第8話 【洗濯魔法】で暗殺者を丸洗い
人は、愛してやまない推しが順調に育っているときほど、物語の不穏なフラグに敏感になる生き物である。
なぜなら、フィクションのシナリオとは総じてそういうものだからだ。
幸福が少しずつ積み上がり、プレイヤーが「ああ、よかった」と油断した頃を見計らって、唐突に最悪のイベントを差し込んでくる。
ようやく前を向いて笑い始めた推しの足元をすくい、その美しい頬へ再び絶望の影を落とそうとしてくる。
本当に性格が悪い。誰だこの鬼畜シナリオを書いたのは。前世で私の最推しに親でも殺されたのか? いや、知ってる。たぶん制作陣に悪気はなく、ただ「悲劇を乗り越える尊さ」を描きたかっただけなのだろう。だが、悪意がなくてこの仕打ちなら、なおのこと業が深すぎる。
そして今の私は、その“嫌な気配”を、わりとはっきりと肌で感じていた。
夜の厨房。
使用人たちの夕食の片づけも終わりかけ、さっきまでの戦場のような慌ただしさが嘘みたいに静まり返っている。
ピカピカに磨き上げられた鍋や皿が棚に収まり、窓の外には月明かりすらない深い夜の気配が沈んでいた。
私は一人、明日の朝食用に仕込んでおいた特製バフスープの下ごしらえを確認していた。
もちろん、すべてはレオン様のためである。
この数日、成長著しい最推しへよりよい栄養(と魔力)を安定供給すべく、私は厨房における発言権と実務権限を、かなり地道に、しかし着実にゴリ押しして拡張してきた。
お掃除魔法で衛生面での評価を上げ、毒素変換魔法で料理の実績を積み、裏山から極上のSランク食材を調達し、さりげなく“北棟の食事担当ならあの有能メイド”という圧倒的な空気を作ってきたのだ。
努力は実る。
推しのための努力なら、なおさら結果は裏切らない。
そうして私は、今や誰に咎められることもなく、かなりの頻度で厨房へ出入りできるようになっている。
つまり何が言いたいかというと、推しの『食環境防衛ライン』が、完全に私主導で制圧できたということだ。
よし。
実にいい。
素晴らしい。
……なのだが。
だからこそ、敵も焦って次の手を打ってくる。
私はふきんを動かす手を止めて、ふと背後を振り返った。
誰もいない。
はずなのに、首筋をなぞるような妙な感じがする。
空気が、少しだけ重い。
物陰に『絶対にそこにあってはいけない何か』が潜んでいるような、いやな張りつめ方。
これは、あれだ。
掃除魔法や解毒魔法を使う時に感じる“不浄な汚れ”や“悪意”と、まったく同じ質感。
「……来るな、これは」
ぽつりと呟く。
限界オタクのゲーム知識をたぐれば、この時期あたりから、追い詰められた継母の手口は少しずつ直接的かつ凶悪になっていく。
陰湿な食事への細工だけではなく、外部の手(暗殺ギルドなど)を借りた“事故”や“襲撃未遂”めいた物理的イベントも増えていく時期だ。
本来のルートなら、まだ幼いレオン様がひとりで夜道を歩かされるとか、見回りの死角へ誘導されるとか、そういう形で彼自身が直接狙われるイベントである。
けれど、今は状況が違う。
レオン様の部屋には、私の放った国宝級の絶対防御結界がある。
食事は私が毒をすべてバフへ変換している。
最強の剣の師もついた。
公の場では先日の御前試合で、無能という評価が完全に覆りつつある。
つまり、継母側からすれば、レオン様本人に手を出すのは相当やりづらいはずなのだ。
――だから、狙うなら“邪魔なモブメイド(私)”かもしれない。
そこまで思い至った瞬間、背筋がひやりと冷えた。
いやいや、待って。
それ、普通に怖くない?
推しのためにがんばる敏腕モブメイド、とうとう敵対勢力から「あいつ邪魔だから先に消そうぜ」判定を受けた可能性がある。
うわ、物語のヘイト管理的にはだいぶ名誉なことなんだけど、現実に降りかかると一ミリもうれしくない!
