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第23話 決別


 いつものように落ち着いた表情をしている。

 けれど、その灰色の瞳は少し冷たかった。


 私に向けられているものではない。


 応接室にいる父や母、モニカお姉様、そしてダニエル様へ向けられているものだ。


「カイン様」


 私が呼ぶと、カイン様はすぐにこちらへ歩いてきた。


 父たちは、その姿を見てわずかに怯んだ。


 当たり前かもしれない。


 カイン様はグレイハルト辺境伯家の当主だ。


 しかも、魔物と戦い続けてきた人でもある。


 ただそこに立つだけで、王都の貴族とは違う迫力があった。


 カイン様は私の隣まで来ると、自然な仕草で私の肩の少し後ろに立った。


 その距離が、とても心強かった。


「ルーヴェル伯爵」


 カイン様が静かに父を見る。


「事前の約束もなく訪ねてきたうえに、俺の婚約者へ大声を上げるとは、随分な振る舞いだな」

「そ、それは……」


 父の声が少し詰まった。


 さっきまで私には怒鳴っていたのに、カイン様を前にすると急に声が弱くなる。


 それを見ても、私はもう驚かなかった。


 この人たちは、いつもそうだった。

 自分より下だと思う相手には強く出る。


 けれど、立場が上の相手にはすぐ態度を変える。


 やっぱり、何も変わっていない。


「グ、グレイハルト辺境伯閣下」


 父は咳払いをして、無理に表情を整えた。


「突然の訪問になったことは謝罪いたします。しかし、こちらにも事情がありましてな」

「事情?」

「はい。ミレイユは、もともと我がルーヴェル家の娘です」


 父はそう言って、私を一瞬だけ見た。


 まるで、所有物を指すみたいな視線だった。


「まだ正式な婚姻式は済んでいないと聞いております。ならば、婚約を破棄していただきたい」

「……」

「こちらも、もちろん礼はいたします。必要であれば金も払います。辺境伯家としても、雑草令嬢などと呼ばれている娘を妻に迎えるよりは――」


 そこまで言った瞬間、部屋の空気が冷えた。


 カイン様の表情は変わっていない。


 でも、明らかに空気が変わった。


「今、何と言った?」


 静かな声だった。

 怒鳴ってはいない。


 けれど、父は一瞬で口を閉ざした。


「い、いえ、その……世間ではそう呼ばれていたというだけで」

「雑草令嬢、か」


 カイン様はゆっくりと繰り返した。


 そして、私のほうを見た。


 その視線は、父へ向けたものとは違っていた。


 優しくて、少しだけ心配そうで。


 私は小さく首を振る。

 大丈夫です、と伝えるように。


 カイン様はそれを見てから、また父へ視線を戻した。


「俺はミレイユを愛している」

「……っ」


 父だけではない。

 母も、モニカお姉様も、ダニエル様も息を呑んだ。


 私も、少しだけ胸が跳ねた。

 何度聞いても慣れない。


 カイン様が私を愛していると、こんなふうにはっきり言ってくれることに。


「離す気は毛頭ない」


 カイン様は、はっきりと言い切った。


「金を積まれても、爵位を盾にされても、脅されても同じだ。ミレイユはグレイハルト辺境伯家の者で、俺の妻になる女性だ」

「ですが、まだ正式には――」

「いずれ正式になる」


 カイン様の声が少し低くなる。


「それに婚姻式の有無に関わらず、彼女自身が戻らないと言っている。ならば、それが答えだ」


 父は言葉を失った。


 母が慌てたように口を開く。


「で、ですが、ミレイユはうちの娘です。家族なのですから、家のために戻るのは当然ではありませんか」

「家族?」


 カイン様は少しだけ眉を動かした。


「家族として扱っていた者に、雑草令嬢などと言うのか」

「それは……」

「家族として大切にしていた者を、侍女もつけず、最低限の荷物だけで辺境へ嫁がせたのか」


 母の顔が強張る。


「そ、それは、事情が……」

「現在、ルーヴェル商会が苦しいことは知っている」


 カイン様が静かに言った。


 その言葉に、父たちの顔色が変わった。


「商品不足。品質低下。契約の打ち切り。ベルマン商会をはじめ、他の商会へ顧客が流れていることも」

「っ……」

「それでミレイユを戻したいのだろう。だが、そこまで追い詰められているにも関わらず、下手に出ることすらせず、上から命じる。雑草令嬢などと呼び、金を払うから婚約を破棄しろとまで言う」


