第25話 育んでいく
結婚式から、数週間が経った。
辺境伯領は、すっかり春になっていた。
窓の外からは、鳥の声が聞こえる。
庭では若葉が揺れていて、遠くの畑には柔らかな緑が広がっていた。
「……ん」
私は寝台の中で、ゆっくりと目を開けた。
最初に見えたのは、見慣れた天井。
そして、その次に感じたのは、すぐ隣にある温もりだった。
以前は、一人で眠って、一人で目を覚ますのが当たり前だった。
ルーヴェル家にいた頃は、自室で一人、お茶を飲んでから眠っていた。
朝になれば、誰かに声をかけられる前に温室へ向かう。
それが、当たり前だった。
でも今は違う。
隣には、カイン様がいる。
……いえ、もう夫婦なのだから、カイン様ではなく、カインと呼ぶべきなのかもしれない。
けれど心の中では、まだ時々カイン様になってしまう。
私はそっと横を向いた。
カイン様はまだ眠っている。
髪が少し乱れていて、普段の凛々しい表情よりも、少しだけあどけなく見えた。
目を閉じていると、いつもの鋭さが和らいで、とても静かな顔になる。
……綺麗な寝顔だと思う。
そう思った瞬間、急に恥ずかしくなった。
私は慌てて視線を逸らそうとしたけれど、もう一度だけ見てしまう。
寝顔を見るだけで、胸が温かくなるなんて。
少し前の私なら、きっと信じられなかった。
「……起こさないようにしないと」
小さく呟いて、私はそっと起き上がろうとした。
けれど、その瞬間。
腰に回っていた腕に、くいっと引き寄せられた。
「きゃ……」
小さな声が漏れる。
気づけば、私はまたカイン様の腕の中に戻されていた。
「……どこへ行くんだ?」
低い声が、すぐ近くで聞こえた。
まだ少し眠そうな声だった。
「お、起きていたんですか?」
「今、起きた」
「起こしてしまいましたか?」
「いや。君がいなくなりそうだったから、起きただけだ」
「いなくなりそうって……朝ですし、支度をしようと思っただけです」
「まだ早い」
カイン様はそう言って、私を抱き寄せたまま目を閉じる。
近い……近いけれど、もう以前ほど慌てなくなっている自分がいる。
それでも、胸はちゃんと高鳴る。
「カイン様」
「何だ?」
「そろそろ起きないと、朝食の時間が……」
「少しくらい遅れてもいい」
「よくないです。今日も畑を見に行きたいですし」
「やはり畑か」
カイン様は少しだけ笑った。
「結婚しても、君は変わらないな」
「変わりましたよ」
「そうか?」
「はい」
私はカイン様の胸元に手を添えながら、小さく笑った。
「前よりも、朝起きるのが少し楽しみになりました」
そう言うと、カイン様が目を開けた。
灰色の瞳が、すぐ近くにある。
「それは、俺が隣にいるからだと受け取ってもいいか?」
「……」
顔が熱くなる。
朝から、そういうことを言う。
「……はい」
小さく答えると、カイン様はとても満足そうに笑った。
「ふふっ、そうか」
「笑いすぎです」
「嬉しいからな」
その言葉に、また胸が温かくなる。
しばらくそのままでいたかったけれど、本当に朝食の時間が近づいている。
私はどうにかカイン様の腕から抜け出して、身支度を整えることにした。
その後、二人で朝食の席へ向かった。
食堂には、焼きたてのパンと春野菜のスープが用意されていた。
パンは、冬小麦から作られたものだ。
冬の間に育てた小麦は、春になっても順調に広がっている。
「北の村からも報告が来ていたな」
カイン様がパンを手に取りながら言う。
「はい。冬小麦は問題なく根づいているそうです。土を良くする植物も、かなり効果が出ているみたいで」
「今年の収穫は、去年とは比べものにならないだろうな」
「そうなると嬉しいです」
私はスープを一口飲んだ。
少し前まで、野菜は貴重だった。
冬に新鮮な野菜を食べられること自体、難しかったと聞いている。
それが今では、朝食のスープに当たり前のように入っている。
そう思うと、胸の奥がじんわり温かくなった。
蜜花酒も人気になっている。
最初は少量だけ作ったものだったけれど、香りが良く飲みやすいと評判になり、ベルマン商会を通じて他領にも少しずつ出荷され始めていた。
少しずつ、辺境伯領の新しい商品になっている。
食魔植物も、すっかり定着していた。
最初は皆、見た目に怯えていたけれど、魔物被害が大きく減ったことで、今では頼もしい存在として受け入れられている。
ただ、可愛いと思っているかは別らしい。
それは少し残念だ。
「今日はどこへ行く?」
カイン様が尋ねる。
「まずは屋敷の裏庭です。その後、領都の東側の畑を見に行こうと思っています」
「新しい植物の様子を見るのか」
「はい。芽が出ているかもしれません」
「では、俺もあとで行こうかな」
「お仕事は?」
「午前の書類は早めに片づける。君が新しい植物を見ている時の顔を見たいからな」
「……そんな理由でいいんですか?」
「十分な理由だ」
カイン様は真面目な顔でそう言った。
私はまた顔が熱くなる。
本当に、前よりずっとこういうことを言うようになった気がする。
嫌ではないし、むしろ嬉しい。
朝食を終えると、私はさっそく畑へ向かった。
屋敷の裏庭は、最初に私が種を植えた場所だ。