私はそっと、手近な調理台の上へ視線を走らせた。
重い鉄鍋、固く絞った布巾、水差し、たっぷりと水が入った大きな木桶。
生活魔法の媒体になりそうなものは、いくらでもある。
うん。
たぶん大丈夫。
何が来ても、たぶんどうにかする。いや、どうにかするしかない。
だって私は、無自覚チートな家事魔法でここまで無双してきた女だ。
汚れも猛毒も呪いもSランク魔物も、根こそぎ片づけてきたのだ。今さら人間の暗殺者数人が相手なら、たぶん……いや、できれば“数人”で済んでほしいな。十人とか来たら普通に泣くぞ。
その時だった。
かすかに。
きぃ……と。
厨房の裏口の扉が、油を差したように音を立てずに開いた。
私は息を殺した。
入ってきたのは、一人ではなかった。
闇に溶け込むような黒ずくめの影が、三つ。
いや、四つ。
顔の半分まで覆った軽装の男たちが、足音ひとつ立てずに厨房へ滑り込んでくる。
床を擦らない無音の歩法。腰に帯びた使い込まれた短剣。迷いなく私を捉える鋭い視線。
あ、これ。
プロの本職だ。
私は内心で全力の悲鳴を上げた。
いや待って待って待って!
本当にガチの暗殺者来た!
うわあ、やっぱりゲームの“外部委託の害意”って実在したんだ!
しかも思ったより来るの早いし、思ったよりだいぶ装備が物騒だし、何より今ここにいるの、か弱いメイドの私だけなんですが!?
やめてくれ。私は戦闘職ではない。戦闘職ではないが、推しのためなら家事職のまま戦場を更地に片づけに行く女ではある。くっ、こんなところで私の能力の拡大解釈が試されるとは。
黒ずくめのひとりが、低く、這うような声で言った。
「……例の邪魔なメイドだな」
「生かしておくな、か」
「ああ。小僧を殺る前に、口封じと見せしめが先だ」
あ、駄目だ。
完全に私狙いだ。
めちゃくちゃ邪魔な存在としてロックオンされてる。
でも。
それはつまり、私がちゃんとレオン様の盾になれているということでもある。
怖い。
普通に死ぬほど怖い。
足も少しガクガクと震えている。
前世の平和な一般日本人としては、黒ずくめの暗殺者に深夜の厨房で包囲される人生なんて一ミリも想定していなかった。
でも、だからといってここで背を向けて逃げるわけにはいかない。
私はそっと、深く息を吸い込んだ。
「……あのう」
できるだけ穏やかに、営業スマイルで声を出す。
暗殺者たちが、予想外の声にぴたりと止まる。
たぶん、私が恐怖で悲鳴でも上げて腰を抜かすと思っていたのだろう。
「……何だ。命乞いか?」
低い声が返る。
私はにっこりと笑った。
「いいえ。厨房という神聖な場所で、泥のついた靴で刃物を振り回すのは、衛生的にどうかと思うんです」
「……は?」
「あと、土足でそこまで入り込まれると、今せっかく磨き上げた床が台無しでして」
「ふざけているのか。恐怖で頭でもおかしくなったか」
「もともと推しに関しては、少々狂っておりますので」
そこまで言って、私はそっと、横にある水を張った木桶へ両手を添えた。
水。
洗う。
頑固な汚れを落とす。
不要なものを綺麗に流す。
布を洗濯し、泥を落とし、染みついた悪臭も悪意も穢れも、すべてを洗い流す!
そう。
私はただ、深夜の掃除と洗濯がしたいだけだ。
厨房をきれいにしたいだけ。
不潔な侵入者を、まとめてきれいに洗い流したいだけ!