 カイン様は、わずかに目を細めた。


「そんな人間と、俺は関わりたいとは思わない」


 父も母も、何も言えなかった。


 モニカお姉様は悔しそうに唇を噛んでいる。


 その横で、ダニエル様が一歩前に出た。


 先ほどまで黙っていた彼は、明らかに顔色が悪かった。


「……ミレイユ嬢」


 婚約者だった人に、雑草令嬢と呼ばれた時は、確かに胸が痛んだ。


 けれど今は、ただ遠い。


「頼む。戻ってきてくれ」


 ダニエル様は、そう言って頭を下げた。


 それを見て、モニカお姉様が目を見開く。


「ダニエル様!?」

「モニカ、黙っていてくれ」

「でも――」

「黙っていてくれ!」


 強い声だった。

 モニカお姉様はびくりと肩を震わせる。


 ダニエル様は顔を上げずに続けた。


「今ならまだ間に合うんだ。君が戻ってきてくれれば、商会は立て直せる。いや、戻るのが嫌なら契約でもいい。正当な報酬は払う。君が望む条件も、できる限り聞く」


 以前の彼なら、こんなふうに頭を下げることはなかっただろう。


 それだけ追い詰められているのだと思う。


 父も母も、ようやく状況を理解したのか、顔を歪めながらも頭を下げようとした。


「ミレイユ……」


 母が震える声で言う。


「お願い。戻ってきてちょうだい」

「そうだ。商会のために……いや、家のために必要なんだ」


 父も唇を噛みながら言った。


 モニカお姉様だけは、最後まで悔しそうだった。


 けれど、ダニエル様に促されるように、ぎこちなく頭を下げる。


「……戻ってきなさいよ」

「モニカ」

「っ……戻って、きてください」


 吐き出すような言葉だった。


 父が頭を下げている。

 母も、ダニエル様も、モニカお姉様までも。


 昔の私なら、きっと動揺したのだと思う。


 あの人たちが自分に頭を下げるなんて、想像もできなかったから。


 でも今、胸にあるのは動揺ではなかった。


 ただ、静かな実感だった。


 この人たちは、私を見ているわけではない。


 私の力を見ている。

 私が育てられる植物を見ている。


 ルーヴェル商会を立て直すための道具として、私を見ている。


 それだけなのだ。


「……戻りません」


 私は静かに言った。

 全員が顔を上げる。


「ミレイユ……!」


 父が声を荒げかけたけれど、私はその前に言葉を続けた。


「私はこれからも、グレイハルト辺境伯領で生活します」

「なぜだ!」

「家族として私を捨てたのは、そちらです」


 部屋が静かになった。


 私は一つひとつ、言葉を選ぶように話す。


「十五歳で婚約破棄された時も、私は何も守ってもらえませんでした。卒業してから三年間、温室で働いても、お礼を言われたことはありませんでした。辺境へ嫁ぐ時も、最低限の荷物だけで、誰も見送りには来ませんでした」

「それは……」

「戻ってきてほしいのは、私が家族だからですか?」


 私は父を見る。

 母を見る。

 モニカお姉様を見る。


 そして、ダニエル様を見る。


「それとも、植物を育てる力が必要だからですか?」


 誰も答えなかった。

 答えられないのだろう。


 その沈黙が、答えだった。


「私はもう、植物を育てるための道具ではありません」


 自分でも、こんな言葉が出てくるとは思っていなかった。


 けれど、それは確かに本心だった。


「私は、私が育てたいものを育てます。大切にしたい人たちのために、植物を育てます」


 私の隣で、カイン様が静かに立っている。


 その存在が心強い。


「だから、戻りません」


 父の顔が歪む。

 母は力なく椅子に沈み込んだ。


 モニカお姉様は、悔しそうに扇を握りしめている。


 ダニエル様だけは、どこか絶望したような顔をしていた。


 カイン様が一歩前に出た。


「話は終わったな。お帰りはあちらだ」


 扉のほうへ視線を向ける。


「もう二度と、俺の妻を利用しようとしないことだ」

「……っ」


 父が何か言いかけた。


 けれど、カイン様の目を見て口を閉ざした。


 使用人が扉を開ける。


 父たちは、何も言えないまま立ち上がった。


 モニカお姉様は最後まで私を睨んでいた。


 けれど、私はもう目を逸らさなかった。


 ダニエル様は、部屋を出る直前に一度だけ振り返った。


 何か言いたそうだった。

 でも結局、何も言わなかった。


 扉が閉まる。

 足音が遠ざかっていく。


 部屋の中に、静けさが戻った。


 私はその場に立ったまま、小さく息を吐いた。


 昔の自分が、ようやく遠くへ行ったような気がした。


「ミレイユ」


 振り返ると、彼は少し申し訳なさそうな顔をしていた。


「来るのが遅れてすまない」

「いえ。大丈夫です」

「本当か?」

「はい」


 私は小さく笑った。


「怖いとは、思いませんでした」

「そうか」

「でも……少しだけ、勇気は必要でした」


 そう言うと、カイン様の表情が柔らかくなった。


「よく頑張ったな」


 大きな手が、私の頭をそっと撫でる。


 その瞬間、胸の奥にあった緊張がほどけた。


 そしてカイン様が私を優しく抱きしめてくれた。


 その腕の中は温かい。


 さっきまでの応接室の冷えた空気が、少しずつ遠ざかっていく。


「ありがとうございます、カイン様」


 私は彼の胸元に額を寄せた。


「カイン様のお陰です」

「俺は何もしていない。君が自分で言ったんだ」

「でも、隣にいてくださったから」


 私はそっと目を閉じる。


「ちゃんと言えました」


 カイン様の腕に、少しだけ力がこもった。


「ああ。君はもう、自由だ」


 その言葉に、胸が温かくなる。


 私は小さく頷いた。


 そうだ。

 私はもう、あの温室に戻らなくていい。


 この土地で、好きな植物を育てて生きていける。


 カイン様の隣で。

 グレイハルト辺境伯領で。


「……はい。私は、ここで生きていきます」


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カインからすると、嫁泥棒でしかない件
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