「似合っている……のでしょうか」


 近くにいた兵士の方も苦笑している。


「奥様がそう仰るなら、可愛いのだと思います」

「思っていない言い方ですね」

「いえ、その……頼もしいとは思っております」


 やっぱり、可愛いと思っているのは私だけらしい。


 食魔植物は、こちらの会話を聞いているのか、葉を少し揺らした。


 ほら、やっぱり可愛い。


 その後も、祝宴は賑やかに続いた。


 領民の方々が笑い、兵士の方々が酒を飲み、使用人の方々も嬉しそうに料理を運んでいる。


 カイン様は私の隣にいて、時々私の手を取ってくれた。


 そのたびに胸が跳ねる。


 私たちはもう、夫婦なのだ。

 そう思うと、また顔が熱くなる。


 やがて夜になり、祝宴も終わりを迎えた。


 たくさんの祝福を受けて、たくさん笑って、少しだけ泣きそうになって。


 一日が終わる頃には、体は疲れていたけれど、心はとても満たされていた。


 部屋に戻ると、急に静かになる。


 先ほどまでの賑やかさが遠くなり、夜の空気だけが部屋に残った。


 カイン様と二人きり……そう意識した瞬間、急に緊張してしまう。


「ミレイユ」

「はい」


 カイン様が私の手を取った。


「やっと正式に夫婦だな」

「……はい」


 私は小さく頷いた。


 照れくさい。

 でも、とても嬉しい。


「今日の君は、本当に綺麗だった」

「ま、また言うんですか?」

「ああ。何度でも言いたい」

「カイン様……」


 顔が熱くなる。


 今日だけで何回、綺麗だと言われただろう。


 それでも慣れない。


 カイン様はそんな私を見て、少し楽しそうに笑った。


「照れている顔も可愛いな」

「もう……」


 私は俯く。


 すると、カイン様がそっと私の頬に触れた。

 その手は温かい。


「幸せにする」


 低い声が、静かに響く。


 私は顔を上げた。

 カイン様の灰色の瞳が、優しく私を見ている。


「……はい」


 胸がいっぱいになる。


「私も、カイン様にたくさん幸せを返せるように頑張ります」

「君はもう、十分くれている」

「それでも、もっとです」

「そうか」


 カイン様は柔らかく笑った。


「では、これからも一緒に育てていこう。この土地も、植物も……俺たちの幸せも」


 その言葉に、胸の奥がふわりと温かくなる。


「はい」


 私はカイン様の手を握り返した。


「一緒に、育てていきたいです」


 カイン様は頷き、私をそっと抱き寄せた。


 私はカイン様の胸元に頬を寄せながら、小さく息を吐いた。


 春の夜は、まだ少し冷える。


 でも、カイン様の腕の中はとても温かかった。


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