「――【洗濯魔法(水流回転・強)】!!」
次の瞬間。
木桶の中の水が、ありえない水圧と勢いで天高く持ち上がった。
「なっ――!?」
どごぉぉぉんっ!! と。
まるで意思を持った水の竜みたいに、凶悪な水流が暗殺者たちへ襲いかかる。
いや、襲いかかるというより、包み込んだ。
巨大な透明の水の球体が一瞬で膨れ上がり、四人まとめて空中に飲み込む。
「ごぼっ!?」
「なんだ、こ――っ!」
「くっ、息が、魔法か――!」
私は目を見開いた。
うわ。
すごい。
やっぱり私の家事魔法、出力がおかしい。
しかも予想以上に『全自動洗濯機』っぽい動きだ。
巨大な水球の中で、暗殺者たちの身体がぐるぐると回転し始めた。
本当に、洗濯槽の中に放り込まれた洗濯物みたいに。
袖や裾を強烈な水流で引っ張られ、武器は手からすっぽ抜け、顔を隠していた黒い頭巾まで半分ひっぺがされる。
しかも水流はただ激しいだけではないらしく、彼らの身体にまとわりついたドス黒い殺気や魔力の気配まで、洗剤で分解するようにじわじわと削り取っている感じがした。
なにこれ怖い。
家事魔法、戦闘に便利すぎて怖い。
でも今はありがたい。非常にありがたい。
「ちょ、ちょっと静かにしていただけます?」
私は反射的に、近所迷惑を気にする主婦のように言った。
「夜ですので。お静かに願います」
「ごぼぼぼぼっ!!」
「あと、刃物やワイヤー類は危ないので、先に没収させていただきますね」
言葉に反応したのか、水球の中で短剣や暗器が次々と弾き飛ばされた。
からん、からんっ、と床へ落ちる音が、妙に軽やかだ。
そして極めつけに、水球が一度きゅうっ! と小さく収縮したあと――
ぶわんっ!! と。
凄まじい遠心力を伴う『脱水・高速回転』を始めた。
「うわああああ!?」
「や、やめ――っ、目が回――っ」
「ま、待て、降参、降参するから――っ!!」
遅い。
もう最高速度で回っている。
全自動回転式洗濯槽(魔法仕様)の本気である。
暗殺者たちは巨大な水球の中で、見事なまでにぐるんぐるん回された。
右へ左へ、上へ下へ。
黒ずくめの布が翻り、手足が無様にばたつき、すべての戦意と殺意と悪意が、文字通り綺麗さっぱり『漂白』されて洗い流されていく。
「…………」
私は木桶に手を添えたまま、しばし無言になった。
すごい。
想像の三倍くらいえげつない。
いや、もはや若干かわいそうですらある。
でも先にこっちを殺しに来たのはそっちなので、情状酌量は一切しない。
推しの平和な生活環境を守るためなら、私は今日もきれい好きの暴力を躊躇しないのだ。
数十秒後。
水球がぱしゃんっ! と弾けてほどけた。
四人の暗殺者は、綺麗に磨かれた床の上へまとめて転がり落ちる。
黒装束は洗剤の香りがしそうなほどずぶ濡れ、武器はすべて没収済み、しかも全員、盛大に目を回してカニのように泡を吹いていた。
「終わった……?」
私はおそるおそる近づいた。
生きてる。
ちゃんと息をして生きてる。
ただし完全に戦闘不能。
しかもなんだろう、妙にさっぱりしている。
顔の汚れも落ちているし、服についた泥も半分くらい消えている。ついでにどス黒かった殺気まで、嘘みたいに薄くなっている気がする。
すごいな洗濯魔法。
物理的にも精神的にも、だいぶ“漂白”してないか?
その時だった。
ばぁんっ!! と。
厨房の扉が、壊れそうな勢いで開く。
「クロエ!!」
飛び込んできたのは、レオン様だった。
私はぎょっとした。
だめだ。
来ちゃった。
来てほしくなかった。いや最推しには常に会いたいわけじゃないんですけど! むしろ二十四時間見ていたいんですけど! そういう意味ではなく、危険的な意味で!