あの頃は、痩せた土と荒れた空き地だった。
けれど今は、いくつもの区画に分けられ、さまざまな植物が育っている。
春の日差しを受けて、葉がきらきらと光っていた。
「うん、今日も元気ね」
私はしゃがみ込み、土に触れる。
柔らかい。
冬の冷たさを越えて、土も少しずつ春の顔になっている。
新しく育てているのは、特産品になりそうな植物だった。
小さな花を咲かせる予定の植物で、花の蜜と香りが強い。
蜜花草とは違う香りで、お酒にも菓子にも使えるかもしれない。
さらに、乾燥させた花弁は香り袋にも使えるはずだ。
うまく育てば、辺境伯領の新しい商品になる。
「もう少し、根に魔力を馴染ませたほうがいいかしら」
私は葉の先を見ながら、そっと魔力を流した。
「『健やかなれ』」
淡い緑の光が、土の中へ沈んでいく。
植物が、少しだけ葉を揺らした。
返事をしてくれたみたいで、私は笑ってしまう。
「奥様!」
その時、元気な声が聞こえた。
顔を上げると、領民の子どもたちが数人、庭の入口からこちらを覗いていた。
「あら、どうしたの?」
「お母さんに届け物を頼まれました!」
「あと、奥様が何を育ててるのか見に来ました!」
「こら、正直に言いすぎ」
子どもたちはわいわいと話しながら近づいてくる。
私は受け取った小さな籠をイーヤに渡した。
「ありがとう。これは?」
「春野菜です。母さんが、奥様に見てほしいって」
「まあ、立派に育っているわね」
籠の中には、みずみずしい葉物野菜が入っていた。
葉の色もいいし、香りも爽やかだ。
きっと丁寧に育てたのだろう。
「すごく上手に育てていますって、お母さんに伝えてくれる?」
「はい!」
子どもが嬉しそうに笑う。
その隣の子が、私の後ろの畑を覗き込んだ。
「奥様、今度は何を育てるんですか?」
「これ?」
「はい!」
子どもたちが目を輝かせている。
私は少し考えてから、にこりと笑った。
「まだ秘密です」
「ええー!」
「教えてくださいよ!」
「ちゃんと育ったらね。うまくいけば、美味しいものになるかもしれないわ」
「美味しいもの!」
その言葉に、子どもたちの目がさらに輝いた。
「じゃあ、絶対育ててください!」
「食べたい!」
「ふふっ、頑張るわ」
子どもたちはしばらく畑を見てから、元気に走っていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
子どもたちが、次に何が育つのかを楽しみにしてくれている。
この土地で、植物が育つことを当たり前に楽しみにしている。
それが、嬉しかった。
「ミレイユ」
不意に声がして、私は振り返った。
カイン様が庭に立っていた。
少し呆れたような声なのに、表情はとても優しい。
「カイン様、今から新しい種を植えますよ」
私がそう言うと、カイン様は小さく笑った。
「君らしいな」
「そうでしょうか」
「ああ。とても君らしい」
カイン様は私の隣まで来て、畑を眺める。
その横顔を見て、私はふと、ルーヴェル家にいた頃を思い出した。
あの頃、私は自分の未来なんて想像できなかった。
温室で毎日決められた植物だけを育てて、夜遅くに部屋へ戻り、自分でお茶を淹れて眠る。
明日も同じ日が来るのだと思っていた。
ずっと、そうやって生きていくのかもしれないと思っていた。
でも、今は違う。
私はこの土地で生きている。
この土地で植物を育てている。
領民の方々と笑い、子どもたちに次の植物を期待され、カイン様と一緒に朝を迎えている。
そして何より、大好きな人が隣にいる。
「ミレイユ」
「はい?」
カイン様が、そっと私の手を取った。
大きくて温かい手。
私は自然と握り返す。
「幸せか?」
静かな問いだった。
私は少しだけ驚いて、それから笑った。
「はい。とても」
「そうか」
「カイン様は?」
「俺も幸せだ」
迷いのない答えだった。
その言葉に、胸がいっぱいになる。
私はもう、一人ではない。
隣には、カイン様がいる。
この土地には、私を待ってくれている人たちがいる。
「カイン様」
「何だ?」
「今日の午後、領都の畑にも行きたいです」
「やはり行くのか」
「はい。東側の畑の様子も気になりますし、子どもたちが持ってきてくれた春野菜の育ち方も確認したいので」
「では、一緒に行こう」
「お仕事は?」
「早めに片づけると言っただろう」
「ありがとうございます」
私は笑った。
するとカイン様は、私の手を握ったまま、少しだけ身を屈める。
額に、柔らかな口づけが落ちた。
「君が楽しそうに植物を育てているところを見るのは、俺の楽しみでもあるからな」
「……また、そういうことを言う」
「本当のことだ」
顔が熱くなる。
私はカイン様の手を、もう一度しっかり握り返した。
――「雑草令嬢」と呼ばれた私は、今も植物を育てている。
この大好きな辺境伯領で。
大好きな人の隣で。
そしてこれからも、この幸せを育て続けていくのだ。
ここでひとまず完結です!
最後まで読んでいただきありがとうございます!
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