「レオン様!? どうしてここに――」
「気配がした」
短く、低い声だった。
その声のトーンに、私は一瞬、息を呑んだ。
いつものやわらかく幼い響きではない。
極限まで張りつめた、鋭い声。
殺気、とまではいかない。
でもそれに近い冷たい何かが、まだ幼いはずのその輪郭に宿っている。
レオン様は床に無様に転がる暗殺者たちを見て、蒼い瞳をすっと氷のように細めた。
「……こいつらが?」
「え、ええと、はい。たぶん」
「クロエに、何かした?」
その問いは、静かだった。
静かすぎて、逆に背筋が冷えるほどに。
私は慌てて両手を振った。
「いえ! される前に私が洗いました!」
「……洗った?」
「はい。ちょっと強めの水流で」
「……そう」
レオン様は数歩、暗殺者たちへ近づいた。
その足取りに一切の迷いや恐怖はない。
小さな背中なのに、今だけは妙に、恐ろしいほど大きく見える。
ひとりの暗殺者が、気絶しながらかすかにうめいた。
するとレオン様の目が、ぞくりとするほど冷酷に細められた。
「……僕のクロエを、狙ったんだ」
「レオン様」
私は反射的に、強く呼びかけた。
その声に、彼が振り返る。
蒼い瞳の奥に宿った危うい冷気が、わずかに揺れる。
ああ。
だめだ。
たぶん今、この子の中で何かがはっきりと『一線』を越えかけている。
自分ではなく、私が狙われた。
それが、この子にとって想像以上に許せない、怒りのトリガーなのだ。
それは嬉しくもある。
私を大切に思い、守りたいと思ってくれているのだとわかるから。
でも同時に、危うい。
あまりにも危うすぎる。
私はゆっくり息を整え、できるだけやわらかく、いつものメイドの声を出した。
「大丈夫です」
「……でも」
「私は無事です。ほら、ちゃんとピンピンして立っております」
「……」
「それに、今夜のお洗濯はすでに完了しましたので」
最後の一言は、少しだけ冗談めかして言った。
そうしないと、この場の空気が彼の怒りであまりにも張りつめすぎると思ったからだ。
すると、レオン様はしばらく私をじっと見つめ――やがて、ぎゅっと唇を結んだ。
「……よかった」
その声は、さっきまでの冷酷なものではなく、ずっと幼く震えていた。
その瞬間、私は胸がぎゅっと締めつけられた。
ああ。
怖かったんだ。
この子も。
私が傷ついたかもしれないと想像して、本能的に怖かったのだ。
私はそっと近づき、しゃがみ込んで彼の目線に合わせた。
「ご心配をおかけして、申し訳ありません」
「……心配した」
「はい」
「すごく、こわかった」
「……はい」
レオン様の小さな手が、ぎゅっと私のエプロンの袖を掴んだ。
「クロエが、いなくなるの、絶対にいやだ」
あまりにも率直で、悲痛なその言葉に、私は一瞬、言葉を失う。
重い。
いや、重いなんてものではない。
でも、その重さの中にあるのは、幼い子どもの剥き出しの恐怖と執着だ。
暗闇の中でようやく見つけた光(私)を失うことへの、本能的な拒絶。
私はやさしく笑った。
胸の奥がきゅうっと痛んだまま、それでも。
「いなくなりません」
「……ほんとに?」
「はい。深夜の洗濯くらいでは、私は負けませんので」
「……そこ?」
少しだけ、呆れたような響きが混じる。
よし。
少し戻った。
この子のあたたかい温度が、ちゃんと戻ってきた。
私はこっそり、安堵の息を吐いた。
◇ ◇ ◇
その後、騒ぎは当然大きくなった。
夜の厨房で正体不明の完全武装した侵入者が四人も転がっていれば、隠し通せるわけがない。
見回りの騎士たちが駆けつけ、屋敷は一時騒然となった。
公爵も、継母も、寝間着のまま慌てて顔を出した。
継母は最初こそ「まあ、恐ろしい!」と芝居がかった驚きを見せていたが。床に転がる暗殺者たちの惨状――いや、“洗い上がり”を見た瞬間、さすがに目の端がひくひくと引きつっていた。
無理もない。
だって、普通の暗殺失敗ならまだしも、
「標的のモブメイドに、なぜかまとめて全自動で丸洗いされて戦闘不能」
なんて報告、どこの暗殺ギルドが予想できるだろう。
私だって予想していなかった。
「これは、一体……何があったというのです?」
継母が絞り出すように言う。
私はメイドらしく、控えめに一礼した。
「不審者が厨房へ侵入してまいりましたので、私がお掃除のついでに対処いたしました」
「ただのメイドのあなたが!?」
「はい」
「どうやって」
「洗濯で」
「……は?」
場が静まり返った。
知ってる。
そうなるよね。
わかる。
でも事実なんです。
私はできるだけ真面目な顔で続けた。
「水を使って取り押さえたと申しますか……結果的に、少々『脱水の回転』が強くなりまして」
「回転……?」
「はい」
「意味がわからないわ!」
「私も時々そう思います」
また本音が漏れた。
公爵が深く眉を寄せる。
継母は何かヒステリックに言い返したそうにしているが、状況が状況なので強く出られない。
何しろ、プロの暗殺者が入ってきたのは紛れもない事実であり、しかも私は無傷で、レオン様も無事。
ついでに侵入者は全員、綺麗にされて確保済みだ。
文句のつけようがない完璧な防衛である。
その時、レオン様が一歩、静かに前へ出た。
「こいつらは、クロエを狙ったんだ」
静かな声だった。
けれど、昼間の訓練場の時とはまた違う、冷たい圧があった。
「……レオン」
公爵が名を呼ぶ。
レオン様は父をまっすぐ見た。
「結界で北棟へ近づけないから、先に僕のクロエを排除しようとした」
「……証拠はあるのか」
「なくても、わかる」
「憶測で――」
「憶測でも、事実は変わらない」
場の空気がビリッと張りつめる。
私は内心で息を呑んだ。
強い。
この子、本当に強くなった。
剣だけじゃない。
こうして、自分の大事なものを守るために、臆することなく言葉を前へ出せるようになっている。
でも同時に、やっぱり危うい。
その刃の向きが“自分を傷つけた相手”ではなく、“私を脅かした相手”に向くとき、この子の感情はたぶん、底なしに深く、重くなる。
継母がかっとなったように声を張り上げた。
「そんな言いがかりを! 私が差し向けたとでも言うの!?」
その瞬間。
ぎしっ、と。
厨房の床が鳴った。
いや、違う。
床ではない。
北棟の結界と同じ、あの『物理的な圧』だ。
厨房の空気が一瞬にして極限まで張りつめ、継母の足元へ細い白金の火花がバチッ! と散った。
彼女がひっ! と悲鳴を上げて後ずさる。
私は目を瞬かせた。
えっ。
今の何?
レオン様?
見ると、彼の周囲の空気がほんのわずかに陽炎のように震えていた。
本人は無自覚らしい。
でも明らかに、強大な魔力が漏れ出ている。
私を害そうとする敵意への『怒り』に反応して。
うわ。
まずい。
これはまずい。
将来的には魔法も超強いのは知ってるけど、現時点で怒りに引っ張られて魔力が表へ暴走するのは、周囲の過剰な警戒も買うし、なにより本人の心にいいとは言えない。
私はすぐに彼のそばへ寄り、そっと袖へ触れた。
「レオン様」
「……」
「大丈夫です」
「……でも」
「私はここにいます」
「……」
その言葉に、震えていた空気が少しずつ、凪ぐように静まっていく。
よかった。
間に合った。
レオン様はゆっくり息を吐き、視線を落とした。
その横顔には、悔しさと怒りと、消しきれない恐れが入り混じっていた。
私は胸の奥で、そっと誓う。
この子に、こんな思いを何度もさせない。
守られるだけじゃなく、自分の力で守れるようにはしていく。
でも、その過程で心まで冷酷に凍らせはしない。
絶対に。
◇ ◇ ◇
騒ぎが落ち着いたのは、夜もだいぶ更けてからだった。
暗殺者たちは屋敷の地下牢へ送られた。
もっとも、その前に私の洗濯魔法でだいぶ戦意も気力も削がれていた(漂白されていた)らしく、ろくな抵抗もできなかったらしい。
なんだろう。
身体の汚れだけじゃなく、害意まで柔軟剤でふわっとさせてしまったのだろうか。
便利だけど怖いな、私の家事魔法。
私は北棟の自室へ戻り、ようやく一息ついたところで、扉を控えめに叩く音を聞いた。
開けると、そこには寝間着姿のレオン様がいた。
「どうされました?」
「……ねむれない」
小さな声で言う。
ああ。
そうだよね。
今日は、彼にとっても十分すぎるほど嫌な夜だった。
私は何も言わず、彼を部屋へ招き入れた。
浄化結界に守られた室内は、やわらかな灯りに包まれている。
窓辺にはエリクサーの小さな花瓶。
ベッドの上にはふかふかの毛布。
あの日の冷たい地下室とは、もう違う。
でも、過去のトラウマや恐怖が完全に消えるわけではないのだ。
レオン様はベッドの端へ腰かけ、少しだけ俯いた。
「……クロエ」
「はい」
「僕、さっき、すごく嫌だった」
「……はい」
「あなたが、いなくなるかもしれないって思ったら……」
そこまで言って、彼は言葉を切った。
私は静かに待った。
やがて、彼はぽつりと、暗い声で続ける。
「……あいつら、全部、こわしたくなった」
私はゆっくり息を吸った。
隠さなかった。
この子は今、自分の中の危うい破壊衝動を、ちゃんと私に見せてくれた。
それは絶対の信頼だ。
同時に、すごく大事な分岐点でもある。
私はそっと彼の前へ膝をついた。
「そう思うくらい、怖かったのですね」
「……うん」
「怒ったのですね」
「……うん」
「それは、悪いことではありません」
レオン様がはっとして顔を上げる。
「……悪くないの?」
「大切なものが傷つきそうになったら、怒るのは自然なことです」
「……」
「でも」
私はやわらかく、けれどはっきりと続けた。
「その怒りに飲まれて、自分自身まで苦しくなるのは違います」
「……自分まで」
「はい。怒りは、振り回されるためのものではなくて……守るために使うものです」
それは、剣聖様の言葉でもあり、私自身がこの世界で、推しを守りながら学び始めていることでもあった。
レオン様はしばらく黙っていた。
長い銀の睫毛が伏せられ、その影が揺れる。
「……難しい」
「ええ。とても」
「僕、まだ、うまくできない」
「大丈夫です。最初から上手にできる人なんていません」
「……クロエは?」
「私は推しのことになるとだいぶ感情の制御が駄目です」
「……おし」
「いえ、こちらの話です」
危ない。
また本音が漏れた。
でも、レオン様の口元がほんの少しゆるむ。
よかった。
少しでも、張りつめていた気持ちがやわらいだなら。
私はそっと手を差し出した。
「少しだけ、こちらへいらっしゃいますか」
「……うん」
彼はためらいがちに寄ってきて、私の隣へ座った。
その肩はまだ華奢で小さい。
でも今日、私を守ろうとして怒った。魔力まで暴走させかけた。
それが嬉しくて、切なくて、苦しかった。
私はそっと、彼の頭を胸元へ引き寄せた。
嫌がらないのを確かめてから、銀の髪をやさしく撫でる。
「……クロエ」
「はい」
「僕、絶対、強くなる」
「ええ」
「今度は、ちゃんと、あなたを守れるくらい。誰も、あなたに触れさせないくらい」
「……」
だめだ。
それはだめ。
そんな真正面から、少し重い執着を込めて言われたら、限界オタクの心臓がもたない。
でも今ここで茶化すのは違う。
これは、この子のまっすぐで、少し危うい決意だ。
私は込み上げるものをこらえながら、やわらかく答えた。
「でしたら、私はその時まで、ずっとそばにいます」
「……ほんとに?」
「はい」
「絶対?」
「絶対です」
すると、レオン様は私の服をぎゅっと、白くなるほど強く掴んだ。
「……約束」
「ええ。約束です」
その声音は、最初の地下室の夜よりずっと静かだった。
でも、そこに込められた感情の重さはたぶん、あの時より何倍も増している。
ああ。
きっとこの子の中で私は、ただの味方ではなくなりつつある。
光で。
拠り所で。
何があっても手放せない、執着の対象になりかけている。
それが嬉しい。
でも同時に、絶対に間違えた方向へ行かせてはいけないとも思う。
私は銀髪を撫でながら、心の中でそっと誓った。
大丈夫です、レオン様。
あなたの怒りも、恐れも、重い感情も、全部ちゃんと受け止めます。
でもそれが、あなた自身を壊す刃にはならないよう、私が何度でもそばで整えます。
だって私は、あなたを幸せにするって決めたんですから。
その夜、レオン様が少しずつ落ち着いて、やがて私の腕の中で静かな寝息を立て始めるまで。
私はずっと、その小さな体温を確かめるように寄り添っていた。
窓の外は、深い夜。
けれど北棟の部屋は、浄化結界に守られたやわらかな聖域のまま、静かに光を抱いている。
――そしてこの“暗殺者丸洗い漂白事件”を境に。
継母側の人間たちは、北棟と私に対して、単なる邪魔者以上の“得体の知れない恐ろしい何か”を見るようになっていく。
不用意に手を出せば、物理的に何をされるかわからない。
そんな恐怖が、少しずつ彼らを蝕んでいくのだ。
一方で、レオン様の中では。
“クロエを守りたい”
“クロエを絶対に失いたくない”
“クロエに害をなす者は、世界ごと滅ぼす”
という感情が、もう子どもらしい依存や感謝だけでは説明できないほど、深く、暗く、重く沈み始めていた。
このときの私はまだ、
「いや本当に洗濯機みたいに暗殺者を回して制圧するとは思わなかったな!? でも結果オーライ! 推しも無事! 今日も家事チートが強い!」
などと、内心ではだいぶ元気に総括していたのだけれど。
たぶん、この夜は。
私が思っているよりずっと、彼の心における『激重執着』の大きな転機になったのだと思う。




